38
ラルフの執務室。
夜も遅い時間に訪れたユリウスから、一週間後にメーネルを発つと言われた。
ラルフは二分の笑みでそれを了承した。
ユリウスは用件だけ伝えるとすぐに退室していった。
「…一週間後、か…」
思わずため息が漏れる。
父の命令で『そろばん』という計算機を導入すべくシュネートに訪れたのは、まだ少し涼しさが残る初夏だった。
シュネートはメーネルとは違い、本当にのんびりとした村だった。
村長は突然現れたラルフにあたふたし、書類整理をしていた少女に話を丸投げするような、それぐらい貴族とは切り離された社会だった。
初めてリナと話した時、十二、三歳の子供だと思った。
白い美しい肌に艶やかな黒髪が神秘的で、とても奇麗な子供だと思った。
だが話してみると受け答えは村長よりしっかりしていて淀みがない。
それが逆に引っ掛かりを覚えた。
特に『そろばん』についての説明はまるで決められた文章を読むようだった。
何かが気になり、少女の親に会い『そろばん』について詳しく聞くことにした。
まさかそこで自分の憧れの人と会うことになるとは思いもよらずに。
自分の憧れの人はただ穏やかにひっそりと家族で過ごすことを望んでいるようだった。
ラルフはそれを尊重し気づかぬふりをして接した。
後日、エメリヒとリナが同じ年、十六歳だと知った。本気で驚いた。
エメリヒは年相応に、リナはてっきりエメリヒの妹だと思っていたのだ。
リナが密かに凹んでいるのが分かって、とても申し訳ないと思った。
確かにはじめは申し訳なさから、彼女を見かけると声をかけた。
だが話すたびリナの誰にも臆さない態度に好感を持つようになった。
決定的だったのは、リナが遅くに昼食を取っていた日だった。
話の流れで言った『美味しそうだね』にサンドイッチを差し出したのだ。
それは彼女にとって当たり前の行為でラルフに喜んでもらいたいという純粋な気持ちからだと分かった。
確かにリナから貰ったサンドイッチは格別で、本気で驚いたラルフに
『よかった』
とまるで花が咲いたような笑顔を見せた彼女。
その笑顔にラルフは落ちてしまった。
それでもラルフは貴族でリナは平民。その隔たりは大きい。ラルフが望んでもリナが価値ある人間だと証明しなければ、ラルフがリナと一緒になることは難しい。
だがここで『そろばん』が役に立った。
この計算機は本当に優秀で、領内で導入し運営がうまくいけば、他領への販売も視野に入れて動く予定になっていた。
それが成功すれば、その功績をもってリナを迎え入れられる…ラルフはそう考えた。
父親にそのことを打診し、了承を得ることもできた。
が、その矢先のことだった。
エルンストとアンネリーエが盗賊に襲われ行方不明になった。
しかもエメリヒと話したすぐその後で、彼らの家が襲撃に遭いエメリヒとリナの行方も分からなくなった。
ラルフは後悔しても、し足りない程だった。
もしあの早朝にエメリヒとリナを無理やりにでも保護し、屋敷に連れ帰っていれば…。
遺体がなかったことに楽観視もできなかった。
殺されていなければ、見目が良い二人は売られる可能性が高かったからだ。
だからメーネルの広場でリナを見つけた時、どれほど驚き嬉しかったか。
もう離さない、その決意も束の間、ユリウスに攫われる形となった。
襲撃され行方不明になっていた数日間、そこで何があったのか。
どうして全く接点のない二人が知り合ったのか。
だがリナの態度はユリウス相手でも変わらなかった。
それどころか自分の意見をぶつけ、意思を通した。
それをユリウスも許した…。
リナを『見初めた』…それは嘘だとリナ本人が言ったことだ。
だがユリウスは違う。恋情かと言われれば疑問が残る。だが執心していることは間違いない。本人に自覚はなさそうだったが。
「はぁ…」
初恋…というわけではない。
だがリナと会える日は楽しみで、エメリヒに文句を言われるのでさえ面白かった。
憧れの人が穏やかに笑って過ごす日々を垣間見る幸せ。
その全てを突然失うのは…やはり堪える。
その虚無感はどうしようもなく。
別れの時、最後に一目だけでも会えるだろうか?
