間話06「マティアス視点_囁く声」
夕暮れの廊下を、マティアス・ジルヴァ・リヒトは一人で歩いていた。
窓から差し込む茜色の光が、銀の髪を淡く染めている。だが、その表情は曇っていた。
いつもはヴィクトールのそばに控え、付き従っているが。今日は一人の時間を過ごしている。
「はぁ......」
思わず、深い溜息が漏れる。
ヴィクトール様の機嫌が、このところずっと悪い。
あの特別訓練の日から——いや、もっと前から。あの黒髪の坊ちゃんが現れてから、ヴィクトール様はどんどん険しい顔をするようになった。
だから今日は、控室には近づかなかった。
あの殺気立った空気の中に身を置くのは、心臓に悪い。それに——。
「......どうせ、俺がいてもいなくても同じだしな」
ぼそりと呟いた言葉が、自分の耳に痛かった。
マティアスは足を止め、窓枠に背を預けた。誰もいない廊下で、誰に言うでもなく、言葉が零れ落ちる。
「俺さぁ......ヴィクトール様についてって、もう二年目になるんだよな」
二年。
入学してすぐ、先輩であるヴィクトールの才覚に惹かれた。
あの人についていけば間違いない。あの人の側にいれば、自分も上に行ける。そう思って、誰よりも早く傍に馳せ参じた。
言われたことは何でもやった。
資料を集めろと言われれば夜通し図書館を駆け回った。
使い走りを頼まれれば、どんな雨の日でも文句一つ言わずに走った。
ヴィクトール様の考えには全て賛同した。「その通りです」「さすがです」「おっしゃる通りです」——何度、そう言っただろう。
なのに。
「......『ああ』だけなんだよな。いっつも」
マティアスは自嘲気味に笑った。
ヴィクトール様は、俺を見ない。
正確には、見ているけれど——見ていない。
視線は俺を通り過ぎて、いつも別の何かを見ている。ルドルフ様だったり、セレネ様だったり、最近はあの黒髪の坊ちゃんだったり。
俺が何をしても、返ってくるのは「ああ」の一言。
「よくやった」とは言ってもらえない。
「助かった」とも言ってもらえない。
まるで——俺がそこにいるのが当たり前みたいに。
「エルザは違うんだよな......」
苦い思いが込み上げる。
同じ追従者のエルザ。彼女がセレネ様の話をすると、ヴィクトール様は少しだけ表情を緩める。「そうか」と、ほんの少しだけ興味を示す。
でも俺の報告には、いつも素っ気ない。
『俺とエルザ、何が違うんだ?』
俺の方が先にヴィクトール様についたのに。俺の方が長く仕えているのに。
「......俺って、何なんだろうな」
窓の外を見る。
夕陽が沈みかけている。空が赤から紫へと移り変わる、その境界線。
俺はずっと、ヴィクトール様の「側」にいるつもりだった。
でも本当は、「側」にいるだけで、「傍」にはいなかったのかもしれない。
ヴィクトール様にとって、俺は——。
「......ただの、便利な奴、か」
言葉にすると、余計に惨めだった。
わかっている。俺には、ヴィクトール様やエルザのような才能はない。家柄だって、リヒト家はクロイツ家より格下だ。
でも、だからこそ——。
俺にしかできないことで、認めてほしかった。
「お前がいてくれて助かる」と。
「お前のおかげだ」と。
たった一言でいい。そう言ってもらえたら、俺は——。
「......はは、何、俺」
マティアスは頭を振った。
馬鹿みたいだ。男のくせに、こんなことでウジウジして。
気を取り直して、再び歩き出す。
とにかく今日は自室に戻ろう。一人で考え込んでも、どうせ何も変わらない。明日になれば、また「ああ」と言われながら、ヴィクトール様の後ろをついていくだけだ。
