第10話 理由を告げられないまま
石畳を進むうちに、足音が一つ増えた。
「こちらへ」
落ち着いた声に導かれて振り向くと、年嵩の女性が立っていた。
装いは質素だが、所作に無駄がない。
ここが王宮であることを、改めて突きつけられる動きだった。
「……私は、何の説明も受けていません」
そう告げても、彼女は歩みを緩めることなく答える。
「承知しております、ルナ・フェイ様」
“様”。
名前は同じなのに、その呼び方だけが私を別の場所に押し出す。
距離を保ったまま、近づかれている感覚。
回廊を抜け、さらに奥へと進む。
すれ違う人々は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を伏せた。
好奇でも警戒でもない。
最初から、そこにいるものを見る目だった。
理由もなく、背筋が冷える。
扉が開かれ、柔らかな灯りに満ちた部屋へ通された。
室内には、大きな浴槽から湯気が立ちのぼっている。
香草の匂いがほのかに混じり、磨かれた大理石の床は、わずかに水気を含んで冷えていた。
人を迎えるために整えられた空気――それだけが、言葉もなく伝わってくる。
「お疲れでしょう。お湯をお使いください」
淡々と告げられ、その場を譲られる。
言葉が出なかった。
捕らえられた者に向ける扱いではない。
けれど、客として迎えられているとも言い切れない。
疑問を口にしかけて、喉の奥で止めた。
ここでは、問いに答える側と、答えを待つ側がはっきり分かれている。
湯に身を沈めると、張りつめていた筋肉がゆっくりと緩んでいく。
その感覚がかえって怖かった。
緊張が解けるほど、置かれている状況が現実として染み込んでくる。
部屋に戻ると髪を整えられ、用意された衣に着替えさせられる。
拒む隙も、選ぶ余地もない。
すべてが静かで、正確で、当然のように進んでいく。
「今夜はこちらでお休みください」
「……今夜、ですか」
「はい。明日、お話がございます」
それ以上は告げられなかった。
女性は一礼し、扉を閉める。
一人きりになった部屋は、驚くほど音がない。
村の夜にあったはずの気配が、何一つ届かない。
椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で重ねる。
ここにいる理由も、これから起きることも、まだ何もわからない。
ただ、「明日」という言葉だけが、逃げ道を塞ぐように残っている。
ふいに、森の闇が思い浮かんだ。
松明の光に照らされた木々と、その向こうに立ち尽くしていたレオンの姿。
振り返った一瞬だけ見えた、あの表情。
苦しそうに歪んだ顔と、胸元の琥珀を縋るように握りしめていた手――
あの光景が、まるで彼だけがあの夜に取り残されたようで、胸の奥が鈍く締めつけられた。
あのときは、「大丈夫」と口にするしかなかった。
そう言わなければ彼が、必死に抑えていた激情に、すべてを焼かれてしまうとわかっていたから。
でも、ひとりになった今、胸の奥が遅れて痛み出す。
何が怖いのか、どうしてこんなに苦しいのか、言葉にできない。
ただ――
ここからでは、もう何も届かない。
その事実だけが、残酷なほど確かだった。
灯りを落とし、寝台に横になる。
目を閉じても、眠りは浅い。
王宮という場所と、ルナ・フェイという名前の間で、
胸の奥に残ったのは、
選ばなかった言葉の重さ――
彼の名を呼べなかった、その夜だった。




