第2話: 蜃気楼を目指すような無力感といえばいいか
ちょっと長いです
森の朝は、わずかに大気が寒かった。
木々の間から差し込む太陽に目をほそめつつ、藤堂太朗は上半身を起し周囲を確認する。
綯夜宰の姿はどこにもない。おそらくある程度、日が登った後にどこかへと退散してしまったのだろう。本人の弁を借りれば、観光中だったか。
「……って、おいおい」
彼女はいなくなっていたが、しかし彼女が昨晩座っていた場所には、袋に包まれた干し肉と、短刀と、木で出来た水筒とが置いてあった。そこには付箋(!)が貼り付けてあり、「今の持ち合わせで恵めるものがこれしかなかった。では、世界の終わりにまた」と定規で引いたような線のような文字と、逆さまに描かれた五芒星が記述されていた。
「マジかよ、ちょっと恩返しきれねーなこりゃ」
木に登ることも出来ない彼にとって、木の実は食料たりえない。キノコなども見分けがつくわけもないので同様であるからして、宰の置き土産は圧倒的なものであった。
手を合わせ、「ありがたくつかわせて頂きます」と感謝の念を送る太郎。それが宰に届いているかは定かではないが、こういう部分はきっちりとしておきたいらしい。
彼は、立ち上がろうとする。日課のラジオ体操をしようとしたようだ(無論ラジオ自体はない、暗記しているのだ)。
しかし、すぐさま崩れ落ちた。
「……は?」
足に力を入れたつもりだった。
しかし見れば、足に力が入らないはずだ。
ふくらはぎが、抉られたように斬られていた。
「……って、いやいや、これ普通死んでるだろ出血多量で」
あまりに深すぎて触る気も起きないが、もうちょっとえぐられてたら骨まで到達していそうなくらいの、そんな傷跡だった。しかし傷跡の表面には、まるで「塗りたくったような」かさぶたが張っており、出血することはなかった。
が、血液が通って居ない範囲も多いらしく、所々肉が黒ずんでいた。
「ウジわきそう……、うげ」
壊死した部分を見て、将来ありえそうな光景を想像する。そうと決まれば、彼の行動は即決だった。確認できる範囲の黒ずんだ箇所に、宰からわたされた短刀を刺す。あまり傷を見ないように、それでいて痛覚が接触しないよう丁寧に肉を削ぎ、服の袖をやぶり捲き付け直接止血処置をほどこした。痛みについて彼がどんな反応をしたかについては、あえて言うまでもないだろう。
「……これはこれで変な菌が入るか?」
消耗した様子で言う太朗。やってしまった。今更思っても遅かったと後悔したものの、彼はとりあえずその思考を放棄した。どちらにせよ、壊死した箇所が残っていればまともな部分もどんどん死んで行くのだ。多少は感受せねば。
「……しかし、帰らないとな」
ある種の使命感を覚えながら、彼は自分が飛んできた砦を探す。
山の向こうに、それらしのが見えた。
「……て、おいおいマジかよ。山二つこえてるじゃねぇのか? アレか、投石器に魔法でもかけられてたのか?」
口では色々言いつつも、彼は足を見て、血が止まるのを今か今かと待ち続けていた。
※
目印があるからか、幸い迷子になることはなさそうだった。
しかしいかんせん、距離が距離だ。現代のもやしっ子にとって、未知の経路+山道獣道というのはなかなかにハードだ。おまけに彼は負傷中。拾った太い木の枝を杖代わりにして歩いても、やはり遅いこと遅いこと。
二日目になろうというのに、未だ砦に至る未来が見えない。砦自体見えていても、距離感が大きく変わる事もなかった。
夜になると、流石にどうしようもない。ここら辺一帯は夜、モンスターも多い。仕方なしに、もともと持っていたマッチを使い火を起した。
「……本当、委員長には驚かされる」
両手を広げて(もっとも右手は常時開いたような状態だが)暖を取りつつ、彼はそう述懐する。