それでいいじゃないか。それが俺の——。
「面倒くせぇ......」
全部が、面倒くさかった。
ヴィクトール様の不機嫌も。あの黒髪の坊ちゃんのことも。自分のこんな気持ちも。
キオ・シュバルツ・ネビウス。
三大一族の本家の坊ちゃん。黒竜の眷属と契約した、今一番注目されている一年生。
ヴィクトール様はあの坊ちゃんのことを目の敵にしているけれど——。
「無視すりゃあいいのに」
あんな奴、放っておけばいいじゃないか。相手にするだけ損だ。
俺だったら、もっと有意義なことに時間を使う。
例えば——セレネ様とのおしゃべりとか。
「あーあ、セレネ様......」
脳裏に、白銀の髪を靡かせる聖女の姿が浮かぶ。
あの清らかな微笑み。穢れを知らない美しさ。話しかけるだけで心が洗われるような——。
マティアスは、うっとりと目を細めた。
セレネ様。ジルヴァ一族本家の至宝。神に選ばれし聖女。
同じジルヴァ一族として、彼女の存在は誇りだった。あの方がいるから、俺たち分家の者も胸を張っていられる。
それに——単純に、綺麗だ。
白磁のような肌。憂いを帯びた紫水晶の瞳。儚げでありながら、どこか芯の強さを感じさせる佇まい。
話しかける機会など滅多にないけれど、たまに廊下ですれ違うだけで、一日中幸せな気分でいられる。
「セレネ様と話せたら、ヴィクトール様も俺のこと見直してくれるかな......」
セレネ様の側仕えになれたら。
セレネ様から信頼される存在になれたら。
そうすれば、ヴィクトール様だって——。
「......無理か」
現実に引き戻されて、マティアスは肩を落とした。
セレネ様に近づけるのは、本家に連なる者か、よほどの実力者だけだ。リヒト家の俺なんかが気安く話しかけられる相手じゃない。
エルザは女だから、まだ侍女として傍に行く機会がある。
でも俺は——。
「......あーあ」
結局、俺には何もない。
ヴィクトール様からは認められず、セレネ様には近づけず、何者にもなれないまま——。
その時だった。
『——可哀想に』
「っ!?」
マティアスは足を止めた。
今、何か——声が聞こえた。
振り返る。誰もいない。
廊下には、夕陽に染まった影だけが長く伸びている。
「......気のせい、か」
首を傾げながら、再び歩き出す。
だが、三歩も進まないうちに——。
『——大変ですねぇ』
今度ははっきりと聞こえた。
どこから聞こえるのかわからない。壁の向こうか、天井か、それとも——自分の頭の中か。
性別のわからない、不思議な声だった。
男のようでもあり、女のようでもある。高くもなく、低くもない。
まるで——風が言葉を運んできたような。
「だ、誰だ......!」
マティアスは周囲を見回した。心臓がどくどくと早鐘を打つ。
誰もいない。物陰にも、窓の外にも、人の気配はない。
『怯えなくていいのですよ』
声が、また響いた。
今度は——どこか心地よかった。
穏やかで、優しくて、まるで母親に撫でられているような。
『私はただ......あなたのことが、気の毒に思えただけです』
「気の毒......?」
警戒しながらも、マティアスは立ち止まっていた。
逃げなければ、という本能と、もっと聞いていたい、という衝動がせめぎ合う。
『ええ。だって——』
声が、ほんの少しだけ、甘くなった。
『——あなたは、誰よりもヴィクトール様のことを想っているのに。二年も、ずっと。誰よりも早く傍に駆けつけて、誰よりも献身的に尽くしてきたのに』
心臓が、跳ねた。
なぜ——この声は、俺のことを知っている?
