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夜空色の青春  作者: 上永しめじ
第三章 「紅・銀の波乱と創生の祭典」
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間話06「マティアス視点_囁く声」

 


 夕暮れの廊下を、マティアス・ジルヴァ・リヒトは一人で歩いていた。


 窓から差し込む茜色の光が、銀の髪を淡く染めている。だが、その表情は曇っていた。


 いつもはヴィクトールのそばに控え、付き従っているが。今日は一人の時間を過ごしている。


「はぁ......」


 思わず、深い溜息が漏れる。


 ヴィクトール様の機嫌が、このところずっと悪い。


 あの特別訓練の日から——いや、もっと前から。あの黒髪の坊ちゃんが現れてから、ヴィクトール様はどんどん険しい顔をするようになった。


 だから今日は、控室には近づかなかった。


 あの殺気立った空気の中に身を置くのは、心臓に悪い。それに——。



「......どうせ、俺がいてもいなくても同じだしな」



 ぼそりと呟いた言葉が、自分の耳に痛かった。


 マティアスは足を止め、窓枠に背を預けた。誰もいない廊下で、誰に言うでもなく、言葉が零れ落ちる。


「俺さぁ......ヴィクトール様についてって、もう二年目になるんだよな」


 二年。


 入学してすぐ、先輩であるヴィクトールの才覚に惹かれた。


 あの人についていけば間違いない。あの人の側にいれば、自分も上に行ける。そう思って、誰よりも早く傍に馳せ参じた。


 言われたことは何でもやった。


 資料を集めろと言われれば夜通し図書館を駆け回った。


 使い走りを頼まれれば、どんな雨の日でも文句一つ言わずに走った。


 ヴィクトール様の考えには全て賛同した。「その通りです」「さすがです」「おっしゃる通りです」——何度、そう言っただろう。



 なのに。



「......『ああ』だけなんだよな。いっつも」


 マティアスは自嘲気味に笑った。


 ヴィクトール様は、俺を見ない。


 正確には、見ているけれど——見ていない。


 視線は俺を通り過ぎて、いつも別の何かを見ている。ルドルフ様だったり、セレネ様だったり、最近はあの黒髪の坊ちゃんだったり。


 俺が何をしても、返ってくるのは「ああ」の一言。


「よくやった」とは言ってもらえない。


「助かった」とも言ってもらえない。


 まるで——俺がそこにいるのが当たり前みたいに。



「エルザは違うんだよな......」


 苦い思いが込み上げる。


 同じ追従者のエルザ。彼女がセレネ様の話をすると、ヴィクトール様は少しだけ表情を緩める。「そうか」と、ほんの少しだけ興味を示す。


 でも俺の報告には、いつも素っ気ない。


 『俺とエルザ、何が違うんだ?』


 俺の方が先にヴィクトール様についたのに。俺の方が長く仕えているのに。



「......俺って、何なんだろうな」



 窓の外を見る。


 夕陽が沈みかけている。空が赤から紫へと移り変わる、その境界線。


 俺はずっと、ヴィクトール様の「側」にいるつもりだった。


 でも本当は、「側」にいるだけで、「傍」にはいなかったのかもしれない。


 ヴィクトール様にとって、俺は——。



「......ただの、便利な奴、か」



 言葉にすると、余計に惨めだった。


 わかっている。俺には、ヴィクトール様やエルザのような才能はない。家柄だって、リヒト家はクロイツ家より格下だ。


 でも、だからこそ——。


 俺にしかできないことで、認めてほしかった。


「お前がいてくれて助かる」と。


「お前のおかげだ」と。


 たった一言でいい。そう言ってもらえたら、俺は——。



「......はは、何、俺」


 マティアスは頭を振った。


 馬鹿みたいだ。男のくせに、こんなことでウジウジして。


 気を取り直して、再び歩き出す。