異世界に来ておよそ二週間ほどで、クラスの委員長たる牧島香枝はマッチを発明した。本人いわく「薬品とかは再現できなかったけど、似たような性質の樹液があったから、それ塗っただけ」と言っていたが、それをまず発見し、あまつさえマッチのようなものを作ろうというのが既に彼の思考の外だ。すごいといえる。こういったクリエイティブな仕事は太朗の性分ではないので、素直に賞賛できた。
「……大丈夫かな、弥生」
心配するは、自分の恋人。警戒するはその幼馴染。
阿賀志摩辻明は、花浦弥生は自分のものだと主張し太朗を殺しにかかった。いくばくかの偶然が重なり今生きているものの、彼の目的はほぼほぼ達成させられていると言えるだろう。あとは自分がいないという点に、合理的な説明させつければ完全犯罪の完成である。
弥生は、相当落ち込むことだろう。
そして、そこに辻明は取り入ろうというのだ。無論、弥生は拒むだろう。だが彼には前科がある。おそらくは、強引な手段をもってして、彼女の身体を――。
「……あー、アレだな。ちょっと望みのグレードを下げようか」
容易に想像できる結末に対して、彼は頭を振る。想定しておくべきことではあるが、それを考えて帰るための体力や精神力まで削られては、元も子もない。鋼のメンタルというわけでもないが、彼は案外柔軟な精神構造をしているらしかった。
「……自殺、しなければいいか。とりあえず生きていれば。身体も心も大変かもしれないが、とにかく死んでくれるなよぉ」
それだけ言いつつ、彼は横になる。周囲に意識を配りながら、段々と意識が薄れていく。一日中歩き通しなためその消耗は必然なものであった。
「……邪魔」
首元に這い上がっていた虫を握りつぶして、彼は今度こそ眠りについた。
※
五日目にして、食べ物を受け付けなくなった。
お昼のぶんの肉を一口入れた瞬間、悪寒が背筋をかけめぐり、思わず噛み千切ったそれを吐き出していた。
「……食べ物粗末にすんなって言われてんだがなぁ」
その自分の行動が、自分のポリシーに半する行動を身体が自然にとっていたという事実に、彼は驚き、いやな顔をした。
「とりあえず落ち着け、素数を数えるんだ。2、3、7、11、……」
口では数字を読みあげつつ、思考をいくらか整理する太朗。宰に言われたリミットたる五日を超えて、まだ自分は生きている。彼女が言っていた事と何が違うかと考察すれば、おそらくは食事だろう。食欲があろうがなかろうが、朝、昼、夜三食分は肉をちぎって食べていた。水も同様にとっていた。便通は最悪に近かったものの、しかしそれらの栄養素が、自分の生命を長引かせていたのかもしれない。
そう判断した彼は、袋の中を確認する。肉とてそんなに量があるわけではない。もってあと三日が良いところか。
ゆえに、地面に落ちた肉を広いあげ、多少水で流した後再び口に含んだ。
悪寒を我慢し、かまずに、無理やり飲み込む。喉越しにじゃりの感触があって気持ち悪いのを、水を流して無理やり飲み込んだ。
「……本当、綯夜には感謝だな」
これでまだ、しばらくは耐えられるだろう。そう判断して、彼はまた歩きだした。
※
翌日の晩、完全に食料を受け付けなくなった。
夕食時、朝昼同様に無理やり飲み込むと、胃液と共に排出されたのだった。喉と鼻を焼く、強烈につんとした臭いに、太朗は顔をしかめる。
「……いよいよもってヤバいか?」
ここ数日で、多少頬がこけた自覚があった。頬骨とえらが、以前よりも硬く感じられるのは決して気のせいではあるまい。栄養をとっていても、おそらく吸収効率は悪くなっていたのだろう。それゆえ自分の身体を切り崩して、生存せざるをえない状況なのだ。
そしていずれは、水すらもとれなくなり――。
「……なるほど、確かにこれは性格悪いなぁ」
