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番外短編1「前夜」

「――ッキサマ~~~!!ふざけるのもたいがいにしろ!!!!」

 朝もや漂うのどかな温泉村に響き渡る少女の声は、いまだ幼いその高さに似合わず不穏当なものだった。

 続けてガタンッと何かがひっくり返る音、ドアの乱暴に開け閉めされる音、小さな速い足音。

 母の朝食の片付けを姉と一緒に手伝っていたチャトムは、壁越しにでもはっきりと聞こえてくる聞き慣れた一連の物音に、皿を抱えたまま姉と顔を見合わせてしまう。

「……また……やってるみたいね……」

 一番上の姉のチェリナは、大皿を拭きながら、細い肩をすくめた。

 母はふふ、と笑むと、泡だらけの手を再び流しに差し入れる。

「そうねぇ。あの子もよく飽きないわよね」

 なにやら嬉しそうですらある。

 あいにく年季の違いか、チャトムは彼女ほど泰然としていられなかったので、

(これが終わったら様子を見に行こう)

 と思った。

 皿を持って食卓と流しを往復する足もつい速くなる。

 ――と。

「フーリウ」

 突然母に呼ばれた。

 これはチャムチャム族特有の家族の呼称で、古いチャム語で「6番目の白の子」というような意味だ。

 ちなみにチェリナは2番目になるので、「ロウ」と呼ばれる。

 大家族のうえに独特の似たような名前を持つ彼らは、兄弟順で子供を呼ぶ慣習を持っているのだ。

 ただし兄弟の間ではお互いの名を呼ばなければならない。

 年齢よりも、世代が重視されるチャムチャム族の社会では、兄弟というのは同列の存在だから、だそうだ。

 理屈はさておき、チャトムにしてみれば小さいころからの習慣なので、すでに身に染み付いてしまっていて、母にそう呼ばれることにも、姉や兄にチャトムと呼ばれることにも違和感はない。

「ん?なに?」

「ごくろうさま、もういいわよ?」

「へ?」

 まだ洗い終わった皿をしまう仕事が残っているのだが――とチャトムは首をかしげる。

「気になるんでしょう?行っておあげなさいな」

「あとはあたしたちでやっておくから」

 ――母にも姉にもしっかり読まれていた。

「~~~お昼はもっとお手伝いするからっ」

 言いつつ慌しく扉に駆け寄る。母の柔らかい笑顔と姉のにんまり笑いが見送った。

「いってらっしゃい」

「ま、昼を楽しみにしてるわ」



 今度と言う今度は徹底的に、断固として、心底、愛想が尽きた。

 一体「アレ」は、ものごとを考えて生きているのだろうか?

 いや、その日の気分と思いつきと母のことだけで生きているに違いない……。

 くそ、なんだってこんな不愉快な、当たり前のことを、日に何回も繰返し自問せねばならんのだ……!

 奴が常識や思慮というものを欠片ほどでも持ち合わせていたら、こんなむかつく思いはしなくてすむのに……。

 ナーリェは苛立ちにまかせて荒々しく足踏みし、フツフツわきたつ怒りに胸を焼いていた。

 常ならば13歳という年の割に落ちついた物腰の美少女なのだが、今は怒りに歯軋りせんばかりだ。

 もっともその脳裏に渦巻くボキャブラリーも、やはり年の割に発達したものだったのだが。

 ちなみにここは村の奥の広場だ。

 1秒たりとあの場にあって奴と同じ空気を吸っていたくなかったので、早々に家を出た。

 村の集まりなどに使われることもある広場には、堂々たる桜の大木が一本中心に生えている。その根元に座りこむ。

 つぼみはまだ固い。今年は多分花は見れないだろう。

 そう、このつぼみが綻ぶ前に自分は別天地へ赴くのだ。しばらくはきっと帰ってこない。

 その街の名を、ティルバイという。

 別名『学院都市』――魔法士たちの聖地だ。

 そこで知の母と称えられる老女と出会ったのは昨年のことだが、以後成り行きというか奇縁というか、彼女のおかげと入学試験に向けた自身の努力のかいあって、ナーリェは学院に入学できることになった。

