第41話「怒りと自責の念(2)」
訓練室に静寂が戻った。
シュバルツが振り返ると、キオは壁にもたれたまま、立ち尽くしていた。
「キオ」
シュバルツが歩み寄り、キオの肩にそっと手を置いた。
「......大丈夫か」
「......うん」
キオは短く答えた。
その声は平坦で、表情も動かない。
ただ、虚ろな目で、ヴィクトールが去っていった扉を見つめている。
シュバルツは何も言わず、キオの傍に立った。
今は、何を言っても届かないだろうと分かっていたから。
キオの頭の中で、ヴィクトールの言葉が反響していた。
『私の苦しみなど、見えてすらいないんだろう』
『私など、お前の眼中にすらない』
『私の努力を、足掻きを、何も知らない顔で踏みにじって』
「......そうだったのか」
キオは、静かに目を伏せた。
自分はずっと、ヴィクトールの言葉を「助言」として受け取っていた。だからこそ感謝を伝えることが、正しい対応だと思っていた。
だが、それは——ヴィクトールにとっては、最大の侮辱だったのだ。
『私は、無自覚にヴィクトールを追い詰めていた』
その事実が、重く胸にのしかかる。
悪意を持っていたのはヴィクトールの方だ。理不尽に攻撃してきたのも、胸ぐらを掴んできたのも、全て彼の側の問題だ。
頭では、それが分かっている。
だが——。
『私みたいな人間の気持ちなど、一生分かるはずがない』
あの言葉が、どうしても頭から離れなかった。
ヴィクトールの目に浮かんでいた涙。怒りの奥に見えた、深い苦しみ。
『......私は、どうすればよかったんだろう』
答えは出ない。
キオは黙ったまま、冷たい石の壁に背を預けていた。
「......帰るぞ、キオ」
シュバルツの声が、静かに響いた。
「......うん」
キオは短く頷いた。
シュバルツに支えられるようにして、訓練室を後にする。
その足取りは重く、顔には何の表情も浮かんでいなかった。
寮へ向かう廊下は、すでに夕闇に沈みかけていた。
窓から差し込む最後の茜色が、長い影を落としている。
キオは俯いたまま、シュバルツの隣を歩いていた。
——その時だった。
「キオ様?」
聞き覚えのある声が、廊下に響いた。
キオが顔を上げると、前方からルドルフが歩いてくるところだった。
白銀の髪が夕陽に照らされ、優美な輝きを放っている。
だが、キオの顔を見た瞬間——ルドルフの表情が、驚きに変わった。
「キオ様......? どうかされたのですか? ヴィクトールとの練習の状況を見させて頂こうと思ったのですが......」
ルドルフは足早に近づいてきた。
「顔色が優れないように見えますが......何かありましたか?」
その声には、純粋な心配が滲んでいた。
「あ......ハイリヒ君」
キオは我に返ったように、慌てて表情を作った。
「ううん、大丈夫。少し疲れただけで......」
「本当ですか?」
ルドルフが眉を寄せる。
「何かあったのではありませんか? 訓練で......」
「いえ、本当に......ちょっとした行き違いがあっただけだから」
キオは曖昧に答えた。
ヴィクトールの名前を出すべきか、迷った末に、言わないことを選んだ。
同じジルヴァ一族の問題だ。下手に口を出せば、話がややこしくなる。
「スバル殿」
ルドルフが、キオの隣に立つ竜人に視線を向けた。
「キオ様に何があったのですか」
「......些細なことだ」
シュバルツは短く答えた。
「キオは疲れている。今日は休ませてやりたい」
ルドルフは何か言いたげだったが、シュバルツの威圧感に押されるように、一歩引いた。
「......わかりました。キオ様、どうかお身体をお大事に」
ルドルフは深々と一礼した。
「何かあれば、いつでもお申し付けください。僕にできることがあれば、何でもいたしますから」
「......ありがとう。ハイリヒ君」
キオは小さく頭を下げた。
そして、シュバルツと共に、寮への道を急いだ。
その背中を見送りながら、ルドルフは一人、廊下に佇んでいた。
「......キオ様の様子がおかしい」
呟きが、夕闇に溶けていく。
