第46話:まつろわぬ情動
一話。
「やあ、目覚めたまえよ」
聞き覚えのある声だと思いながら、彼は目を覚ます。
ただ、目を覚ましても視覚はない。なんとなく何かを見ているはず、ではある。だがそれが何であるのか、太朗には識別できても理解できない。曖昧糢糊としたフィルターが掛けられているかのごとく、太朗は万事理解できない。自分に投げかけられた声に聞き覚えがある、ような気がするものの、しかしそれだけだ。何をいってるかまではわからない。
そんな、自分の名前すらわからなくなっている彼を、黒い少女は覗きこんだ。
「んふ? 解けかけてる、ねえ。脱した後に形を成していたところから、また解脱しかかってるよ。流石にそれ以上はないから、止めた方がいいと思うけれどね――藤堂太朗」
少女の言葉を受けて、ようやく彼は自分を取り戻した。藤堂太朗。今の姿は白髪。服というか胴体の部分は曖昧なエフェクトがかけられているが、たぶん全裸だろう。自分の顔面数センチの位置にある整った顔にぎょっとして、太朗は大きく飛び退いた。
それをみてにんまりと、悪戯っぽく笑う少女。綯夜宰である。その表情はとても十四歳ほどの見た目とつりあわず、独特な色っぽさがあった。
「……何ぞ、ここは」
「んん、天動説を体現化した世界というべきかな? あるいはヒュプノスとタナトスとの境にある楽園といったところか。今君がいる場所は、その最上層で何もないところだけど……。あまり愉快なところではないかな? 君らにとっては」
太朗の視界に映るのは夕暮れ。しかし沈む太陽の反対側からも既に新しい太陽が昇り始めている。見える景色全ては何一つ存在せず、ただただ広大な、真っ白な砂の平原が広がるばかり。
「まったく君は退屈させないでくれるねぇ。今回はちょっと減点だけど、それを差し引いても特殊だよ」
太朗に手を差し伸べながら、宰はくすくすと笑う。「血脈放棄してまで蘇ったのに、まさかそれをこんな簡単に投げ捨てるなんて」
手を取る太朗。少女の体と思えないような力で無理やり引き上げられ、彼は多少困惑した。
「……んなことやろうと思ってやった記憶はないんだが」
「でも、思ったんじゃないかい? 俺はもう何もできないって、何もする必要はないって。むしろ居るだけ邪魔だから、俺の存在に意味はないって」
「……」
「心身相関とは言うけれど、君の場合は両者が直結してるからね。心の方が上位にはくるけど、一網打尽になっちゃうからさ。まったく、ボクと再会もしてないっていうのに、勝手がすぎるんじゃないかね?」
ワイシャツの首を引っ張って、太朗のほっぺたをつんつん突く宰。指抜きグローブの先端の爪が尖っているため、ちょっと痛そうである。
「……再会って、今こうして話してるじゃないか」
「君、馬鹿じゃないかな? そういうのはね、面と向かって初めて言うものだよ。残念ながら今ボクは、君の夢の中に侵入して、こっちに引っ張ってきたところだからね」
「あん?」
「ヒトは死ぬ時に意識を失う。その際に心は、永劫に等しい時間をかけた眠りにつく。その今際のタイミングで介入して、無理やり君の心を生かしてる状態なんだよ。わかるかい?」
さっぱりだという顔をする太朗を見ても、宰は笑みを崩さない。多少嘲笑が含まれている気がしないでもないが、それでも彼女は圧倒的に愛らしかった。
「……俺は、どうなるんだ?」
「死なせないよ? あのまま行けば死んだろうけど、あんなこと『ごとき』を理由に、ボクの立てた脚本……、もといプログラムを無視させてなるものかっ!」
「プログラム?」
「うん。君はまだ気にしなくていいよ。今度会えた時にでも、楽しみにとっておきたまえ。
んん、でもしかし中途半端だねぇ」
空に手を向ける宰。すると数秒もかからず太陽は沈み昇り、お昼の時間帯のような日照条件へと変貌した。それを見ても無感情な太朗。だが口からは疑問が漏れた。
「……結局、アンタ何なんだ? 色々と助けてくれたりしてるみたいだし、レコーとかをつけたのもアンタだろ?」
「別に助けたつもりもないんだけどね」
宰は、太朗の顔を覗きこんで、少し思案する。やがて「うん、今なら少しボカして言えば、大丈夫かな?」と微笑み、切り出した。
「ボクは、そうだねぇ……。――Nλ∀√L∀⊥HOT∃Pといった所で発音はできまい」
「あ、あん? ヌルホップ?」
「どうやらまだ早そうだね」
というか何だいヌルホップって、と宰は太郎にチョップをいれた。
唐突に宰が口走った名称を、太朗は聞き取る事ができなかった。耳には入っていたが認識できなかったの方が正しい。だが聞き返す間もなく、宰は言葉を重ねた。