 とにかく今日は自室に戻ろう。一人で考え込んでも、どうせ何も変わらない。明日になれば、また「ああ」と言われながら、ヴィクトール様の後ろをついていくだけだ。


 それでいいじゃないか。それが俺の——。



「面倒くせぇ......」



 全部が、面倒くさかった。


 ヴィクトール様の不機嫌も。あの黒髪の坊ちゃんのことも。自分のこんな気持ちも。


 キオ・シュバルツ・ネビウス。


 三大一族の本家の坊ちゃん。黒竜の眷属と契約した、今一番注目されている一年生。


 ヴィクトール様はあの坊ちゃんのことを目の敵にしているけれど——。



「無視すりゃあいいのに」


 あんな奴、放っておけばいいじゃないか。相手にするだけ損だ。


 俺だったら、もっと有意義なことに時間を使う。


 例えば——セレネ様とのおしゃべりとか。



「あーあ、セレネ様......」



 脳裏に、白銀の髪を靡かせる聖女の姿が浮かぶ。


 あの清らかな微笑み。穢れを知らない美しさ。話しかけるだけで心が洗われるような——。


 マティアスは、うっとりと目を細めた。


 セレネ様。ジルヴァ一族本家の至宝。神に選ばれし聖女。


 同じジルヴァ一族として、彼女の存在は誇りだった。あの方がいるから、俺たち分家の者も胸を張っていられる。


 それに——単純に、綺麗だ。


 白磁のような肌。憂いを帯びた紫水晶の瞳。儚げでありながら、どこか芯の強さを感じさせる佇まい。


 話しかける機会など滅多にないけれど、たまに廊下ですれ違うだけで、一日中幸せな気分でいられる。



「セレネ様と話せたら、ヴィクトール様も俺のこと見直してくれるかな......」



 セレネ様の側仕えになれたら。


 セレネ様から信頼される存在になれたら。


 そうすれば、ヴィクトール様だって——。



「......無理か」


 現実に引き戻されて、マティアスは肩を落とした。


 セレネ様に近づけるのは、本家に連なる者か、よほどの実力者だけだ。リヒト家の俺なんかが気安く話しかけられる相手じゃない。


 エルザは女だから、まだ侍女として傍に行く機会がある。


 でも俺は——。



「......あーあ」



 結局、俺には何もない。


 ヴィクトール様からは認められず、セレネ様には近づけず、何者にもなれないまま——。



 その時だった。




『——可哀想に』




「っ!?」


 マティアスは足を止めた。


 今、何か——声が聞こえた。


 振り返る。誰もいない。


 廊下には、夕陽に染まった影だけが長く伸びている。



「......気のせい、か」


 首を傾げながら、再び歩き出す。


 だが、三歩も進まないうちに——。



『——大変ですねぇ』



 今度ははっきりと聞こえた。


 どこから聞こえるのかわからない。壁の向こうか、天井か、それとも——自分の頭の中か。


 性別のわからない、不思議な声だった。


 男のようでもあり、女のようでもある。高くもなく、低くもない。


 まるで——風が言葉を運んできたような。



「だ、誰だ......!」


 マティアスは周囲を見回した。心臓がどくどくと早鐘を打つ。


 誰もいない。物陰にも、窓の外にも、人の気配はない。



『怯えなくていいのですよ』



 声が、また響いた。


 今度は——どこか心地よかった。


 穏やかで、優しくて、まるで母親に撫でられているような。



『私はただ......あなたのことが、気の毒に思えただけです』



「気の毒......?」


 警戒しながらも、マティアスは立ち止まっていた。


 逃げなければ、という本能と、もっと聞いていたい、という衝動がせめぎ合う。



『ええ。だって——』



 声が、ほんの少しだけ、甘くなった。



『——あなたは、誰よりもヴィクトール様のことを想っているのに。二年も、ずっと。誰よりも早く傍に駆けつけて、誰よりも献身的に尽くしてきたのに』



 心臓が、跳ねた。


 なぜ——この声は、俺のことを知っている?



