第39話「魔力の調整練習(3)」
一方、その頃。
ジルヴァ一族の生徒たちがサロンとして使用している特別室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
そこは、壁も天井も、置かれている調度品に至るまで、すべてが純白で統一された空間だった。窓枠には精緻な銀細工が施され、夕暮れの赤い光でさえも、この部屋に入れば冷ややかな静謐さへと濾過されてしまうかのようだ。
まるで礼拝堂の控え室を思わせるその清浄な空気は、ジルヴァ一族が誇る「癒し」と「潔癖」を体現していると言っていい。
だが今、その静寂は、ある一人の少年の激情によって、荒々しく切り裂かれようとしていた。
カチャリ、ッ!
硬質な音が響く。
白磁のティーカップが、受け皿に乱暴に戻された音だった。あまりに強い力が込められたせいで、中の紅茶が僅かに跳ね、純白のテーブルクロスに茶色い染みを作る。
「......ふざけるな」
低く、地を這うような呻き声。
革張りの白いソファに深く体を沈めていたヴィクトール・ジルヴァ・クロイツは、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「ふざけるな......ッ!」
ドサッ!!
彼の手が、横に置かれていたクッションを掴み、力任せに壁へと叩きつけた。
白銀の糸で刺繍された美しいクッションが、無残に歪み、床へと転がり落ちる。
「ヴィクトール様......!」
部屋の隅に控えていたマティアスが、ビクリと肩を震わせた。
普段は冷徹な仮面を被り、完璧な礼儀作法を崩さないヴィクトールの、あまりに露骨な乱心。
ヴィクトールは、整えられた前髪を苛立たしげにかき上げると、荒い息を吐きながら立ち上がった。
「何なのだ、あの男は! あの救いようのない愚鈍さは!」
彼は部屋の中を徘徊し始めた。その足取りは苛立ちに満ちており、カツ、カツという靴音が、まるで彼の心拍数のようにはやく、強く響く。
「私が皮肉を言っても、感謝だと? 『参考になりました』だと? 馬鹿にしているのか! それとも本物の馬鹿なのか!」
ヴィクトールの脳裏に焼き付いているのは、練習場でのキオの顔だ。
あの屈託のない、間の抜けた笑顔。
ヴィクトールが精一杯の悪意を込めて放った言葉を、あろうことか「助言」として受け取り、素直に頭を下げたあの姿。
それが、ヴィクトールの高く尊大なプライドを何よりも逆撫でしていた。
貴族同士の会話において、皮肉とは洗練された剣のようなものだ。直接的な罵倒ではなく、言葉の裏に毒を潜ませ、相手の知性を試す。
だが、キオはそれを柳のように受け流すどころか、毒を栄養にしてしまった。
これでは、まるでヴィクトールが本当に親切心で助言をしただけになってしまうではないか。
「まるで、水面に剣を振るっているような手応えのなさだ......。あのような鈍感な男が、三大一族の一角を担うなど、冗談にも程がある」
ヴィクトールは吐き捨てるように言い、窓の外を睨みつけた。
「それに、あの魔力だ! 見たかマティアス! あの暴力的な魔力を! なんて野蛮なんだ!」
興奮冷めやらぬ様子で、ヴィクトールはマティアスに同意を求める。
マティアスは慌てて床のクッションを拾い上げ、埃を払うふりをしながら頷いた。
「は、はい。拝見いたしました。ものすごい量でしたね......」
「量だけの問題ではない! 質の話をしているのだ!」
ヴィクトールが声を荒らげる。
「繊細さの欠片もない、泥水のような黒い濁流......。あんな野蛮な力が、崇高なるジルヴァ一族の光と交わるなど、冒涜だ! 美しく整えられた庭園に、泥足の獣が踏み込んできたも同然ではないか!」
彼の目には、キオの存在そのものが許しがたい「汚れ」として映っていた。
本来、創世祭の儀式は、選ばれた者たちが織りなす芸術であるはずだ。
そこには、オーウェン殿下のような王者の輝きと、セレネ様のような清らかな癒しが必要なのだ。
なのに、あのキオという異物が混ざることで、すべてが台無しになっていく。
そして何より許せないのは――。
「......ルドルフ様だ」
ヴィクトールの声が、悔しさに震える。
「あろうことか、あのルドルフ様が......あの男を称賛された」
思い出されるのは、キオの暴走気味な魔力を見た時の、ルドルフの恍惚とした表情。
