第8話 戻れない側へ
森を抜けた瞬間、空気が変わった。
踏み固められた小道の先に、黒塗りの馬車が停められている。
月明かりを受けて、装飾の縁が鈍く光っていた。
あまりにも場違いで、足が止まる。
「こちらへ」
腕を取っていた兵が、短く促した。
命令ではあるが、乱暴な力はこもっていない。
その言葉に導かれるように視線を向けて、ようやく理解する。
――馬車、だ。
側面に刻まれた紋様が目に入る。
遠くから眺めるだけだった印。
村で生きてきた私が、触れるはずのないもの。
それを間近で見る日が来るなんて、考えたこともなかった。
胸の奥がざわつく。
拘束されているのに、扱いが丁寧すぎた。
引きずられることも、押されることもない。
「急がなくていい」
別の兵が、落ち着いた声で言う。
その口調に、違和感が混じる。
捕らえられた者に向ける態度とは、どこか違っていた。
理由も目的も告げられないまま、
私は馬車の前に立たされている。
扉が開く。
内側から流れ出たのは、柔らかな布の匂いだった。
粗末な荷車とは、まるで別物だ。
一歩踏み出す前に、無意識に森の方を見る。
そこに、松明の光はもうない。
レオンの姿も、当然、見えない。
戻れるとは思えなかった。
それだけは、はっきりしている。
私は何も言わず、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる音が、静かに、しかし決定的に響く。
馬が動き出し、車輪が小道を進む。
どこへ向かっているのか。
何のために連れていかれるのか。
考えようとするたび、答えのないまま思考が途切れる。
閉ざされた車内に、外の気配が染み込んでくる。
いつの間にか、森の気配は消えていた。
人の声が重なり合い、金属の触れ合う乾いた音が混じる。
同じ国の中のはずなのに、私の知っている夜とはまるで違う。
馬車は止まらない。
一定の速度で、どこかへ向かっている。
時間の感覚が曖昧になる。
長かったようにも思えるし、気づけばここまで来てしまったようにも感じた。
外の音が、次第に揃っていく。
人の生活音が消え、代わりに同じ間隔の足音だけが残る。
そして、ゆっくりと馬車が止まった。
完全な静寂ではない。
けれど、先程とは明らかに違う空気だった。
扉の外で、誰かが立ち止まる気配がする。
鎧が擦れる、低い音。
私は背筋を伸ばした。
ここがどこであれ、もう村ではない。
停まったことに少し遅れて気づき、馬車の扉がゆっくりと開いた。
差し込んだ光に、思わず目を細める。
次の瞬間、視界がはっきりして――息を呑んだ。
高い石壁。
整然と並ぶ柱。
夜だというのに、灯りが途切れることなく続いている。
「……王宮……」
声が、かすれて出た。
生活と権力をそのまま形にした場所。
村で見てきたどんな建物とも、比べものにならない。
兵たちは慣れた様子で並んでいる。
誰も、私の反応を気にしない。
「お降りください」
促されて、ようやく自分が座ったままだと気づく。
足がわずかに重い。
地面に足をつけると、石畳の冷たさが靴越しに伝わる。
その感触が、現実だと教えてくる。
王宮の門は、すでに開かれていた。
まるで、最初からここに来ることが決まっていたみたいに。
私は、何も説明されないまま、何も理解しないまま、この場所に立っている。
不安と困惑が、逃げ場を探すみたいに胸の奥で絡み合う。
ただ一つ確かなのは――
もう、後戻りできる場所が見えなくなった、ということだった。




