第42話「心を照らす優しい声(3)」
「ふっ......あはは! ベアトリス、君は本当に......あはははは!」
普段は冷静沈着なオーウェンが、腹を抱えて笑い出したのだ。
肩を震わせ、涙を滲ませて笑うその姿は、年相応の少年のものだった。その屈託のない笑い声に、張り詰めていた空気が一気に霧散していく。
「オーウェン様!? な、何がおかしいのですか!」
「いや......すまない......でも、『バカヤロー』って......君の口からそんな言葉が出るとは......あはは......」
涙を拭いながら笑い続けるオーウェンを見て、ベアトリスはカッと頬を赤らめた。夕陽のせいだけではない、羞恥と興奮が入り混じった赤色だ。
「わ、私は本心を申し上げただけですわ!」
「わかってる、わかってるよ......はは」
オーウェンはようやく呼吸を整えると、優しい瞳でキオに向き直った。笑いの余韻を含んだその瞳は、先ほどよりもずっと温かい。
「でも、ベアトリスの言う通りだ」
真剣な、けれど温かい声。
「キオ。人それぞれ、色々な事情がある。ヴィクトールにも、きっと彼なりの苦しみや地獄があるんだろう」
「うん......」
「だが――その全てを、君が受け止めてやる義理はないんだ」
キオはハッとして顔を上げた。
窓の外では、太陽が地平線に沈もうとしている。差し込む光はより赤みを帯び、影を長く伸ばしていた。
「ヴィクトールの事情は、君が心を砕いて悩むべきことじゃない。......それに」
オーウェンは真剣な眼差しでキオを見た。
「『それは』、君を傷つけていい理由にはならない」
オーウェンの言葉が、凍えていた心にじんわりと染み渡っていく。それは、冷たい雨に打たれた後に差し出された毛布のように、優しく、温かい。
「その通りですわ!」
ベアトリスが力強く頷いた。
「キオ様、あなたは傷つけた側ではなく、傷つけられた側です。本来なら、もっと怒り狂っても良いくらいですわ!」
ベアトリスの瞳には、純粋な義憤が燃えていた。自分のことのように怒り、自分のことのように悲しんでくれている。
「ほんとよ!」
カリナも腕を組み、ぷりぷりと頷く。
「なんでキオが落ち込まなきゃいけないのよ! 理不尽じゃない!」
ベアトリスとカリナは顔を見合わせ、そのまま二人で「信じられませんわね!」「全くだわ!」と憤慨し始めた。
まるで息の合った姉妹のようなその様子に、ルイとセドリックは微笑ましそうに見守っている。女子たちの頼もしい剣幕に、暗い影は入り込む隙もない。
「二人とも、本当にキオ君のことを大切に思ってるんだね」
ルイが和やかに言うと、カリナは「べ、別に?」とそっぽを向いたが、耳は赤い。その反応の素直さに、場の空気がさらに和む。
「友達が理不尽な目に遭ったら、怒るのは当たり前じゃない」
その時、控えめな声が輪の中に落ちた。
「あの......僕も、少しだけいいですか」
エルヴィンだった。
彼は今まで、一歩引いた場所で話を聞いていた。少し照れくさそうに、けれど真剣な表情で口を開く。眼鏡の奥にある瞳が、揺るぎない光を湛えている。
「貴族社会では......妬みや嫉妬は、よくあることです。僕だって、自分の家のことで......父の期待に応えられなくて、悩んだことがありました」
エルヴィンの脳裏に、苦い記憶がよぎる。
――『貴族としての自覚が足りない。今のあなたを見たら、お父様はなんと言われるか......』
かつてルドルフに言われた言葉。あの時は、自分の存在全てを否定されたような気がした。胸が締め付けられるような閉塞感。
「でも......」
エルヴィンは小さく笑った。その笑顔は、過去の痛みを乗り越えようとする強さを秘めていた。
「貴族といっても、色々な形があるって知りました。キオ様やオーウェン様とお話しするようになって......そう思えるようになったんです」
その言葉に、キオの胸が熱くなった。
エルヴィンもまた、自分なりの葛藤を抱えながら、それを乗り越えようとしている。誰もが、見えない傷を抱えながら、それでも前を向いているのだ。
キオは――フハッ、と自然と笑みをこぼした。
心の底から湧き上がった、嘘偽りのない笑みだった。
全員の視線が集まる。
「ヴィクトールさんの苦しみは本物だったと思う。でも、それを受け止める義務が僕にあるわけじゃない......そう考えてもいいんだね」