ヴィクトールにとって、ルドルフは絶対的な目標であり、崇拝の対象だ。知性、魔力、品格、すべてにおいて完璧な次期当主。
そのルドルフが、自分には決して向けないような熱っぽい視線を、あの泥臭い三男坊に向けていたのだ。
「目が曇っておられる......。あの男の無駄な魔力量に、騙されておられるのだ」
ギリ、と爪が掌に食い込む。
嫉妬。強烈な嫉妬が、ヴィクトールの胸の中でどす黒い炎となって燃え上がった。
「落ち着いてください、ヴィクトール様。熱くなっては、紅茶が冷めてしまいます」
マティアスが、新しいカップに紅茶を注ぎながら、宥めるような口調で言った。
彼はヴィクトールの機嫌を損ねないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「ですが、ヴィクトール様のおっしゃる通りです。あのキオという男、どうも自分の立場を理解していないようで......。やはり、本家の三男坊などというのは、甘やかされて育った役立たずなのでしょう」
マティアスは恭しくカップを差し出す。
「オーウェン殿下やセレネ様は別格として、あの男だけは......どう見ても浮いています。ヴィクトール様のような、真に実力と品格を兼ね備えた方が指導なさらなければ、儀式そのものが危うい」
その言葉は、ヴィクトールの自尊心を心地よく刺激した。
彼は少しだけ表情を緩め、ソファにどさりと腰を下ろす。
「ふん......役立たずどころか、害悪だ」
ヴィクトールがカップを手に取る。
彼の足元では、主人の感情を敏感に感じ取った銀色の狼の精霊が、グルルル......と低い唸り声を上げ、カーペットを鋭い爪で掻いていた。
「私がどれほどの時間をかけて、魔力の制御を学んできたと思っている。どれほどの努力を重ねて、この地位を築いてきたと......!」
本家であるマジェスタ家や近い血縁であるハイリヒ家とは違い、クロイツ家はジルヴァ一族の中でもあまり地位が高くなく、髪色も、高貴な白銀には届かない、鈍い銀色をしている。
そんな家に生まれながら、努力と才能で頭角を現し、ルドルフの側近という立場を勝ち取った自負がある。
だからこそ、魔力量が多いだけの何も考えていないように見えるキオが、許せないのだ。
マティアスは、ヴィクトールの怒りの矛先が定まったのを見て取り、ニヤリと卑屈な笑みを浮かべた。
ここでヴィクトールの背中を押せば、自分もまた「共犯者」として、より深く彼に取り入ることができる。
「でしたら......この際、一度ガツンと言ってやった方がよろしいのではありませんか?」
悪魔の囁きのように、マティアスは提案した。
「......何?」
ヴィクトールが怪訝そうに眉を寄せる。
「先ほども仰った通り、遠回しな言い方では、あの鈍い男には通じません。言葉の裏を読む知性がないのですから」
マティアスは一歩前に進み出て、声を潜めた。
「もっと直接的に......例えば、彼がいかにこの儀式に相応しくないか、身の程というものを『わからせて』差し上げるのです。言葉ではなく、もっとわかりやすい形で」
その提案を聞いた瞬間、ヴィクトールの瞳の奥で、冷たい光が揺らめいた。
直接的な指導。
言葉の通じない獣には、躾が必要だということか。
「......なるほど」
ヴィクトールは紅茶を一口含み、ゆっくりと嚥下した。
喉を通る熱さが、腹の底の怒りと混ざり合い、奇妙な高揚感へと変わっていく。
「お前の言う通りかもしれん」
彼はカップをソーサーに戻すと、指先でその縁をなぞった。
口元が、ゆっくりと歪んでいく。それは、獲物を追い詰める方法を思いついた狩人のような、冷酷で、昏い悦びを含んだ笑みだった。
「教育が必要だ。言葉の裏も読めぬ野蛮人には、相応の『指導』をしてやらねばな」
これは私怨ではない。
ルドルフ様とセレネ様のため。
そして、何よりジルヴァ一族の「正しさ」を守るための、正義の行いなのだ。
自分自身にそう言い聞かせるヴィクトールの瞳には、もはや理性的な輝きは失われていた。
あるのは歪んだ使命感と、キオに対する底知れぬ悪意のみ。
窓の外では、太陽が完全に沈み、夜の闇が学園を包み込もうとしていた。
その闇に呼応するかのように、白銀の部屋の中で、一つの黒い計画が動き出したのだった。
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