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26章

 26


 不思議な匂いをかぎながら、ふと浮かんだのは、雪をたたえる大樹だった。

 そして、頬と鼻の頭を赤くした幼いチャトム。

 つないだ小さな手は、丸く、温かかった。

 寒い冬の朝に、人肌がこんなに心地よいものだなんてこと知らなかった。

 目の前の、はにかんだような笑みが、凍てついた空気以上に鼻の奥をくすぐったくさせることも知らなかった。

 本当に、何も知らなかったのだ、あのときまでは。


 自分は多分寂しい子供だっただろう、と思う。

 はっきり自覚したことはなかったが。

 ナーリェの両親(特に父親)はそもそも、子供の存在を忘れるくらいの熱烈万年新婚夫婦だった。――恥ずかしながら。

 父は帝都の貴族の三男坊で、南の港町で名門寄宿学校の学生をやっていた折、南国の島国からやってきた踊り子の母に出会ったのだそうだ。

 一目惚れだったと奴はいまだに恥かしげもなく熱く語る。もういい加減いい年の中年親父が、自分の妻(それも一子をなしたような妻だ)つかまえて、あの時の彼女の瞳の輝きがどうとか濡れたような黒い肌がこうとか、あろうことか娘のナーリェに語るのだ。で、延々その美しさについて解説した後に、結びは「――もちろん、今は更に美しいけどね」――と、こうだ。

 その時のやに下がった顔と言ったら!元がそこそこなだけに情けないことこの上ない。

 あれが見たくなくて、ティルバイに来て以来、里帰りを渋っているナーリェである。

 で、全く良くある話で恐縮だが、異国の踊り子との仲を家に認められなかった父は、あっさり「駆け落ち」した。今は小説なんぞを書いてのらくら暮らしている。……それもまあ正視できないような甘ったるい恋愛小説を。

 母はいまだに踊りを続けていて、娘が言うのもなんだが、歳も、子持ちである事もまったく感じさせないくらい、若く美しい。ちょっと何を考えているのか分からない所のある人だが、意思が強く自分をしっかり持っているところは尊敬している……と思う。

 まあそんないちゃいちゃカップルだった彼らは、お互いにかまけてナーリェをあまりかまってくれなかったし、兄弟もいなかったし、旅行好きで放浪癖のある両親のおかげで住居は転々として定まらず、これといった友人もいない――それが5歳当時の自分だった。

 ……今考えるとよく真っ当に育ったものだと我ながら感心する。まあそれも多くはチャトムと彼女の家族のおかげだが。


 5歳の初夏に行われた、幾度目かの引越しの先は、北の小さな温泉村だった。

 近所にはいかにも温泉旅館といった風情の、こじんまりとした居心地のよさそうな宿屋があって、チャムチャム族の家族が営んでいた。

 母がそこで踊りの舞台を持ち、先方の母親と親しくなったことから(なぜまったくタイプの違う彼女らの気があうのか不思議でならないのだが、今も親友と呼べるような仲だ)両家の親交が始まる。

 しばらくすると、ナーリェは、両親が悪癖を発揮して旅行などに行くたび、この宿に預けられるようになった。一人娘を平気で置いていけるあたりに、彼らの精神構造がすけて見えるだろう。

 宿の夫婦は、ナーリェの両親とは大違いの、まっとうで堅実な人達で、穏やかで落ちついた父親と、朗らかで可愛らしい母親が、くるくると気持ち良く立ち働いて、宿と子供を育てていた。

 その、6番目の子供が、ナーリェと同い年の――チャトムである。


 最初は戸惑ってばかりだった。

 チャトムの母親がつけてくれた、チャムチャム族特有の愛称も身に添う感じがしなかった。

「カーリウ」――と呼びかけられても反応できない。他人の名前のようだ。

 古いチャム語で「黒い六番目」の意味を持つそれは、チャトムと同年齢の家族と認められた証だったのだが、家族という実感がわかない以上は何の意味もない。

 それに、皮肉な話だ、と思う程度に自分はひねくれた子供だった。

 ナーリェは……自分の色、特に白い肌が嫌いだったのだから。

 それをはじめとして、何もかもが物慣れない。

 何せ総勢10人、自分を入れると11人の食事なんて経験した事もない。

 兄弟ゲンカだの乳児の泣き声だの、始終家のどこかで騒ぎがあって、夜は小さなベットに複数人放り込まれて眠るのだった。

 ひとりで放っておかれることの多かったナーリェには、目の回るような事ばかりで――そんな、途方に暮れる彼女の手をいつも引いてくれたのが、チャトムだった。

 ――のだが。

 正直言って、最も苦手なのも、このチャトムだったのである。


 なにしろナーリェは同い年の子供への接し方なんてまったく知らなかった。

 それなのに、何かと世話をやいてくるのだ。

 成長の遅い彼女は(いや、今も小柄だからあれが標準体型だったのか)ナーリェよりも一回り小さいのに、あれこれかまってきた。

 彼女の家での雑用仕事なんかを教え、食事時の騒動の中で好物を確保する術を伝授し、外に遊びに連れ出す。

 ペースを乱されっぱなしで、腹立たしく思うことも一度や二度ではなかったが、それでも……。

 確かあのふさふさと柔らかそうな耳としっぽは好きだったと思う。

 自分にはないそれがゆらゆらと揺れるのを見るたび、触ってみたいと思ったものだ。

(ちなみに触らせてくれと言う勇気が出たのは一年ほどたってからだったが、そのときには「いいよ」と拍子抜けするほどあっさり許可がでて、迷った自分はなんだったんだと思った)

