茗荷4
直子は着替えてから、急いで家をでた。誠二さんはまだ通りに居て店の周りをほうきで丹念に掃いていた。もう女の人は居なくなっていた。
「今日はお店お休みなはずなのに、どうしたんですか?」と私は尋ねてみた。
「今日はね、旦那さんと女将さんが法事でいないんだよ。だけど、明日、大事なお客様が来るんでね、仕込みをしに来ていたんだ」と誠二さんは答えた。
「隆さんに会うんだろ、彼女と上手くやっていけているのかね」
兄は誠二さんを兄のように慕っていたから、女性関係のことも相談していたようだ。
「私も最近のことは良くわからないんです。だから、今日聞いてこようと思って」
「そうだな…。たまには俺のところにも顔を出せと伝えておいてくれよな」
「ええ、もちろん」
そう答えて、兄が待つ場所に向かった。
兄は駅前の古びた喫茶店で待っていた。
「直子、久しぶり、元気にしていたか?」
「お兄ちゃん、元気にしていたけど、突然どうしたの?心配したよ。しかも、家には帰らないで、別の場所で話そうなんて」
「いやさ、家にかえると母さんが戻って、理容店を継げって、うるさいだろ、だからさ」
「まあ、そうだけど」
「美希は元気にしているかい?」と兄はかつての婚約者のことを聞いた。
「美希さんは…、昨年、近所のおばさんのつてでお見合いをして、結婚したわ」となんとなく伝えづらいことだったが、正直に言った。
「そうか、美希は幸せになったんだな」
「ええ、来年には赤ちゃんも生まれるんだって」
「そうか」と兄は言うとタバコを一服した。
「ああ、それと寿屋の誠二さん、たまには俺のところにも顔を出せって言っていたよ」
「誠二さんかあ、懐かしいなあ、元気かい」
「うん、元気そうにしているよ」
「そうかあ」と言うとふうっとため息をついた。
「ねえ、お兄ちゃんは女の人と上手くやっているの?前、話してくれた」
「そうねえ、上手くは行っていないよ」
「なんで」
「相手は所帯持ちで離婚はできないって最近になって言い始めたんだ」
「でも、最初は離婚してお兄ちゃんと一緒になりたいって言っていたらしいじゃない」
「そうだったなあ、でも婚姻関係を解消するのは難しいらしいんだ。相手がうんと言わないし、慰謝料とも請求されているんだ」
「じゃあ、慰謝料を払えばいいんじゃない」
「まあ、そうだな。…でも、ホントは旦那との安定した生活を壊したくないんじゃないか?」
「でも、そしたら、お兄ちゃんと続けるのもおかしいじゃない」
「確かにそうだ、でも、もう離れられなくなってしまってね」
直子は少し黙った。直子は兄のように恋に燃え上がったことがないから、実感がわかない。
「直子…、直子はどうすべきだと思うかい?」と尋ねてきた。
「私は、そんな人と別れて、また新しく生活を始めるべきだと思うわ。もう美希さんも幸せになったんだもの。うちに戻って、働いてもいいじゃない」
「そういう考えもあるかねえ。近所では俺は悪者だぜ、結婚間近で女を捨てたひどい男」と兄は遠くを見ながら言っていた。
「そんなの、昔の話よ」
「いや、そういう噂はなかなか消えないんだ。女も寄ってこない」
女が寄ってこなくてもいいじゃない…と言い掛けたが辞めた。
「いやさ、今日は、直子に話を聞いてもらいたかったんだ。仕事お休みさせて、ごめんな」
「いいよ、今は忙しい時期じゃないんだし」
兄はこれからどうするつもりだろう。少し心配になった。
私も彼に振られたんだよ、とかそういうことも話したかったけど、話す気になれなかった。直子の失恋と兄の恋愛とは重みが雲泥の差で違いすぎるのだ。
話が済んだのか、兄はお会計をしようと言って、店をでた。
「今日は、ありがとう。また、電話するよ、誠二さんによろしく伝えておいてくれ」と言って駅に向かっていっていた。