『なのに......「ああ」の一言。それだけ』



「......っ」


 息が詰まった。


 さっき、俺が考えていたこと。


 聞かれていたのか——。



『視線は、いつもあなたを素通りする。ルドルフ様を見て、セレネ様を見て、今はあの黒髪の坊やばかり......』



「やめ......」


『あなたを見てくれない』



 心臓を、直接掴まれたような感覚。



『辛いですよね』



 声は、傷口に沁みる薬のように、優しかった。



『「よくやった」と言ってほしいだけなのに』


「......」


『「お前がいてくれて助かる」と、たった一言——』


「......ああ」


 気づけば、マティアスは頷いていた。


 ふわり、と。鼻先を甘い花の香りが掠めた気がした。

 それを吸い込んだ瞬間、思考の芯が痺れるような心地よさに包まれる。


 声に抗う気力が、溶けていく。


「そうなんだ......俺は、ただ......」



『わかりますよ』



 声は、全てを受け止めるように響いた。



『あなたは......認められたいだけ。それは、何も悪いことではありません』



「悪く......ない......?」


『ええ。当然の願いです。それだけ尽くしてきたのですから』



 マティアスの肩から、力が抜けていく。


 ずっと張り詰めていた何かが、緩んでいく。


 この声は——俺をわかってくれる。


 ヴィクトール様も、エルザも、誰もわかってくれなかったことを——。



『でも......このままでは、永遠に認めてもらえませんよ』



「え......?」


『ヴィクトール様は今、あの黒髪の坊やのことで頭がいっぱいです。あなたがどれだけ尽くしても、目に入らない』



「......そう、だよな」


 わかっている。わかっているんだ、そんなことは。


 だから、面倒だと思った。だから、自室に戻ろうとした。


 どうせ俺には何もできないから——。



『でも』



 声が、ふわりと耳元で囁いた気がした。



『もし......あなたが、ヴィクトール様のためにあの坊やを「懲らしめて」あげたら?』



「......懲らしめる?」


『ヴィクトール様は、ご自分では手を下せません。お立場がありますから』



 そうだ。ヴィクトール様は分家とはいえ、ジルヴァ一族の名を背負っている。本家の坊ちゃんに直接手を出すわけにはいかない。


 だから——苛立っている。だから——苦しんでいる。



『だからこそ......誰かが、代わりにやってあげなければならないのです』



「代わりに......俺が......?」


『そう。ヴィクトール様の手を汚さないために。ヴィクトール様のお心を、少しでも軽くして差し上げるために』



 声は、蜂蜜のように甘く、毒のように滑らかだった。



『あの坊やに、少しだけ......身の程というものを教えてあげるのです』



「身の程を......」


『大きな怪我をさせる必要はありません。ただ......恥をかかせてあげれば、それでいいのです。創世祭という、あの晴れ舞台で。皆が見ている前で』



 創世祭。


 三大一族の代表が揃う、華やかな儀式。


 あの坊ちゃんが——失敗したら。


 皆の前で、恥をかいたら。



『そうすれば......ヴィクトール様は、きっとあなたを見てくださる』



「俺を......見て......」


『ええ。「よくやった」と。「お前のおかげだ」と。そう言ってくださるでしょう』



 マティアスの瞳に、光が戻った。


 だが、それは——正気の光ではなかった。


 ずっと欲しかった言葉。


 ずっと認められたかった。


 ずっと、ずっと——。



『全ては——ヴィクトール様のため、ですよ』



「......そうだ」


 マティアスは、ゆっくりと口角を上げた。


「そうだよな......俺が、やるべきなんだ」



 声はもう聞こえなかった。


 最初から、何も聞こえていなかったかのように。


 マティアスの頭の中には、もう「声」の記憶は残っていない。


 あるのはただ——自分で思いついた「名案」だけ。



「俺がやれば......ヴィクトール様は、俺を見てくれる」


 マティアスは、自分の足で歩き出した。その足取りには、先ほどまでの憂鬱は消え失せていた。



「ヴィクトール様のために......俺が、あの坊ちゃんを懲らしめてやる」


 にやり、と。


 卑屈で、浅はかで、どこまでも小さな笑みが浮かんだ。



「創世祭......楽しみだなぁ」




 夕陽が沈み、廊下に闇が忍び寄る。


 マティアスの影が、長く、長く伸びていた。




 ——彼は気づかない。


 その「気づき」が、自分の内側から湧いたものではないことに。


 誰かに植え付けられた「使命感」であることに。



 そして——。


 その声の主が、蠢く闇の中で笑っていることも。



 クスクス、クスクス。


 静かな優しげな笑い声だけが廊下に響く。


 そして、誰にも気づかれることなく、それは闇に溶けて消えていった。




 嵐の種は、静かに蒔かれた。



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