キオは目を伏せ、少し考えてから顔を上げた。
「......ありがとう」
キオは目を細め、心からの感謝を込めて言った。夕陽に照らされた仲間たちの顔が、何よりも尊く感じられる。
「ベアトリスさん、カリナ。怒ってくれてありがとう」
「当然の権利ですわ」
「当たり前でしょ」
二人は示し合わせたように胸を張る。その誇らしげな姿が愛おしい。
「エルヴィン君も、ありがとう。君の言葉、すごく嬉しかった」
「い、いえ......そんな、大したことは......」
エルヴィンは赤くなって頬を掻いた。
「キオ君」
ルイが優しい声で言った。
「私たちは貴族社会の難しい事情はわからないけど......キオ君が一方的に傷つくのは違うと思う」
「そうだよ」
セドリックも深く頷く。
「キオ君は何も悪くない。ただ、誠実に接しただけなんだから」
仲間たちの言葉一つ一つが、温かな光となって心を満たしていく。
重くのしかかっていた鉛のような感情が、春の雪解けのように溶けていく感覚だった。冷たく固まっていた心の澱が、彼らの体温によって解き放たれていく。
「......僕も」
キオは背筋を伸ばし、みんなを見渡した。
窓の外はすでに夕闇が迫っているが、この場所だけは明るい。
「強くならないとね」
その言葉に、全員が柔らかな笑みを返した。
言葉以上の思いが通じ合った瞬間だった。
少し離れた場所で――シュバルツは、そんな七人の様子を静かに見守っていた。
その紫色の瞳は、夕陽を映して穏やかに輝いている。椅子の下では、長い尾がゆったりと揺れていた。彼の鋭敏な感覚は、少年たちの心の機微を、空気の振動のように捉えている。
『良い仲間だ』
シュバルツは心の中でキオに語りかける。
『お前は一人じゃない。それを、忘れるな』
キオがふと視線を落とし、シュバルツに微笑みかけた。
『うん......忘れない。シュバルツも、みんなも、いつもそばにいてくれるから』
窓から差し込む茜色の光が、七人と一匹を優しく包み込んでいる。
部屋の中を舞う埃さえもが、金粉のように輝き、彼らを祝福しているようだ。
傷ついた心は、まだ完全には癒えていないかもしれない。けれど、一人で抱え込まなくていいのだと、今のキオには分かっていた。
仲間がいる。支えてくれる人がいる。それだけで、明日に向かう力が湧いてくるのだ。
「ねえ、湿っぽい話はこれくらいにして、お茶でも飲まない?」
カリナがパンと手を叩き、明るい声で提案した。その音が、次の時間への合図となる。
「食堂のグレイス先生がお昼に出した限定のベリータルトが余ってるから、欲しい子は放課後食堂に来なさいって言ってたわよ!」
「あら、それは見過ごせませんわね」
さっきまでの怒りはどこへやら、ベアトリスが目を輝かせる。甘いものへの情熱は、彼女たちの共通言語だ。
「じゃあ、みんなで行こうか」
オーウェンが立ち上がると、椅子が床を擦る音が響き、全員がそれに続いた。
図書館を出ると、冬の冷たい風が頬を撫でた。
冷気は肌を刺すが、不思議と寒さは感じない。心の内側で燃える温かい火が、寒さを跳ね返しているようだ。むしろ、その冷たさが心地好いくらいだ。
キオはふと窓の外を見る。
澄み渡った冬空が、茜色から群青色へと美しいグラデーションを描いている。一番星が、頭上で控えめに瞬き始めていた。
『シュバルツ』
『ああ』
『温かいね』
『......そうだな』
シュバルツの声が、いつにも増して優しく響いた。
『お前が笑っていられる場所がある。それが、俺にとっても何よりの喜びだ』
キオは小さく微笑み、仲間たちの輪に駆け寄った。
カリナとベアトリスが相変わらず言い合いながらも楽しそうに歩いている。その声は弾んでいる。エルヴィンがそれを仲裁しようとして失敗し、オーウェンが声を上げて笑っている。ルイとセドリックは穏やかに微笑みながら、そんなみんなを見守っている。
そして、シュバルツが――大きな影のように、全員を守るように悠々と歩いている。その足取りは力強く、頼もしい。
寒さの中にも、確かな温もりがあった。
吐く息は白いけれど、繋いだ心の温度は決して下がらない。
明日も、この仲間たちと一緒に過ごせる。
それを思うだけで、キオの足取りは羽が生えたように軽やかになっていった。
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