煙も残り香も
今日も皆様の恋人のお話を拝聴させて頂きます。
「本日は自社の取材に御迷惑を承知の程、親身に対応して頂き、またわざわざ御足労をお掛けした事に感謝しております。」
謝辞をする対面に座する女性は鞄から名刺入れを取り出し、その中の一枚を僕に差し出した。
此処は今時珍しく全喫煙席で何処を覗こうとも煙草の煙がくゆりと昇り、あらゆる銘柄の匂いが独特の雰囲気と誘惑を醸し、久々に欲求に駆られる。
その中、女性は別世界に居るような、平然と自己紹介をした。
「月刊春情心中にて何時か夢見た活劇嬢を担当しております、菅野と言います。」
そうして深々とお辞儀する彼女は聡明で自立した女性を彷彿とさせ、しかしお高くとまり、お固い印象は受けず、寧ろ物腰柔らかそうな笑みをしつつ諸々の準備をしていく。
「あの、活劇嬢とありますが。」
何故、僕がこうして呼ばれたのか疑問を投げ掛けずにはいられない。でも心当たりは常に胸につっかえたまま菅野が涼しげにこのムカムカを取り払ってくれないかとも希望していた。
「はい。私の担当記事は主に女性の、それも恋煩いに関する話を載せてあります。ですが、当人にそれを拝聴しますも主観的で感情論に富び、正確な記事を書きますに支障をきたしてします。」
菅野はそう言い止め、既に注文してあった珈琲で喉を潤す。
「そこで当人と最も関係の深い恋人、ここでは貴方ですね。その人に訊ねるのが一番なんです。当人の愛を常時受け止め、尚且つ客観して、更にその人の心情が物語に命を吹き込むのです。」
訝しげに僕は「命をですか?」と問うと菅野は従順に「はい」と答える。
「私は事件と纏められ、埋もれてしまった女性の純なる恋情を皆様に知って貰いたく記事を書かさせて頂いております。誰しも殺意があって犯行するのではなく、そこには少なからず愛情があると私は考えているのです。なので、こうしして彼女たちの思いを知って頂くことで救いと理解者があるのだと、埋もれ半ば死んでしまった感情に命を与えるのです。」
生真面目に答えているかと思うと急に表情を砕き「誰もが女優なんです」とお茶目に答えるあたり、菅野はまだ陶酔し、妄信的に誰かを愛していないのだと思う。
「それで、灯火 円良さんですか、魅力的な名前ですね。」
菅野はファイルを手前に移動し新聞をスクラップしたのだろう大小様々な記事が所狭しと見開きを埋め、流し読みしつつ取材を始めた様で録音機を起動し僕に話を促す。
「そうですね、円滑に良しとする。そうした、全てを取り纏める器量さを備えてほしい事と煙草好きなお父さんが付けた名前だと言ってました。」
発言に頷きながら脇に置かれたメモ帳に走り書きをしつつ、耳を傾け僕の言葉を待っているようだった。
「それじゃあ、僕と円良の出会いを」そう言いかけた時、菅野は人指し指を僕に向け「そこは省いて下さい」と興味無さげに注意した。
「私が聞きたいのは愛が一番燃えた時、円良さんが犯罪を起こす前後を聞きたいのです。」
成る程、僕は冷やかに菅野を見下した。と言うのもやはり菅野は野次馬と変わりない、一般大衆な人種なのだと氷解したからだ。所詮は他人事、何処にでも転がっているような退屈な恋愛話よりも盛り上がりに長けた事件前後を、それも親い人物から聞いた方が面白いに決まってる。侮蔑めいた取材かもしれない、それでも誰かに話さなければ、誰も僕の気持ちを理解してくれないのだろう。
「分かりました。では、私が煙草を止めた理由としてこの話を聞いて下さい。」
そうだ、僕はずっと話したかったのだ。
「彼女と…円良と出会ってからも僕は煙草を止めませんでした。その頃には習慣として身に付いたものですし、仕事のストレスからも煙草は手放せませんでした。幸運な事に、先もお話ししたように円良のお父さんは愛煙家でしたので彼女は嫌がりもせず、寧ろ関係は親密になったと思います。昔から煙に囲まれていたせいか煙草を吸っている人は自然と親しみを持つと円良は言ってたので同棲に至る過程は容易に手早かったと思います。その頃から、円良は家事炊事の他に僕の煙草に火を点ける事が日常となりました。結婚式よりも先の共同作業であり、崇高で互いを理解する丁度良いものだと彼女は熱く語っていました。それに僕が吐いた煙は何よりも鼻腔を擽り安心出来ると言い、常に傍にいて決して僕にライターは持たせて貰えませんでした。勿論、外でしかも一人で吸うことは許されないようで、運悪いことに円良は鼻が利くらしく直ぐにバレてしまうので家でしか吸わなくなりました。」
