第36話「温かな約束、冷たい祈り(2)」
一方その頃。
中庭を一望できる屋敷の二階、客室の窓辺では、リーリエとベアトリスがレースのカーテン越しにそっと二人の様子を伺っていた。
窓は少しだけ開けられており、冷たい風と共に、庭からの楽しげな笑い声が微かに流れ込んでくる。
聞こえてくるのは断片的な単語だけ。「夏休み」「実家」「行くよ」「約束」――。
「まあ......! まあ......!」
リーリエが頬に手を当て、うっとりとした表情で身を乗り出した。
「聞きましたか、ベアトリスさん。『夏休みにご実家へ行く約束』ですって......!」
「ええ、ええ、聞こえましたわ、リーリエ様!」
ベアトリスもまた、興奮した様子で何度も頷いている。彼女の瞳は、期待と妄想でキラキラと輝いていた。
「学園の休暇を利用して、相手のご実家にご挨拶......。これはもう、将来を見据えた真剣な約束に違いありませんわ!」
「なんて素敵な雰囲気なんでしょう。キオ様もルイ様も、とっても幸せそうですわ」
「まさに青春ですわねぇ......」
「はい......尊い青春ですわ......」
実際は、単に「美味しいご飯を食べに行きたい」という、食い気に基づいた友人同士の約束に過ぎない。
しかし、重度の恋愛小説愛好家である二人のフィルターを通すと、その光景は甘酸っぱく、そして輝かしい「恋のワンシーン」として美しく変換され、補正されていた。
二人は互いに手を取り合い、勝手に盛り上がりながら、庭の二人を温かく(そして生暖かく)見守り続けるのだった。
―――
やがて太陽が西に傾き、空が茜色に染まり始めた頃。いよいよ別れの時が訪れた。
午後からの冷え込みが増してきたネビウス邸の玄関前には、ルイとベアトリスを乗せるための馬車が待機している。
御者が荷物を積み込む音が、静かな夕暮れに響いていた。
「行ってしまわれるのね......」
勉強から解放されたルーアが、玄関の階段で寂しそうに唇を尖らせていた。
彼女はルイの手をぎゅっと両手で握りしめたまま、離そうとしない。その瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいる。
「ルイお姉さま、また絶対に来てね! 絶対の絶対よ! 約束よ!」
「うん、約束するよ。ルーアちゃん」
ルイはしゃがみこみ、ルーアの目線に合わせて優しく微笑んだ。
「今度来る時は、もっとたくさんお菓子を持ってくるからね。私が焼いたクッキー、いっぱい持ってくる」
「本当!? やったー! ルイお姉さま大好き!」
お菓子の話が出た途端、ルーアの表情がぱっと輝いた。先程までの悲壮感はどこへやら、現金なものである。
そんなルーアの頭を撫でてから、ルイは少し離れた場所に立っている少年に視線を移した。
「......ネロ君も、元気でね」
声をかけられたネロは、ふいっと顔を逸らした。
「別に......当然だ。......あなたもな」
ぶっきらぼうな口調。最後の一言は、風にかき消されそうなほど小さな声だった。
だが、ルイにはその不器用な優しさがちゃんと届いていたようだ。
「ふふ、ありがとう、見送りに来てくれて」
「う、うるさいな......たまたま外に出ただけだ」
図星を突かれたのか、それとも見透かされたのが恥ずかしいのか、ネロの耳が夕焼けよりもほんのりと赤く染まる。
「ルイさん、また、いつでもいらしてくださいね」
リーリエが丁寧に頭を下げ、見送りの挨拶をした。
「ああ、道中は冷えるから、気をつけて」
セクも穏やかな笑みを浮かべ、労りの言葉をかける。
「はい、本当にお世話になりました」
ルイが深く頭を下げ、その隣でベアトリスも優雅に一礼した。
「ありがとうございました。とても楽しい時間を過ごせましたわ」
最後に、キオが二人の前に立った。
「二人とも、本当にありがとう。楽しかったよ」
「私こそ、ありがとうキオ君」
「私もですわ、キオ様」
三人は、自然と笑顔を交わし合う。
そこには、特別な言葉はいらなかった。またすぐに学園で会える。そんな安心感が、別れの寂しさを温かく包み込んでいた。
「新学期に、また会おうね」
「うん!」
その時、それまで静かに控えていたシュバルツが一歩前に出た。
「道中の安全を祈る。......また会おう」
威厳のある、しかし優しい声だった。
「ありがとうございます、スバルさん」
「じゃあ......またね」
ルイが、キオに向かって小さく手を振った。
「うん、またね。気をつけてね」
ルイとベアトリスは馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる重たい音が響き、御者の合図と共に、車輪がゆっくりと回り始める。砂利を踏む音が、静寂の中に響き渡った。
「バイバーイ! ルイお姉さまー! またねー!」
ルーアが大きく手を振りながら叫ぶ。
馬車の小窓からは、ルイとベアトリスが手を振り返しているのが見えた。馬車は並木道を滑るように進み、冬の枯れ木立の向こうへと、少しずつ小さくなっていく。
やがて馬車の姿が見えなくなると、辺りには再び冬の静けさが戻ってきた。
「......行っちゃった」
ルーアがしょんぼりと肩を落とす。祭りのあとのような、ぽっかりとした空気が漂う。
「また会えるさ。だから、そんな顔するな」
ネロが、隣でぶっきらぼうに慰めた。
「......ネロも、寂しいくせに」
「う、うるさい! 僕は別に......」
双子のやり取りを背中で聞きながら、キオは馬車が消えていった並木道をじっと見つめていた。
冷たい風が吹き抜け、キオの前髪を揺らす。
『寂しいか?』
シュバルツの声が、心の中に響いた。
『少しね』
キオは素直に答えた。
『でも......寂しいけど、大丈夫だよ。すぐに学校で会えるから』
『ああ。そうだな』
シュバルツは納得したように頷き、楽しげな響きを含んだ声で続けた。
『それに、次はルイの実家に行くんだったな。あの娘の親が作る料理、俺も楽しみだ』
『あはは、そうだね』
『美味いものを食べるとみんなが幸せになる。いいことだ』
『違いないや』
シュバルツの温かい尾が、キオの腰にそっと巻きつく。
その温もりに背中を押されるようにして、キオは一つ深呼吸をし、くるりと振り返った。
そこには、家族が待っている。
穏やかに微笑むセクとリーリエ。じゃれ合いながらも仲の良い双子たち。そして、頼もしい相棒シュバルツ。
大切な人たちが、温かい笑顔で自分を見つめていた。
屋敷の窓からは、暖炉の明かりが漏れ始めている。
「さあ、中に入ろうか。日が陰ると寒いからね」
セクがみんなに声をかけた。
「うん! キオ兄さま、おやつ食べよう! さっきの続き!」
ルーアが元気よく返事をして、キオの手に飛びついた。冷たくなっていた手が、すぐに小さな温もりに包まれる。
「そうだね。みんなで食べよう」
キオは家族と共に、温かな灯りのともる屋敷の中へと戻っていく。
別れは、終わりではない。それは再会への約束であり、次なる楽しみへの入り口だ。
今日の終わりは、明日への始まり。
キオはそう信じて、大切な家族と、心を通わせる相棒と共に歩き出した。
冬の足音は、確かな温もりを抱きながら、静かに冬の夜明けへと向かっていた。
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