第41話「怒りと自責の念(3)」
その夜。
一切の光が届かぬ深き闇の底で、パラッツォは一人、笑っていた。
冷たく湿った空気が澱むその空間は、果てしなく広いようでもあり、息が詰まるほど狭いようでもあった。足元には形を持たない影が渦を巻き、彼の存在だけが、この虚無における唯一の実体だった。
「ふふふ......ふふふふふ......」
彼の忍び笑いが、どこまでも続く闇の壁に反響しては吸い込まれていく。
目の前の虚空には、冷気が凝縮したかのような霧がゆらゆらと浮かび上がり、いくつもの窓を形作っていた。その不安定な揺らぎの中に、地上の光景が鮮明に映し出されている。
寮の自室で、ベッドに腰掛けたまま動かないキオの姿。月明かりが彼の孤独を際立たせている。
原因を探ろうと動き始めたルドルフの後ろ姿。その足取りは、夜の廊下で焦燥を孕んでいた。
そして、キオに教えられるのは自分だと確信するベゼッセンの横顔。理知的な瞳の奥に、使命感という名の熱が灯る。
「ああ、愉快だ。実に愉快ですねぇ」
パラッツォは、闇に溶け込むような黒衣の袖を揺らし、優雅に指を鳴らした。パチン、という乾いた音が、静寂に満ちた空間を鋭く切り裂く。その音に呼応するように、周囲の影がざわりと波打った。
「ヴィクトール君は、期待以上の働きをしてくれました。お陰で、キオ君の心に——小さな、でも確かな傷がついた」
彼は、霧の中のキオを愛おしげに見つめた。窓から漏れる微かな光が、パラッツォの顔に深い陰影を落とす。
「『無自覚に人を傷つけていた』......ああ、なんて美味しい疑問でしょう。その困惑、その自問——後々、きっと役に立ちますよ」
そして、ルドルフとベゼッセンの映像を並べて眺める。霧が揺らぎ、二人の姿が歪んで混じり合う。
「彼らも、それぞれの思惑で動き始めましたねぇ。ルドルフ君は『原因を』と。ベゼッセン様は『教えなければ』と」
クククと、忍び笑いが漏れた。その吐息が白く濁り、闇に溶けていく。
「善意ほど厄介なものはありませんからねぇ。彼らは自分が正しいと信じているからこそ——もっともっと、キオ君に近づこうとするでしょう」
パラッツォは背後を振り返ることなく、ゆっくりと腰を下ろした。彼の意志に応えるように、足元の影がねっとりと隆起し、凝縮され、彼を受け止めるための豪奢な玉座を織りなした。冷たい影の感触を楽しみながら、彼は深く腰掛ける。
「さて、次の幕が楽しみですねぇ。キオ君は、あの傷をどう乗り越えるのでしょうか」
霧の窓の光を受けて輝くその瞳に、周囲の闇よりも深い、陰湿な期待が渦巻く。
「友人たちに救われるのでしょうか? それとも、別の何かに飲み込まれてしまうのでしょうか?」
パラッツォの高笑いが、再び闇の底に響き渡った。それは、獲物を追い詰める蜘蛛が巣の中心で上げる、歓喜の歌のようだった。
「どちらにしても——私は、特等席で見届けますよ」
―――
キオは寮の自室で、ベッドに腰掛けたまま、窓の外を見つめていた。
月明かりが、静かに部屋を照らしている。
シュバルツは、いつものようにキオの傍らに座っていた。何も言わず、ただ寄り添うように。
長い沈黙の後——キオが、ぽつりと呟いた。
「......私は、あの人の苦しみを、見ようとしていなかったのかな」
独り言のような、小さな声だった。
「皮肉を言われていることも。悪意があることも、オーウェンやシュバルツに教えてもらって知っていた。でも......」
キオは、自分の手を見つめた。
「それでも、感謝を伝えることが正しいと思っていた。だってそれが本心だったし......」
シュバルツは黙って聞いていた。
「でも、それは......あの人にとっては、嫌なことだったんだね」
キオの声には、自責と困惑が入り混じっていた。
「私......全然気づいてなかった」
『私の苦しみなど、お前には見えてすらいないんだろう』
ヴィクトールの言葉が、まだ頭の中で響いている。
「......どうすればよかったんだろう」
答えは出ない。
キオは静かに目を閉じた。
シュバルツの大きな手が、キオの頭にそっと置かれた。
「......今日は休め」
低く、穏やかな声。
「答えは、明日考えればいい」
「......うん」
キオは小さく頷いた。
シュバルツの温もりを感じながら、ゆっくりとベッドに横になる。
眠れるかどうか、分からなかった。
だが、今はただ——目を閉じていたかった。
窓の外では、月が静かに学園を照らしていた。
嵐の前の静けさが、夜の帳の中に溶けていく。
答えは見つからないまま。
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