話せなくてもいい。
最後に顔を見ることができれば…嬉しいのだが…。
初めから手が届かなかったと諦めるには時間がかかりそうだと、ラルフは力なく笑った。
盗賊の一味が死体で引き渡されてから二か月。
ブンゲルト領では領主より領民へ大きな発表があった。
メーネルの役場で働く職員が領内の馬車を盗賊に襲わせる手引きをしていたと報告されたのだ。
そこに関わりのあった盗賊・職員は捕縛の際の乱闘で死亡し、被害に遭った領民への補填は領主がすることが明記された。
そしてシュネート村での横領に続き、またしても役場の職員による不祥事。
ブンゲルト子爵はこれを重く受け止め、領内で働く役人達への内部調査に入ったこと。
内部調査の結果も後日報告する旨も明記された。
だがその発表には二か月前、メーネルの森で巨大な狐の魔物が現れたことや謎の遠吠えがあったことは一切触れられていなかった。
当時は町中で『神獣』が現れたと噂が立った。だが「そんなまさか」と「もし神獣が出たなら国が動くだろう」と強く否定する声に自然と噂もなくなっていった。
攫われた少女とその家族の少年を連れて戻ったユリウスがブンゲルト子爵と面会し、その際どのような話し合いがあったのか。
それは誰も知らない。
発表より少し前ーー。
「リナ行くよ」
エメリヒの呼ぶ声に私はかなり不満だった。
ラルフとは彼が忙しいと言う理由で離れでお世話になってから一度も会うことができてなかった。
お礼も言えないままメーネルを発つ日になってしまったのだ。
離れの広々とした玄関、そこにエメリヒと私。
それから見送りに、離れで主に私のお世話をしてくれたメイドさんと取次などしてくれていた執事さん。
ユリウスは私達の代表として本邸にいるブンゲルト子爵へ挨拶に行ってくれている。その間、私達は離れのお屋敷前に停められた馬車に先に乗っているようにと言われたのだ。
「ねえ、やっぱりもう一度かけあってくるよ!」
私はどうしてもラルフに会いたくて。
エメリヒや執事さんの制止も聞かず、本邸へ繋がっている廊下へ小走りで向かった。
廊下の曲がり角、人とぶつかりよろけてしまう。
が、相手に腕を取られ転ばずにすんだ。
「すみませんっ」
顔を上げると会いたかった顔があった。
「そそっかしいな」
「ラルフ様!」
ラルフの後ろにはユリウスといつも一緒にいる護衛騎士の姿も。
どうやらユリウスの案内と見送りに来てくれたらしい。
「今日、メーネルを発つそうだね」
いつもと変わらない笑顔だけど忙しかったのは本当のようで少しやつれた様子だった。
「あ、はい!長い間お世話になりました。ありがとうございました」
私は深く深く頭を下げた。
そしてエメリヒに内緒で書いておいたラルフ宛ての手紙をポケットから取り出す。
「ラルフ様、これを」
手紙を手渡す時に小声で伝えた。
「マヨネーズの作り方です」
なぜ小声かというと、マヨネーズは外に出さないとエルンスト達と約束していたからだ。だがあんなに美味しそうに食べていたラルフに教えずに行くのは酷だと思ったのだ。これも私なりの責任の取り方。もとはと言えば私がサンドイッチを食べさせたのが原因だし。
「でもこれはラルフ様のお屋敷内だけでお願いします。門外不出なので」
そう伝えるとラルフは笑って「分かった」と約束してくれた。
「体には十分気を付けて」
ラルフが同じように小声でそういうので私も小さく「はい」と返事をした。
「リナ、最後にもう一度キスしていい?」
そしてラルフは何を考えてるのかそんなことを囁いた。
えっ!
広場で再会した時、頬にされたことを思い出す。
えっと、あれかな?ラルフはいわゆるキスも挨拶な感じの人なのかな??
動揺しつつも頷くと、ラルフはとろけるような笑顔を見せた。
そしてそっと唇に触れるだけのキスをした。
え…。
「リナ、俺のこと忘れないで」
「えっ!」
私の驚きの声と同時にユリウスが間に割って入った。
「ラルフ殿…戯れがすぎるのでは?」
ユリウスの声が一段と低い。
と、後ろから腕を引かれたと思ったら鬼の形相のエメリヒが立っていた。
ひぇ!
どこから見てたのか、彼の外套の袖で口を強引に拭われた。
「いっ、痛い!エメ!」
私の抗議はまるで無視で、無理やりエメリヒの後ろに追いやられる。
「ラルフてめぇ…」
ひぇ!!様、様、忘れてるから!!
「ふっ!あははははっ!」
私達の困惑を大声で笑い飛ばしたのはラルフ本人。
貴族としての美しい礼をすると
「どうぞ皆様、お元気で」
それはそれは爽やかな笑顔で挨拶をしてくれた。
馬車の車輪が軽快に回る。
「一発ぶん殴ればよかった」
不機嫌に輪をかけて不機嫌なエメリヒ。
「もう、物騒なこと言わないでよ。…別に嫌じゃなかったし」
ポツリと本音を言うとガタンと大きな音がした。
「は?」
はああああああ~!?
エメリヒの絶叫が響く。
見るとユリウスでさえ驚いた顔をしている。
まあ、自分でも驚いてるけど…。
嫌ではなかったのだ。
むしろ…。
思わず自分の唇を指でなぞる。
その手をユリウスに取られ、なぜかジッと見つめられた。
「思い出さなくていい」
でも忘れられるはずもなく。
初チュウはラルフ様かぁ…。
初めては平塚さんだと思ってたんだけど。
でも、うん。
ラルフ様でよかった。
忘れませんよ、ラルフ様。
いつかまた、いろいろなことが片付いたら…会いたいな。
馬車から見上げた空はこの世界に来た時と同じく、奇麗な青空が広がっていた。




