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ロマンチック・ライブラリー

ちょっと失礼

作者: 狂言巡

 遠くで、チャイムの音が聞こえた。タイミングからすると、それは休み時間の終了を知らせるもののようだ。確かうちのクラスは日本史だったなぁ。ある少年――誉一よいちは細かい活字を追う傍ら、頭の隅で単元の進み具合を確かめる。今日は出なくても問題はないと判断したらしく、膝の上に広げた本に没頭することにした。

 図書館の窓硝子というものは、不思議なものである。明かりを透しているはずなのに、光は弱められて木の床に落ちる。紙を灼き尽くすまでには至らぬ淡い陽射しは、ペェジを白く照らしても目を傷めるほどではないからだ。けぶるような光の中で、誉一は床にあぐらで座ったまま異国の伝奇物語を読み進めます。また学年が一年上がって、友人たちとは一人、クラスが離れた。たまに授業に出ていなくても、小言を言われないのは、ありがたいものである。

 陽の光と少しの埃と、紙の黴くさい、独特の空気。其処に突然、蜜蜂の群れが餌を運んできたような、かすかなざわめきが混じり出した。視線を上げた眼鏡越し、書棚と窓に挟まれた、細い通路を見遣る。古びた、しかし艶のある木目の床。等間隔ではめ込まれた窓から、正方形の明かりが伸びていた。宙を漂う細かい埃が、光を浴びてちらちらと舞っている。

 どうやら、何処かのクラスが授業に図書館を使うようだ。旧校舎と新校舎の敷地の間に座っているような、図書館。公共の場ではないから、生徒たちもわざわざ声をひそめようとはしない。吹き抜けの高い天井に、高い声や低い声が響く。奥まった場所にいる誉一の元へは、その声は遠くで電車が行き来するような、形の持たない音として届くだけだった。

 窓際の突き当たり。壁を背にして床に腰を下ろせば、右は窓、左は床と天井を結ぶ背の高い書棚。完全な袋小路だ。棚に収められた書物は、古めかしい全集たちばかり。長年誰も触れていないのだろう、うっすらと灰色の埃を帯びて、並んでいる。ひっそりとした人気の無い一角で、その本たちは眠りこんでいるように思えた。

 それらは誉一の生まれるずっと前から其処にあり、恐らくは死んだ後にも、其処に在るのだろう。それを思うと、時時眩暈のするような気分にかられた。まるで時間の止まった、深い森の中にいるような気がするのだ。

 そんな場所であるから、ほとんどと言っても過言ではない程、この辺りに人が立ち寄ることはない。閲覧席や比較的新しい読み物がある場所は、ずっと遠いのだから。活力と生命力を全身から発散させているような生徒たちと、此処とは、見えない何かで隔離されているかのようだ。それが尚のこと、誉一にとっては好ましいものだった。ひそやかなざわめきを意識の中から閉め出そうとし、ふと誉一はそれを止めた。この一角へ、誰かが近づいていることに気づいたのだ。

 聴覚が拾う足音よりも、その気配ともいうべき何かを神経が捉えた。膝の上に堅い表紙の本を置き、顔を上げる少年。やがて通路の交叉する書棚の陰から、細身のシルエットが現れた。木陰からそっと姿を見せたようでもあった。次いで見えた、波打つ長い髪が淡く陽射しに溶けている。


「おったおった」


 意外そうでもなく、同級生の女生徒はにっこりと笑いかけてきた。誉一のささやかな秘密基地を、本人以外に知っているのは部の先輩と、彼女だけ。誉一は眼鏡の奥の紫紺の瞳を細めて、微かな笑みを返す。それと同時に、来るとすれば彼女だろうと、心の何処かで思っていたことに気づいた。


「来ていたのは、彼方のクラスだったんですね」

「煩かったらすまぬなあ……そちらへ行っても、よいか」

「どうぞ」


 目で招くと、夜空は少年の隣にそっと腰を下ろした。書棚と窓の間の袋小路は、少し空間しか空いていない。並んで座ると、お互いの肩が触れ合うことになる。


「サボタージュして、いいんですか」


 本に目を戻しながら訊ねると、夜空はくすりと笑いを零すだけ。


「お前様こそ」


 微笑を含んだ(アルト)は、時間の止まった一角にやんわりと溶けていく。夜空はそれ以上何か話しかけてくることはなく、辺りにはまた水の中のような静けさが戻った。

 文字を追う一方で、思考の十分の一程を割いて、誉一は傍らに座る級友に意識を向けました。夜空は何も持ってきていなかった。膝を緩く立て、塗料は塗られていないが爪がきちんと整えられた両手はふわりと膝に置かれている。何をするでもなく、ぼうっとしているようだった。窓から差し込む陽射しにあたっているようにも、見えた。本のひそかな寝息を聞いている、ようにも見える。

 誉一にとって、この級友(ゆうじん)は不思議な存在だった。いても、全くといって気が散らない。かと言って、空気や植物のようには、全く感じなかった。彼女の存在感はくっきりと、其処にあります。生き物が蹲っているような感じを、確かに受けるのだ。

 大人しい猫のようだと言ったのは、彼女の幼馴染みを筆頭とした彼女を知る、大体の人間の感想である。誉一もそれに同意しながら、誉一は夜空が愛玩(かわいい)動物のようだとは思えなかった。……獅子や、狼、熊や虎。そういった、決して人には馴れない獰猛な生き物。そういった種であるにも関わらず、突然変異で心優しく生まれついてしまった、『けもの』。

 そうであるような、気がするのだ。触れ合った肩先から、温もりが伝わってくる。夜空の息遣いも体温も、優しい沈黙も、誉一にとって自然なものだった。肌触りのよい、天気にいい日に干された毛布のように、安心感とも言えた。


(それがいつでも、自分の傍にあればいいのに)


 そう思うことは、しかし、彼女の幼馴染に対する裏切りになってしまう。いつの間にか、目はインクの文字を追っていない。並ぶ文字の列をただ漠然と眺めるだけ。ペェジをめくる指先が止まっていることに、隣に座る級友は気づいているのだろうか。誉一はほんの僅かに身じろいで、小指の先程の距離をとった。

 めいめいで調べ物でもはじめたのだろうか、遠いざわめきは、いつしか途絶えている。夜空は、ひっそりと眠る書棚の蔵書たちと一体化してしまったかのように、ただ静かに座っている。誉一はそっと眼鏡を外した。目を覆う薄い硝子の幕が外れても、映る景色ははっきりと視界に飛び込んでくる。――せめて視野がぼやけるのなら、まだ良かったのに。

 彼は青白い眼窩を押して目を閉じた。眠ってしまった自分が温かな肩に身を寄せるだけならば、許されるような気がしたのだ。

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