彼の胸の中で、何かがざわめいていた。
『何があったのだろう』
『ヴィクトールが何かしたのだろうか』
ルドルフの拳が、無意識に握りしめられた。
原因を突き止めなければ。
そして——キオ様の憂いを無くさなければ。
それが、ジルヴァ一族として――キオ様を導くものとしての当然の務めだ。
ルドルフは踵を返し、歩き出した。
同じ頃。
学園の一角にある、ある一室。
ベゼッセン・シュバルツ・ヴァーグナーは、窓辺に立ち、夕闇に沈む学園を眺めていた。
——その背後に、音もなく影が滲み出した。
「ご機嫌麗しゅう、ベゼッセン様」
甘く、囁きかけるような声。
ベゼッセンは振り返ることなく、冷ややかに答えた。
「......パラッツォか。何の用だ」
「ふふふ、そう邪険にしないでくださいな」
パラッツォは、まるで散歩でも楽しむかのような足取りで、ベゼッセンの傍に歩み寄った。
「今日は、とっても面白いことがありましたのでねぇ。お知らせに参ったのですよ」
「......面白いこと?」
「ええ、ええ」
パラッツォは楽しげに目を細めた。
「キオ君がねぇ......随分と落ち込んでいたのですよ」
ベゼッセンの肩が、ピクリと動いた。
「......何?」
「ふふふ、やっぱり気になりますか?」
パラッツォは嬉しそうに手を叩いた。
「訓練室でのことです。ヴィクトール君——ほら、ジルヴァ一族の分家の坊やですよ——が、キオ君に掴みかかりましてねぇ」
「......」
「『馬鹿にするな』『お前には私の苦しみなど見えていない』『私の努力を踏みにじりやがって』と、まあ、色々と怒鳴っておりました。すぐに、あの竜人に止められましたが」
パラッツォは肩をすくめて見せた。
「キオ君はすっかり意気消沈してしまって。まあ、子供同士の喧嘩と言ってしまえばそれまでですが......ふふ、可哀想に」
その声には、同情のかけらもない。
むしろ、愉悦が滲んでいた。
ベゼッセンは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「......子供同士の諍いか」
「そうですねぇ。ヴィクトール君は嫉妬していたのでしょう。キオ君の魔力量に、立場に、そして......あの天真爛漫な態度に」
「ふむ」
ベゼッセンは、窓の外を見つめたまま、低く呟いた。
「......貴族特有の皮肉の言い回しにキオが気づかなかった、ということか」
「そのようですねぇ。善意で受け取っていたようで」
「......あの子は、そういうところがある」
ベゼッセンの声に、批判の色はなかった。
むしろ、何かを確信したような響きがあった。
「純粋と言えば聞こえはいいが......貴族社会を生き抜くには、あまりに無防備だ」
「そうですねぇ。無垢なのは美徳ですが、それだけでは......」
パラッツォが、探るような目でベゼッセンを見つめる。
だが、ベゼッセンの表情には、暗い影は見えない。
代わりにあったのは——大人としての、静かな確信。
「......やはり」
ベゼッセンは、独り言のように呟いた。
「あの子には、私が教えてやらねばならないことが、多いようだな」
皮肉の読み取り方。悪意への対処法。貴族社会を生き抜くための術。
そう呟く声には、教育者としての使命感が込められていた。
「あの子は優秀だが、世間を知らなさすぎる。兄たちは甘やかしすぎた」
「ふふふ、さすがベゼッセン様。大人の視点ですねぇ」
パラッツォが、意味深な笑みを浮かべる。
「では、私はこれで。また何かあれば、お知らせに参りますよ」
「......ああ」
パラッツォの気配が、音もなく消えた。
一人残されたベゼッセンは、夕闇に沈む学園を見つめ続けた。
「キオ......」
小さく呟く。
――あの子を、一人前の貴族として育て上げる。
――それが、私の役目だ。
――私にしかできぬ事だ。
ベゼッセンは静かに目を閉じた。
その確信は、一見普通のように見えるが。
その言葉の裏には暗い影が潜んでいた。
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