生物を壊すのに、あらゆる意味で最適化された呪いであると太朗には感じられた。
しかし、そんなものに負けて居られるほど、彼のパッションは冷めて居ない。やや乱暴な態度から誤解されることもあるが、基本的に藤堂太朗は、前向きで、仲間思いだ。飄々としていた態度から、辻明に対して棘を向けたこともそれを裏付ける。それが原因で殺されそうになったとみることもできるが、しかし彼にも彼なりの矜持があるのは、間違いあるまい。
道は、ようやく山一つ超えた辺り。この計算で言えば、あと三日ほどで到達できるはずだ。
「それまで俺の身体が持つか……。えーっと、確か人間、頑張れば塩と水だけで一週間は生きられるんだっけか」
肉の表面をなめ、塩っけをまとわせた状態で水を飲む。
「……起きてても体力消耗するだけだし、寝るか」
そう言って、彼は上着で覆いかぶせ焚き火を鎮火した。
※
八日目、太朗はモンスターに襲われた。
「おいおい……」
崖に行き当り、地割れ跡で直進を遮られたり、また森で迷子になったりを繰り返しながら何度も何度も行ったり来たりをしている最中、彼は遭遇した。
狼だった。
体表面にマグマのような灼熱をまとい、漂わせる。そんな大きな狼だった。雨粒の振る中、水蒸気をたてる。さらには一噛みで、腕くらいなら全部持っていかれそうな巨体である。
ボルガウルフ――太朗の知識にはないが、そのモンスターはボルガウルフという名前だった。
『UUUUUUUUUUUU……』
狼は、酷く警戒しているようだった。毛を逆立て、牙をむき出していた。
こんな状況、かつて日本に居た時どころか異世界に来てからもはじめての体験である。おまけに今の太朗は、大きく行動が制限されている有様だ。
「う、うごくんじゃねーぞ……?」
当然、太朗は逃げ出そうとした。情けないが、普通の判断である。足音をたてぬよう、そろり、そろりと後退する。
『AOOOOOOOOOOOOOOON!』
しかし、狼はそんなことおかまいなしだ。
飛びかかられる太朗。とっさのことで判断ができない。辛うじて、杖代わりに使っていた枝で、狼の身体を殴ったくらいだ。反撃は予想していなかったのか、狼も怯む。だが、その隙をついて逃げられるほど太郎は身体能力が高いわけでも、ましてや健全な状態なわけでもなかった。
杖が地面から離れた結果、彼は体勢を崩した。
そして地面に転がる際、その勢いでぐるぐる回転し、山を下ろうとする。
「きもちわりいいいいいいいいい……」
思わず口から零れる感想。だが、狼はそんな太朗に飛びかかる。腹が爪にえぐられ、太朗は絶叫を上げた。気絶こそしなかったが、太朗は動けない。狼はそれで仕留めたと考えたらしく、彼の胴体を咥えてのそりのそりと歩き始めた。
移動した先は、縦穴というべきか。洞窟というには浅く低い。巣穴に帰った狼は、咥えていた太朗をぺい、と投げ出した。
「……」
『AOn?』
太朗の目の前には、小さな狼が居た。見た目はほとんど子犬に毛が生えたようなものだったが、表面のどろりとした印象には、違いあるまい。きょとんとした感じで頭をかしげる仔狼はたいそう愛らしいが、しかし背後から聞こえる『AOON』という唸り声が、まるで「喰え」と言われているようで、太朗は渋面を作った。
『AOOn?』
ちょん、ちょんと太朗の顔をたたく仔狼。されるがままの太朗だが、微妙な鬱陶しさやら可愛らしさやらで表情が色々変わる。それが面白いのか、仔狼は何度も彼の顔を叩いた。
『……AOOOON』
呆れたように、彼を抱えてきた狼は巣穴の外へ出る。その様子は、まるでおもちゃで遊ぶ子供に「ほどほどにしなさい」と言って仕事に出かける母親のようであった。
「……てい」
『On?』
なんとなく、左手で仔狼の頭をなでる太朗。やはり反応はきょとんとしたものだ。