僕は溜め息をつき、出来るだけもうもうと立ち込める煙を見まいと窓の外を覗きました。菅野は俯き必死に速記し、また切り貼りされた記事とを照らし合わせ、書き連ねていたようで、話を止め少しばかり気を落ち着かせていても何も言わなかった。
「それで円良さんとは順次上手くいってた訳ですね。」
「そうですね。ただ日に日に束縛が強くなっているようにも感じました。僕の匂いが損なわれるとかで同僚との接触、それも香水を付けた女性は特に毛嫌いし、よく喧嘩の材料にもなっていました。それでも二人の関係は冷める事はなかったですね。なんだかんだで僕も彼女が好きでしたのでそうして頼られて、好意を示されて舞い上がってたんだと思います。ただ、やはり少々怖くもなりました。円良が常に僕を見張っているようで、友人に相談することにしたんです。その人は喫煙家で酒豪な女性なのですが男勝りで歯に衣着せぬ物言いが何とも快く、よく飲みに行く関係でした。煙草もそうですが香水もつけず、化粧も施さない面倒臭がりな人なので円良もあまり注意はしませんでした。しかし、それが良くなかったみたいです。」
今、思い出しても罪悪感で一杯で言いあぐねていると菅野はちらと僕を睨み「どうなったんですか」と先を知りたがっていた。
「週刊誌や証言禄書にはその友人については確かに書かれておりますがその後については何も書かれておりません。ただ、痴情の縺れと書いてある事を鑑みるに」と菅野は既に答えを知っているようだが僕から言わせたいらしく、ゆっくりと頷き「そうです」と懺悔にもにた言葉を続けた。
「お酒のせいと言えば無責任かもしれません。でも、円良の束縛が鬱陶しくなっている所に優しく接せられた事で劣情を抱いてしまったのです。気付けば、友人と一夜を共に燃え上がり久しぶりの自由を得たように感じたのです。友人はあっけらかんとして特に後ろめたさなど無いみたいでさばさばとしていましたが、僕はというと後の祭でどう彼女に話せばいいか、どうお詫びを告げればいいか、そればかり懸念していました。なので、円良は常に怒っているように見え、ご機嫌取りばかりしていたと思います。今さらながら、早く告げ謝れば事態は軽く済んだのかもしれません。今だから言えることですが。」
「円良さんの御様子は常に怒りを纏っていたと仰りますが具体的にはどうでした?」
「さあ、何と言えば良いのでしょう。口数も少なかったですし、何処か心此処に在らずといった具合でした。気遣ってみても生返事ばかりで煙草を取り出しても言われて気付く位、無関心みたいでした。」
「その友人と肉体関係を築いてからどれ位経ってから事件は起きたのでしょうか?」
「あれは一週間後でしょうか。その日は漸くいつも通りの彼女に戻りまして、外出することになってのです。仕事帰りと言うこともありまして駅前を待ち合わせ場所にしまして、買い物や食事をして帰ろうと円良は計画していたようです。そうして、帰り道、やけにサイレンやら緊急車両やらが騒がしいなと思っていた矢先でした。遠くからでも夜空が赤く染まり、火事である事が一目瞭然でしたが、更に近付くにつれ、そこが友人の住む一室であると気付いたのです。私は茫然と立ち尽くしていましたが円良は僕の耳元で一言囁いたんです。」
最後の一言、それを言おうとした時、菅野は身を乗り出し瞳を絢爛と輝かせ、これまでで一番の笑顔をし、興奮しているのか若干充血し血色も炎の様に明るくなった。
「それで円良さんは何と言ったのですか?」
「オカシイよね。君を呑んだのに君の匂いはしないんだから。」
「本日はありがとうございました。これ少ないですが取材料です。」
菅野は満足げに快活に言い放つ姿に幾分僕の心は軽やかになった気がする。結局、円良は自首した事で事件は解決したが彼女がああ言った後に呑まされた煙草の味は今でも忘れない。
そして、彼女が笑顔で火を点ける姿が脳裏に焼き付き、一生忘れる事は出来ないのだろう。この世から愛煙家が居なくなるまで。
「本日もお疲れさま。」
誰に言うでもなく呟き、背伸びをし体を解す。やはりデスクワークは肩が凝る。
それでも家に帰れば愛しい愛しい彼が待っている。
それだけで疲れは一気に吹き飛ぶ。
「直人君、最近色々あったから癒してあげないと。ね?」