 全く新しい生活には、彼女とて期待もあり不安もあり、人並みにそわそわしたりもしていた。

 まあ、親しい人や土地を離れるのはさすがに淋しかったが、あの考えなしともしばらく縁切れかと思えばそれはそれでめでたい気もする。していた――のに。

 なんだって出立前にこんなに腹立たしい事実を告げられねばならんのだ。

 再びそこに戻って柳眉を逆立てていると、ぱたぱたと聞きなれた足音がした。

「あ、やっぱりここだった~」

 にこにこ近づいてくるのは、ナーリェと同じくらいの年恰好の、しかし年相応に愛らしい少女だ。

 ぴこぴこ揺れる頭上の猫のような耳と、足に合わせて左右に振れるしっぽが、彼女がチャムチャム族であることを明確に示している。

 彼女はチャトム。数年来の親友であり、このたびナーリェとともにティルバイに入学する運びとなった、これからの同居人だ。

 チャトムはまだ固いはずの桜のつぼみがほころんだかと思わせるような笑顔を浮かべて、

「ナーリェってお父さんとケンカするといっつもここにくるもんね」

 とほのぼの言ったが、ナーリェは決死の勢いでせき止めた。

「よしてくれ……アレを、そんな風に呼ぶのは……!」

「あ、アレ……って……」

 チャトムは困惑した風に耳を左右に振ったが、ふるる、と首を振って気を取り直したらしく、すたん、とナーリェの隣に座りこんだ。

「で?今日は何があったの?」

 ふわふわした茶色の髪を揺らして覗きこんでくるチャトム。

 ナーリェは思わず天を仰いだ。

 もちろんそこに何か救いとなる物体が浮いているはずもない。

 まだ葉の出ない堅い枝が交差する先に、青い空が見えるばかりだ。

「ナーリェラッテ=カラール=シェ=ラーム=ローフェラム」

 ぽつりとつぶやくナーリェ。

「……は?」

 何の呪文?という顔のチャトムに、ナーリェはもう一度繰り返す。

「ナーリェラッテ=カラール=シェ=ラーム=ローフェラム――私の名前だそうだ」

「……???」

 チャトムはまだ要領を得ない顔をしている。

 無理もない。姓を持つ習慣のないチャムチャム族の彼女に、名前の長さが示すバカバカしい意味なんぞ分かるはずもない。

「私の……その、アレが、貴族くずれだってのは知ってるよな?」

 どうにも父親という単語を奴に対して使いたくなかったので、妙な言い方になったものの、チャトムはうなづいてくれた。

「でも今は勘当されて、ただの平民だ。由緒ある貴族だとかいう家の名を名乗る事も許されてない」

 チャトムは大人しくうなづきながら聞いている。

「それはいい、それはいいんだ。私だってそんな煩雑なものを嬉々として背負うような人種は好きじゃない――が!」

 眉を逆立てて拳を堅く握るナーリェに怯えつつチャトムはうなづいた。

「奴は自分はさらっと捨てたその長ったらしい名を、私には無理矢理押し付けたというんだ!私の知らないうちに!!」

 いつのまにか立ちあがっていたナーリェを、チャトムは唖然と仰ぎ見た。

 内容というよりその勢いに圧されて。



 ことは今朝。学院入学の正式な手続き書面の用意に発する。

 未成年であるナーリェは面倒がる保護者(アレに保護された記憶など一度もないというのに理不尽な単語だ)を付き合わせて、書面に必要事項を記入していた。ちなみに現役の踊り子である母は別室で踊りの練習をしていて不在だ。これはよくあることなので気にしない。

 そんなとき、姓名の欄に、さきほどの長ったらしい名前を書かされたのだ。

 はっきり言おう。

 過去13年生きていて、自分の戸籍上の正式名がこんなものだと知ったのは、今日そのときが始めてだった。

「おい……ちょっと待て」

 ナーリェは声を低めて、明らかにやる気のない――彼が熱意を発揮するのは、自分の最愛の妻に関する事柄に対してだけなのだ。娘なんぞほとんど眼中にない――彼をにらんだ。

 投げ遣りな態度で各種書面に向き合っていたその男は、白い顔を上げて薄いとび色の目を半眼にすると

「なに?つづりが分からない?」

 とかのたまいやがった。

 いっそ平然としらけるその顔をなぐりつけてやりたい。

 いや、ダメだ、ダメだ。そんなことをしたら、豪胆な母はともかく、自分を我が子のように可愛がってくれているチャトムの両親が悲しむ。

 自分の親を殴るなんて、と、あの小柄で可憐な(8児の母だというのにこの言葉がしっくりくる女性なのだ)チャトムの母親に、涙をにじませながら言われたりした日には、私は確実に1週間は落ち込むだろう。落ちつけ。冷静になれ。