 結局幼かったナーリェはストレートに聞いた。「なんでわたしなんか構うんだ」と。

 チャトムの答えも単純明快だった。

「だってきれいなんだもの」

 ……考えてみたらなんて理由だ。

 思ってもみなかった答えに驚く自分に、「ナーリェはとってもきれいよ。ふゆの木みたいよ」とチャトムは笑顔で言った。

 冬の木というのが美しいことの表現だとは思えず、首をひねるナーリェに、チャトムは冬が来たらお気に入りの木を見せてあげると約束した。

 そして初めての冬、初雪が降った日の朝、村の奥の広場に手を引いて連れていかれたのだ。

 で――納得した。

 というか、それ以上に、あの言葉がすごい殺し文句だったのを知った。

 それは確かに美しかった。

 居並ぶ木の中でもひときわ大きい樹が中央に据えられていて、雪を被り枝を曲げながら、なお誇らかに直立していた。

 その、白い雪と濡れた黒い樹皮のコントラスト。

 どうもチャトムは、ナーリェの肌と髪の色を、それに例えたものらしかった。

 その木の下で、チャトムは寒さに赤くなった頬をほころばせて、この木は、春に咲く美しい花は皆見に来るが、冬は誰もが忘れている――でも自分は雪をたたえたこの姿の方が実はすきなのだと、そんなことを言った。

 まあ、春になって分かったが、その木は実は桜で、春には広場で宴会をするのが村の皆の楽しみだったので、確かにチャトムは変わり者だっただろう。

 それでも春の花の盛りを見ても、確かに冬の木の印象のほうが強かった。

 孤独な潔い姿を美しいと思った。

 冷たい外皮の中には、春を待つ生命力が脈々と流れているのかと思うと、畏敬の念が湧いた。

 これに例えてくれたチャトムの言葉を、改めて嬉しいと思った。


 当時のナーリェは自分の肌の色がコンプレックスで――それは他でもない父のせいだった。

 なんせ奴は、幼い我が子に、ことあるごとに「お前の肌が褐色なら、もっとシュリ(これは母の愛称だ。父は決して母を「母さん」なんて呼んだりしなかった。彼にとって彼女は、ナーリェの母である以上に自分の愛する女だったのだから)にそっくりなのにね――」と言ってやがったのだ。

 思い出すたびに、なんて男だ、と思う。

 情操教育上、信じられない暴言と言えるだろう。

 あんなののどこに母が惹かれたのか未だに分からない。というか聞いてみた事もあるのだが、彼女はしばしの熟考の後、真顔でぽつりと「……顔、かしら……」と言った。

(………冗談、だと思う……多分)

 で――父の心無い言葉と、そんな父に似た部分であるということも手伝って、ナーリェは自分の生白い肌が嫌いだったのだ。

 でもそんな気持ちもチャトムの言葉で霧散した。

 あんな美しいものに例えられたのなら、きっとこれにはこれの良さがあるのだろう。

 なによりチャトムが「きれい」と言ってくれるなら、父がどう言おうが構わない気になった。

 心の中の小さな革命。

 でも大事な契機だった。

 他人に好かれる事も、自分を好きになる事も、そして他人を好く事も――教えてくれたのはチャトムだ。


 しばらくしてナーリェはチャトムの家にも馴染むようになり、その頃には「カーリウ」という響きも、好きになった。

 そうして馴染んでみると、チャトムの家は温かく、明るく、いかにも『ホーム』という感じがした。今でもそう言う意味での「家」と言われると、まず浮かぶのは自分の実家よりチャトムの家だ。

 ナーリェはいつでもチャトムと遊ぶようになって、いいかげんな両親の不在までチャトムの家に泊まりにいけるので楽しみにするようになった。

 それから――夏の冒険があったり、大切な誓いを立てたり、マムの訪問があったりと――何年も経って、色々なことがあり、今では住まいもこの学院都市に変わったけれど。

 ナーリェの中でのチャトムの位置は変わらない。

 チャトムはいつも、ごく普通で、当たり前で、ささやかな、でもとても大切なことを――教えてくれる。

 小さな手の温かさや、笑いかけられたときのくすぐったいようなあの感じ、誰かを想うことで生まれる自分への誇り、約束、後悔、焦燥、おそれ――そんなことを全部。

 自覚もなく、ほにゃほにゃした笑顔で。

 多分、チャトムはそんなこと知らないだろう。

 ナーリェがどれほどあの言葉を大切にしてるかも。

 もう自分が言ったことも覚えてないのかもしれない。

 それでもいい。チャトムはそれでいい。


 ――だけど、私にとっては救いだったんだ。


 だからチャトムが必要だし、離れたくない。

 しかし――もし今、チャトムに「魔法はどうだ」「学院は楽しいか」と聞いたとしたら――果たしてあのときのような笑顔が返ってくるのか?

