茗荷8
「会って話したいことがあるというから、休みの日に、駅前のあの古い喫茶店で会ったんだ」
誠二さんは遠い目で話し始めた。
「10年も経つのに彼女は綺麗なままだった。思い出の中の彼女となんら変わりがなかった」
「それで彼女はなんて」と兄が尋ねた。
「神楽坂の料亭に板前として戻ってきてほしい、と言って来たんだ。何でも、腕の良い板前が数ヶ月前に突然やめてしまって、料理の質が下がって、売り上げが下がってきたって言うんだ。だから…」
誠二さんは沈黙した。
兄と直子は誠二さんの言葉を待った。
「だから、戻ってきて、私の料亭を立て戻してほしいと言ったんだ。ただし、昔の関係は一切忘れてほしい、って念押しされてしまったわ。あはは」
誠二さんは辛い気持ちを抑えるためか、笑い声をあげた。
「俺は、彼女のことを10年間片時も忘れずにいた。しかし、あっちはあっちで、俺をなんとも思わず、生活してたんだんだって、そう思ったよ。だから、あんな簡単に戻ってきてくれって。よく言えたもんだよな」
ビールの酔いもあったのだろうか、少し誠二さんの目が潤んでいるように気がした。
「俺は別れるとき、仕方がないってあきらめた。でも嫌いで別れたわけじゃない、またいつか、縁があれば、戻れる日が来るって心の中で思っていたんだ。…本当にバカだったよ」
「で、どうするんですか?」
「過去であっても惚れた女の頼みさ、断ることはしないよ。寿屋に新しい板前を紹介できたら、すぐにでも彼女の元に戻るつもりさ」と言った。
「寿屋辞めちゃうんですか」
直子は驚いて聞いた。
「そういうことになるね、だから直ちゃんとも会えなくなるからね、こうやって、隆とも一緒に酒を酌み交わしたかったんだ」
直子は沈黙した。
「誠二さん…、俺、彼女の離婚がもう何年も進まなくて、別れようと悩んでいたんです。でも、もう少し頑張って、彼女説得しようと思います」
「お兄ちゃん…」と直子は言った。
「直子…、一度縁が切れたら、戻すのは無理なことなんだよ。だから、俺、もう少し頑張ろうと思う」と兄は言った。
直子はもう何も言えなかった。
「隆がそうしたいなら、そうすればいい、後悔しないようにな」と誠二さんは言った。
(後悔しないように…)
直子の心の中で、誠二さんの言葉が響いた。
「とにかく、湿っぽくなるのは、止めだ。今日は誠二さんの送別会だ、楽しくやろう」と兄は陽気に話し始めた。
今日遅くなった理由、変な同僚、いつか独立して理容室を始めたいということなど。とにかく明るくなるようなことを。
数時間たって、12時になろうとしていた。
「じゃあ、もう遅いから、帰ろうか」と兄は言った。
「今日は、突然だけど、実家に帰るよ」と直子に言った。
「おう、元気でな」
「誠二さんこそ、住む場所とか決まったら教えてください」
「分かった」
そういって、玄関先で別れた。
兄と二人でアパートの階段を下りた後に、直子は、
「お兄ちゃん、ちょっと、ここで待っていて」と言って、誠二さんの部屋に向かっても、走って階段を上っていった。
インタホーンを鳴らすと誠二さんが出た。