 ナーリェは握り締めた拳を机のカゲに隠した。13歳の少女とは思えない自制心だ。

「……そうじゃない。なんだその名は?」

「何って、君の名前だけど。自分の名前も知らないの?」

「………ッ」

 一瞬火を吹くような殺意を覚える。

 いや、冷静に冷静に。チャトム達は、信じられない事に、こいつのこの、年相応の重厚さってものをまっっったく感じさせない軟弱な顔を誉めているのだ。一般に言うと端整なんだそうだ。

 こんなバカの唯一の取り柄を潰しちゃいけない。

 考えてもみろ、こんな奴がたったひとつ、人を快くさせることのできる美点なんじゃないか。この顔は。殴って変形させでもしたら救いがない。

「私は確かにナーリェだ。ナーリェラッテ。……だが、それ以降についてる蛇足はなんなんだ!?」

「いやだなぁ、君のミドルネームと階級称、最後のが名字じゃないか」

「………!?」

 ローフェラム。なんか知らんが結構な伝統を誇る名家の名前らしい。それとファーストネームとの間に挟まるミドルネームだの洗礼名だのが、その貴族の格を示すのだと言うことくらいは知っている。

 そう、世間的な事実として、いわば他人事として知っている。それだけだ。

 はるかな帝都に本家があるらしいが、もちろんナーリェは行ったことがない。

 なんでそれがわが身に降りかかってくるのだ。身に覚えは……自分の身には覚えがないが……心当たりがひとつ。

「それはキサマが捨てた家の名前だろう……!?」

 そう。彼はかつてローフェラム家の三男坊という身柄だった、と話に聞いた。きっとどうしようもない放蕩息子だったに違いない。日は東から上る、というのと同じ位の確信を持って断言できる。

 それが異国からきた踊り子だった母に一目ぼれして、駆け落ちしたそうだ。

 なんとも三文芝居そのままで恥かしい限りなのだが、お約束に勘当までされて、家名を名乗ることは禁じられているはずだ。それでぷっつり終わり、のはずが、何故自分の代にその名が降りかかってくるのか。

 理不尽さを疑問にして口にすると、かつての放蕩息子はへらへらと、

「うん、まあ僕は捨てたけど。君の家名権は取っておいてあげたんだよ。本家までいって交渉してね~。結構大変だったな、アレは」

 なんと生まれたばかりのナーリェを連れて、わざわざ勘当された本家へ行って、自分はもう名字はいらないが自分の娘には家名を名乗る権利を認めろとごり押ししたらしい。

「な、な……なんだそれは……!!」

「ちなみに相続権もあるよ。確かえ~と……第23位だけど。……あれ?不満?でも末席じゃないと認めて貰えなかったんだよね~。まあもっと高位になりたかったら君が頑張りなさい」

 頑張るって何をだ。

 上の22人を排除して当主にでもなれというのか?

 冗談じゃない!!んな厄介なものがいるものか……!!

「なんだってそんな面倒な事したんだ!!」

 血管が切れそうなナーリェをよそに、彼は「え~?」とのん気な声をあげた。

「そりゃ、僕には必要ないものだけど、君は欲しいと思うかもしれないでしょ。選択権をあげるのが親の義務ってものだと思って」

 親らしいことなど一度もしたことがないくせに、なんでこんなどうでもいいことで義務感を持ちやがるのだ、この男は!?

「私だって長ったらしい家名なんぞいらない……!!」

 これは心底そう思った。

 行ったことのない帝都なんかではない、この温泉村がもう自分の故郷だったし、純朴な村人やチャトムの家族たちが呼んでくれる「ナーリェ」というのが自分の名だ。それで充分だ。

 それ以上の価値は自分でこれから作るのだ。『学院』へ行って。夢を叶えて。約束を果たして。

 その光り輝くビジョンに比べたら、カビの生えたような貴族の末席とかいうものの栄誉なんて欠片も欲しいと思えない。

 しかしそれを押しつけた当の本人は肩をすくめると、

「そう?ま、僕はもう面倒な手続きとかする気、ないから」

「……は?」

「家名がイヤなら、成人してから自分で拒否権使いなさい。18歳になったら名前の管理権が保護者から自分に移るから」

「………………」

「捨てる手続きは割と簡単だよ。帝都に行ってちょいちょいと書類に拇印押すだけ」

「………………………………」

「なんにせよ5年後の話。それまでこれが君の名前だから――」

「――ッキサマ~~~!!ふざけるのもたいがいにしろ!!!!」

 かくてナーリェは椅子を蹴倒して家を飛び出すに至る。



「――というわけなんだ!」

 話せば少しは怒りが収まるかと思ったのに、むしろ再燃した憤激そのままにナーリェは言い放った。

 反対にチャトムは考え込んでいるようなどこかぼうっとした顔で小首をかしげて、

「それが……そんなに怒るようなこと、なの?」

「怒るようなこと、だ!