 少しのよどみもなく「好き」だと――言ってくれるのだろうか。


 ――そうだよ、マム。私は怖い。

 そうでない反応を見るくらいなら、ティレグの言うだまし討ちみたいな真似したほうがマシってくらいに。

 ……怖いんだ――。



 ズキ、と胸に痛みが走り――同じく肩が痛む感覚がして、それに引きずられるように意識が覚醒する。

 こめかみのあたりにも鈍い痛みがあり、うめき声を上げようとして、口も舌も動かないことにやっと気がついた。

(ここは――そうだ、私は――影人に……!)

 やっと頭が回転し始めて、感覚がよみがえり、目が開き、初めて――自分が後ろ手に縛り上げられて床に転がされていることを知る。

 ご丁寧にも猿ぐつわ付き。原始的だが、魔法を封じるには手っ取り早い手段だ。

 布のあたる口の端が痛い。

 異界魂の影響か頭が痛い。

 縛られた手首足首が痛い。

 石の床に当たる肩が痛い。

 とりあえず状況は最悪のようだ。

 少しは楽な体勢が取れないかと身じろぎすると、目の端に人の足がうつり――そのつま先がこちらを向いた。

 続く言葉は――

「――目が、覚めた?」

「…………!!」

 聞き覚えのある声で発せられた。

 いや……耳になじんだ声。

 ――確かに状況は最悪のようだ――。



 全身の血液がざわざわと沸き立つような感覚に、覚えがあった。

「来る……」

 3人で歩く通路の途中で、突然つぶやいたカイに、チャトムがいぶかしげに振り返る。

「どうしたんですか?」

 近づいてこようとするのを手で制して、カイは両腕を前に掲げた。

 その直後。

 ――――ィンッッ

 何かが高速ですり抜けていったときの耳鳴りのような音がした。

 瞬間、カイの手の中に黒い線が現れて膨らむようにもり上がり――またたきほどの間もおかず、物体が出現している。

「ティレグ……!?」

 チャトムが目を見張った。そこには先刻まで影もなかった黒い剣。

「……転移魔術ですか………」

 レイドが苦々しく言って顔を歪める。

 祖父から何度も聞かされていたので知っていた。

 かの悪しき魔剣は、呪いの儀式によって結ばれた主の元になら、何の下準備もなく転移できるのだと。

『おそらく有効な範囲は限られておるだろうが――それでもあれには何度か煮え湯を飲まされたものよ……!

 レイド、お前も気をつけよ。剣と持ち主を引き離したとて、油断は禁物……!』

 言い聞かされるたびに、なんて歪んだ機能だと思ったものだが、目にすると改めてその物体と人物が世界律の清冽を濁す存在だと思い知る。

(やはりこの場で――!)

 なんて、思わず錫杖を握る手に力が入ってしまおうというものだが、その意気もチャトムの感嘆の声にくじかれた。

「……すごっぉい……!魔法陣もなしにそんなことができるなんて……!」

 やはり血液による強い結びつきで場所の特定までするのだろうか。

 そういえば、先ほど総長の部屋で「近くに来たら跳べるよね」とか言っていたのはこのことだったのか。

 ということは、近くでないと無理だとか。どのくらいだったら転移できるんだろう……。

 目を輝かせるチャトム。

 レイドはがっくりとしながら、今の自分達の状況を思い返して、「今は我慢……我慢です……」と思いとどまる。

 しかしカイは一人で真剣な表情をしていた。

 唇を引き結んで手の中のティレグをじっと見つめる。

「よかったぜ……迷子になっていたらどーしてくれようかと……なんだよ、全員そろってんじゃねぇか」

 軽く言うティレグだが、声にわずかに疲労があることが、カイには分かる。そして何より……。

「ティレグ……ナーリェはどうしたんだ?」

 そう。一緒のはずのナーリェがいない。

 カイの言葉にチャトムが表情をこわばらせ、ティレグは一瞬言葉に詰まりながらも言った。

 自分の失態を報告するのは――ましてその場にレイドまでいるというのは――どうしようもなく嫌なものなのだが。

 そんなことを言っている場合ではない。

「……そう、ナーリェがな……さらわれたんだ。多分、犯人に」

 地下の薄暗い通路でも、チャトムの顔から血の気の引くのがはっきり分かった。

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