その仕草がなんとなく弥生を思い起させ、太朗に再び生きる気力を与える。こんな場所でいつまでもくたばっていて良いわけはない。ならば、どうするべきか。この場に居ても、おそらくおもちゃかエサ以外の未来はあるまい。ならいっそ脱出すべきか、と考えても、結局案は思いつかない。
「どうしたもんかねぇ……」
『AOOn……』
耳の後ろのあたりをちょいちょいやっていたら、気持ち良いのか目を細める仔狼。なんとなくそれを見てたら、ついつい続けてしまう太朗であった。
そんなことをして時間をつぶしていた時、事態は動く。
「……ん?」
『AOn?』
既に仔狼を抱えて首筋の裏とかを揉み出すに至っていた太朗であったが、流石にこれには違和感を覚えた。
聞こえるのは、風の吹き荒れる音。木々が燃える音。そして――わずかばかり、ヒトの叫び声か。
「ひょっとして、ヒトがいるのか? 今」
立ち上がろうとするが、やはり動くことはできない。と、思っていたら突如、彼の手もとの仔狼が、腕を抜け出し走り出した。「あ、こらどこ行くんだっ!」
『AOO! AOO!』
叫び疾走する仔狼。足の長さが足りず全然速度が出て居ない。太朗がごろごろ回転しておいつけるくらいの速度だった。仕方ないので、彼は仔狼を追いかける。巣穴を抜けた後、臭いをかいで仔狼は更に走る。
方向は、どうやら山の上の方らしい。
転がっている途中、魔術師とかが使っていそうな杖を見つけたので、それを手に取り立ち上がる太朗。
しばらく歩いた先で、彼等は見た。
「よっしゃー、狼さばいたぜー!」
カチドキを上げる姿は、紛れもなく彼のクラスメイト。
その足元には、丁度胴体を縦に掻っ捌かれた狼の死体が――。
「……」
太朗たちは木の影になって、おそらく彼等に見つかる事はないだろう。だがそれでも、太朗は思わず両手を合わせて合掌した。自分たちの都合で殺すのだから、そこには一定の敬意と、弔いをもたなければなるまいと、彼はなんとなくそう考えていた。
「あん、あれ、ひょっとしてコイツまだ生きてるのか?」
と、少年が狼の顔を覗きこむ。次の瞬間、その牙が開いた。
「おっと!?」「――『火よ、とく球として撃ち出せ』!」
彼の背後から、火球が放たれる。おそらく魔法だろう、直径三十センチほどの火の玉だ。狼の顔面を焼くそれを見ながら、男子生徒は後ろを振り返り、快活な笑みを見せた!
「おお、悪い済まない!」
「ふふ、別によろしくてよ? そんなことより、早く帰って食事が食べたいですわ」
「この狼の肉、調理方法ないらしいからなー、勿体ねー」
魔法組と戦闘組のコンビの動きは、まだまだ練度が低いまでも、それなりのコンビネーションを見せていた。
だが、そんな慢心があったからこそ、彼等は気付けなかったのかもしれない。
幸か不幸か、太朗は気付き、叫ぶ。
「――何やってんだ、逃げろ馬鹿! 土砂崩れだ!」
「は?」「へ!?」
どこからともなく聞こえた声に、両者は驚き、崖の上を見る。雨天ゆえかゆるんだ地盤が、そのまま土砂とともに流れ落ちてきていた。陸の津波といっても過言でない、そんな猛威が二人を襲う。しかし、少女の方が魔法をつかい少年の手を引いた。両者はありえないほどの跳躍をし、高所へと避難。位置的には、太朗の位置も土砂の流れからは外れる位置にいる。背の低い木がちょうど邪魔をする形になっており、石ころとかもあまり飛んできてはいなかった。
だが、想定外の事態というものは往々にして起こるもので。
『AOn!』
「あ、馬鹿!」
母親の死体が流されていくのを見てた仔狼が、土砂の流れに飛びこむ。
特に何も考えていたわけではなかったが、それを見た太朗も、反射的に後を追い――二つの影は、クラスメイトに見られることもなくその場から消えた。
※仔狼はレギュラーキャラではありません