 だいたい貴族というのはだ、稼ぎもしないで日々遊び暮らしながら考えることといったら暇つぶしとお家の存続と名誉とかいうロクデナシの集団で、そもそもアレがかつてそうだったというまさにその一事だけでそのろくでもなさがうかがえるってもんだろそー思わないか思うよな私は断固として思う!」

「え、えっと……」

「そんなのの一員に加えてやったんだとか恩着せがましく言われて私が喜ぶとでもまあ別に喜ばそうと思ってしたことじゃないに違いなくてどうせただのちょっとした思いつきなんだろうが、しかしそれに付き合わされる私という存在のありかはどこへとか思っちゃうじゃないか!」

「そ、そぉかもしれないね……」

「しかも自分ではどーでも良かったからあっさり駆け落ちしたんだろうにそれで生まれた私が相続権なんて欲しがるかってことくらい自分で育てたならいや奴などに育てられちゃいないが分かるはず――がないのかもしれないがいやそもそももしかして嫌がらせなのかそうなのか?」

「そんなこと……」

「そうだなそうだよな普通に考えたらここまで何も言わないでおいて今になってなに自分の名前も知らないのとかふざけくさった口ききやがるのも嫌がらせしたいがためなのかとか思うところだけど奴に限ってそれはない決してないあり得ない!」

「そぉだよ、いくらなんでも」

「なぜなら奴は私にそこまでの関心がないからだ!」

「ちょ……っ」

「嫌がらせほどの労力さえつぎ込むはずがないそんなヒマあったら母を眺めてたいとか思ってるはずでということはやはり嫌がらせ説もあり得なくてどう考えても思いつきでちょっと面白そうだからやってみたけど所詮思いつきだったから今までぽっかりと忘れていたとしか!!」

「あ、あのナーリェ……」

「そんな理由で覚えるのが面倒なほど長い名前を押し付けられてさすがに23位じゃお家騒動もなにもありえんだろうがそれでもうっとーしーことは間違いないのに手続きしたくないから18まで待ってから自分でやれだと!?」

「……もぉ……」

「毎度のことながらこんな理不尽が許されていいのか子供の人権はどこへいくんだ大体なんでアレの血が半分私にも流れているなんて事実がこの天と地との間にいっこの虫けらのごとく小さくも確として存在しているのか!!」

「ナーリェ!」

 強制終了。

 チャトムはナーリェの鼻をつまんだ。

「……っ――はっ!」

 当然エキサイトして息が上がっていたナーリェは、呼吸が苦しくなって言葉を止め、口を大きくあけて息継ぎした。

 ……手慣れている。

「そこまで、だよ。もう自分でも何言ってるか分かってないでしょ」

「そ、んなこと、ない……!私を誰だと思って――」

「ナーリェよ。分かってるもん。本名が何だろうと、あたしがそう呼ぶのは変わらないもん」

「………」

 ナーリェは思わず絶句した。

 鼻をつままれる以上の効力だった。

「いいじゃない。あたしにはキゾクとかいうのはピンとこないけど、ナーリェが望めば家族が増えるかもしれないってことでしょう?」

 にっこり笑んだ曇りのない大きな目は、心底そう信じているに違いない色をしている。

「……別に……。あの母を認めなかった連中だぞ……あの男を育てた家だぞ……。そんなの」

「もしかしたらスッゴクいい人もいるかもしれないよ?