『なのに......「ああ」の一言。それだけ』
「......っ」
息が詰まった。
さっき、俺が考えていたこと。
聞かれていたのか——。
『視線は、いつもあなたを素通りする。ルドルフ様を見て、セレネ様を見て、今はあの黒髪の坊やばかり......』
「やめ......」
『あなたを見てくれない』
心臓を、直接掴まれたような感覚。
『辛いですよね』
声は、傷口に沁みる薬のように、優しかった。
『「よくやった」と言ってほしいだけなのに』
「......」
『「お前がいてくれて助かる」と、たった一言——』
「......ああ」
気づけば、マティアスは頷いていた。
ふわり、と。鼻先を甘い花の香りが掠めた気がした。
それを吸い込んだ瞬間、思考の芯が痺れるような心地よさに包まれる。
声に抗う気力が、溶けていく。
「そうなんだ......俺は、ただ......」
『わかりますよ』
声は、全てを受け止めるように響いた。
『あなたは......認められたいだけ。それは、何も悪いことではありません』
「悪く......ない......?」
『ええ。当然の願いです。それだけ尽くしてきたのですから』
マティアスの肩から、力が抜けていく。
ずっと張り詰めていた何かが、緩んでいく。
この声は——俺をわかってくれる。
ヴィクトール様も、エルザも、誰もわかってくれなかったことを——。
『でも......このままでは、永遠に認めてもらえませんよ』
「え......?」
『ヴィクトール様は今、あの黒髪の坊やのことで頭がいっぱいです。あなたがどれだけ尽くしても、目に入らない』
「......そう、だよな」
わかっている。わかっているんだ、そんなことは。
だから、面倒だと思った。だから、自室に戻ろうとした。
どうせ俺には何もできないから——。
『でも』
声が、ふわりと耳元で囁いた気がした。
『もし......あなたが、ヴィクトール様のためにあの坊やを「懲らしめて」あげたら?』
「......懲らしめる?」
『ヴィクトール様は、ご自分では手を下せません。お立場がありますから』
そうだ。ヴィクトール様は分家とはいえ、ジルヴァ一族の名を背負っている。本家の坊ちゃんに直接手を出すわけにはいかない。
だから——苛立っている。だから——苦しんでいる。
『だからこそ......誰かが、代わりにやってあげなければならないのです』
「代わりに......俺が......?」
『そう。ヴィクトール様の手を汚さないために。ヴィクトール様のお心を、少しでも軽くして差し上げるために』
声は、蜂蜜のように甘く、毒のように滑らかだった。
『あの坊やに、少しだけ......身の程というものを教えてあげるのです』
「身の程を......」
『大きな怪我をさせる必要はありません。ただ......恥をかかせてあげれば、それでいいのです。創世祭という、あの晴れ舞台で。皆が見ている前で』
創世祭。
三大一族の代表が揃う、華やかな儀式。
あの坊ちゃんが——失敗したら。
皆の前で、恥をかいたら。
『そうすれば......ヴィクトール様は、きっとあなたを見てくださる』
「俺を......見て......」
『ええ。「よくやった」と。「お前のおかげだ」と。そう言ってくださるでしょう』
マティアスの瞳に、光が戻った。
だが、それは——正気の光ではなかった。
ずっと欲しかった言葉。
ずっと認められたかった。
ずっと、ずっと——。
『全ては——ヴィクトール様のため、ですよ』
「......そうだ」
マティアスは、ゆっくりと口角を上げた。
「そうだよな......俺が、やるべきなんだ」
声はもう聞こえなかった。
最初から、何も聞こえていなかったかのように。
マティアスの頭の中には、もう「声」の記憶は残っていない。
あるのはただ——自分で思いついた「名案」だけ。
「俺がやれば......ヴィクトール様は、俺を見てくれる」
マティアスは、自分の足で歩き出した。その足取りには、先ほどまでの憂鬱は消え失せていた。
「ヴィクトール様のために......俺が、あの坊ちゃんを懲らしめてやる」
にやり、と。
卑屈で、浅はかで、どこまでも小さな笑みが浮かんだ。
「創世祭......楽しみだなぁ」
夕陽が沈み、廊下に闇が忍び寄る。
マティアスの影が、長く、長く伸びていた。
——彼は気づかない。
その「気づき」が、自分の内側から湧いたものではないことに。
誰かに植え付けられた「使命感」であることに。
そして——。
その声の主が、蠢く闇の中で笑っていることも。
クスクス、クスクス。
静かな優しげな笑い声だけが廊下に響く。
そして、誰にも気づかれることなく、それは闇に溶けて消えていった。
嵐の種は、静かに蒔かれた。
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