「で、どうするんだい?」
宰は、太朗にそれとなく聞く。何をだと太朗は頭をかしげる。
「ボクは、君に選択肢を与えた。百年単位で復活するところを二十年にすることで、まだ、取り返しがつく可能性を残したまま、君が何を成すのかを見てみたかったからね」
「……つまり、俺がこのタイミングで、弥生をどうしようもなくなったタイミングで蘇らせたのは、てめぇが原因ってことか?」
「感謝されこそすれ、恨まれるようなことじゃないんだけどねぇ。
大体だね、じゃ聞くけど君は最愛の相手が目の前で蹂躙されてる様を見て、まともでいられたかい?」
「……」
「完全に壊れて動けなくなってしまっていた彼女を、どうにか出来たかい?」
「…………」
「自分に出来ることを自覚するのも結構だけど、自分に出来ないことの自覚もきちんとしないとね。わかってるとは思うけれど。
うん、今君の中にくすぶってるその感情。大事にしてくれよ?」
んふふ、と言う風に、にたりと、非常に嫌な感情を起させる笑みを浮かべる宰。
「さて、じゃあ一応言っておこう。これから君が復活した後についてだ」
「後?」
「うん。今の君の肉体は、はっきり言って相当アレだからね。これを回復させるために、無理やり魔力を捻出する。そのために君につけた第三の鍵の制限をちょっとだけ外したから」
「もう終わってるのかよ」
「復活後の君は――おそらく、今までとは全く違う景色が見えることだろう。今までとは全く違う感覚を味わうことになるだろう。今までとは全く違う人生を味わうことになるだろう。それは、君が『進歩』した何よりの証なのだから。
その新しい自分を持って、何をするかだ」
「……何かやれって?」
「それは君が判断する事になるが――嫌でもやることになると思うよ? でもそれが、君にとって必ずしも全部が最良というわけでも、ないだろうけどね」
「……その悪趣味な笑顔やめろ」
愛らしくもどこか底意地の悪さをうかがわせる笑みを浮かべ、宰はくすくすと笑う。
「これはちょっとした雑談なんだけどね?
過程と結果と、その一連の流れがボクは好きなんだよ。結果として最悪になろうが最高になろうが、知ったこっちゃない。わかりやすく言えばエンタメだね。
誰が何と言おうと、ボクの大本になった神性はそういう属性を持っているから。どう足掻いても、ボクもその趣向に引っかかる」
「……てめぇ、ロクな死に方しねーぞ」
「自覚はあるよ。自分の悪趣味さを、言いつくろうつもりもないね。どこぞの神性とかと違って、ボクはそういった姿勢には謙虚でいるつもりさ。つまるところ悪意を持って一事を成すものは、存分に己が他者の悪意で蹂躙される覚悟をもつべきだと言うことだね。つまり悪魔とか、化け物とか怪物の倫理観だ。これがあるからこそ、普通は極端に酷い事ができないわけだね。まあ、同時に普通はここまで考えたりはしないわけだけど。
それはおいておいて、それでもボクは、綯夜宰『として』は普通に生きたいところだけどね」
宰は肩を竦めて、太朗の額にデコピンを一発入れた。
「さあ行きたまえ。今度会った時には、もうちょっと男前にしていたまえよ。
流石にリーゼントはないと思う」
「……いや、別にアレ好きでしてるわけじゃねーからな?」
「いやいや、好きでもなかったら普通ああはしないだろう」
そんな会話を交わしつつ、太朗の視界は段々と薄くぼやけていき――何も映なくなった。
※
光の繭が剥がれ、目をさました藤堂太朗。だが、彼は起き上がることが出来なかった。
「……、何ぞ?」
つぶやく太朗の眼前には、様々な文字が表示されていた。
《天井のシミの数:三十。雨漏りする前に処理を――――――――――――》
《ベッドの洗濯回数:六百回。このうち、誰も利用者がいない日にちは――》
《天候の流れ:曇天近し。人為的に操作された気流が――――――――――》
《藤堂太朗:十七歳。身長百七十二センチメートル。体重――――――――》
《空間の元素密度:水・三割、火・四割――――――――――――――――》
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膨大な数の文字列と知識が、藤堂太朗の頭に流れ込んでくる。いつもの様にレコーに質疑応答するところではない。例えば視線を降った瞬間目についたシーツの歪み一つをとっても、付随する情報が多く流れ込んでくる。それらが連鎖爆発的に次の情報を引き出して、というのを無限ループで繰り返すような状態で――。
「……何ぞ、流石にこりゃねーわ」
今度はまた別な理由で、藤堂太朗は気絶した。