 ちゃんと、大人になってから、会ってみて、自分の目で見て。

 それから、決めたほうが良いに決まってるよ――お父さんのより、自分の判断力に自信があるんでしょう?」

「~~~」

 さすがに幼馴染は的確に、痛いところをついてくる。

 いや――チャトムだからこそ、だろうか。

 言葉に詰まるナーリェに、チャトムは耳を揺らしてくすくす笑った。

「きっとお父さんもそういうことを『思いつい』たんだよね」

「そんないいもんじゃないと思うぞ……奴は」

 そもそも子供に伝えるのを忘れ果ててた時点で、どんな良い思いつきもご破算だ、と続ける言葉にもすでに先ほどの勢いはない。

 力を抜いて木の幹に持たれかかる友人の黒髪が目の前をよぎって、チャトムはふと思いついた。

「それに……うん、カッコイイじゃない」

「はぁ?」

 ナーリェは思わず傍らのチャトムに向き直る。

「かっこいいって?貴族がか?」

「ううん、それが何かはあたしにはよく分からないもの」

 チャムチャム族には貴族という概念はない。「そうじゃなくて、名前が」

「どこが」

「……そんな即座に思いっきり……自分の名前なのに」

「つい一刻前まで聞いたこともない呪文だったぞ」

「う~ん、だからね、ローフェラムって、確か古い言葉で色の名前なのよ。きっと古い名前なのね」

「へぇ?」

 ナーリェには初耳だった。

 たいていのことについてはナーリェはチャトムより博識だったが、こと言語関係となるとまったく及ばない。

 言ってしまえば家庭環境だ。

 ナーリェは小さいころから本が友だったし、旅がちな両親の影響で、村からでたことのないチャトムより見識が広い。

 対してチャムチャム族は一般に言語能力に優れるものなのだ。

 なぜなら彼らは独自のチャム語を古くより種族内で受け継いできており、今も大陸公用語と合わせて子供に教え込む。最低でもバイリンガルというわけだ。

 チャトムもこの言葉だけは徹底的に仕込まれた。種族の文化の最たるものだからと。

 そしてチャム語は、大陸随一の古い起源を誇る。

 魔術時代以前の神代の昔、大陸であらゆる民が話していたと言われる伝説の共通言語『大いなる言葉』の直系言語だと伝えられるのだ。

 早い話、現在話されている各種の言葉のルーツの原型を一番色濃く残しているのがチャム語であり、それだけに複雑で習得が難しいのだが、覚えてしまえば他の言語は派生語として簡単にマスターできる。

 そんなわけでチャトムの口から「古い言葉で」というのが出るのは、すでにナーリェにとってはおなじみだった。

「意味としては『老いた黄金』ってところかなぁ……年月を経て、いぶしたみたいに落ち着いた風合いになった金色のこと」

「くすんだ色だな」

「もぉ…そんなこと言わないで。綺麗な色じゃない。時間がたっても金は金。転じて『色あせぬ栄光』なんて意味もあったかな」

「いかにも貴族趣味だな」

「え、えっと……趣味が良いってこと?」

「そう思うか?」

「……家の名前にするにはいいかなぁって思うけど。なんだか子孫繁栄しそうだし」

「……ま、それでいいさ」

「なぁんか引っかかる言い方~……ま、いいけど。とにかくそーいう金色なの。

 でさ、ナーリェは『黒』でしょ……ね?『カーリウ』?」

 母がいつもつかっている呼び名を出すと、ナーリェは照れたように視線をそらして、黒髪をかきあげた。

 最初こそ物慣れなかったが、ナーリェは、その名前が好きだ。

 もっと言えば、チャトムの母親の朗らかな声で呼ばれるその名前が。

 人によっては番号みたいで冷たい習慣だと言うものもあるが、ナーリェは家族、という単位でのみ用いられるその呼び方が好きだ。

 それにチャトムの母親が「イー」「ロウ」「サク」と呼ぶ時の軽やかな調子には、きっと心の中では「わたしの可愛い」とでもその前に付けているだろうと思わせる愛しげな響きがあって、優しく心地よい。

 彼女は「カーリウ」も同じ調子で呼んでいる。

 ナーリェがやって来たことで「リウ」が「フーリウ」になったチャトムは、そんな家族同然の友人の様子に嬉しそうに目を細めた。

 彼女は動揺しているとき、いつも髪に手をやるのだ。

 さらっと冷たくて安心するのかもしれない。

 笑いをこらえながら上に目をやると、たくさんの芽を抱えるしっかりした枝が交差する先に、青い空が見える。

 今年の桜はティルバイで見ることになるだろうか。

「ナーリェに似合うと思うんだぁ」チャトムは数瞬考えてとっさに簡単な作文をした。

「カーリウ=シュ=ムー=ローフェラム――『年経る黄金まとう黒の子』……なぁんてね。ね?カッコいいでしょ?」

「……なんだか成金趣味だな」

 ――ま、素直じゃないのもいつものことだ。

「まあ、でも――悪くは、ない」

 ――そのあと、照れて視線をそらしながらフォローをいれるのも。

 チャトムは小さく、笑った。



 結局ナーリェは諦めたように家に戻り、名ばかりの保護者を追い払って、ひとり長々しい名前を何度かメモ用紙に練習してから、入学書類にサインした。

 書き上げた書面を見なおすその表情は、どこか満足げですらあったが――。

 そのことは誰も知らない。

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