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夜空色の青春  作者: 上永しめじ
第3章 「紅・銀の波乱と創生の祭典」
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第34話「告白と兄のぬくもり(2)」

 



 風の音ではない。明らかに、何かが木を登ってくる音だ。枝が折れる音や、葉が擦れる音が、下の方から近づいてくる。



「ん?」


 キオとシュバルツは顔を見合わせ、揃って下を覗き込んだ。


 野生動物だろうか。警戒心を抱いて覗き込んだ視線の先には——



「うおっ、と......! くっ、この枝は......!」


 信じられない光景があった。

 黒髪を後ろで束ねた青年が、必死の形相で幹にしがみついていたのだ。


 仕立ての良い上質なフロックコートを着込んだまま木登りを試みており、長い裾が枝にひっかかったり、磨き上げられた革靴が苔で滑りそうになったりと、その動きは極めて危なっかしい。


「セク兄さん!?」


 キオは思わず声を上げた。目を疑った。

 領主であり、常に優しく冷静沈着な兄が、なぜこんな場所で、子供のような真似をしているのか。


「ん......っ! おお、キオ......!」


 声に気づいたセクは、額に汗を滲ませながら、なんとかキオたちのいる高さまで到達した。


 最後の一歩を踏ん張り、隣の太い枝に身体を預けるようにして登り切る。そこでどっかりと腰を下ろし、大きく息をついた。


 整っていたはずの髪は乱れ、高級な服には樹皮の粉がついている。


「危なかった......。昔はもっと楽に登れた気がするんだが......」


「いや、その格好で登る方がどうかしてるよ......」


 キオは呆れながらも、思わず笑みがこぼれた。


 フロックコートに革靴という、およそ木登りに適さない格好で懸命に登ってきた兄の姿は、滑稽でありながら、どこか愛おしかった。完璧な貴族としての仮面が剥がれ、ただの不器用な人間としての兄がそこにいた。



 シュバルツもまた、わずかに口元を緩めている。彼にとっても、この光景は予想外だったのだろう。


「失礼した、スバル殿」


 セクは息を整えながら、シュバルツに頭を下げた。襟元を直し、努めて真面目な顔を作るが、肩についた葉っぱがその威厳を台無しにしている。


「当主としてではなく、兄として来た。少し、弟と話がしたくてな」


「構わん」


 シュバルツは静かに頷いた。その目には、セクに対する敬意のような色が浮かんでいる。


「......俺は、少し離れる」


「あ、スバル......」


「すぐそこにいる。呼べばいつでも戻る」



 そう言って、シュバルツは音もなく隣の枝へと移動し、幹の陰に姿を消した。



 気配を絶つのがうまい彼のことだ、物理的な距離は近くても、会話の邪魔にならないよう配慮してくれたのだろう。けれど、キオにはシュバルツの気配がすぐ近くにあることが分かる。完全に見捨てて離れたわけではない。見守っていてくれているのだ。



 木の上には、キオとセク、兄弟二人きりの空間が残された。


 朝の光が強まり、セクの顔をはっきりと照らし出す。


「......キオ」


 セクが、ようやく落ち着いた声で話しかけてきた。


「エドワードから聞いた。お前がいつもの場所に向かったらしいと」


 エドワードというのはネビウス家に長年使えている執事長である。誰よりもキオたち兄弟のことを知っている人物だ。



「......ごめん、心配かけて」


「謝らなくていい」


 セクは小さく首を振った。


「こんな早朝に出てきたということは......やはり、昨日のことが気になっているんだな」


「......うん」


 隠しても無駄だ。セクにはお見通しなのだ。



「ガロンのことは、僕も気にかけていた。あいつが来ることは、ノックスから聞いていたからな」


 セクは苦笑した。その表情には、当主としての苦悩が滲んでいる。


「もう少し、うまく立ち回れればよかったんだが......すまない」


「ううん、ガロンは悪いやつじゃないから......」


「ああ、分かっている。あいつは本気でお前のことを案じている。その気持ちに嘘はない」



 セクの金色の瞳が、静かにキオを見つめる。

 それは、相手を値踏みするような貴族の目ではなく、弟を案じる兄の目だった。


「だが——お前が辛い思いをしたのは、変わらないだろう」


 隠し事はできない。キオは小さく頷いた。


 セクの優しさが染みる。けれど、だからこそ、自分の考えをちゃんと言葉にしなければならない気がした。



「でも......ガロンの言うことも、全部間違いじゃないと思うんだ」


「ほう」


 セクが興味深そうに眉を上げる。


「この世界の貴族としては、僕はきっと『甘い』んだと思う。友達に頼って、守られて。それって、ガロンから見たら情けないことなのかもしれない」


 キオは膝を抱えた。小さくなるように身体を丸める。


「でも、僕はそれでも——」


「キオ」


 セクの声が、穏やかに遮った。


「どうした。難しい顔をして」


 その言葉に、キオは顔を上げた。

 セクの表情には、批判も説教の気配もなかった。ただ、弟の言葉を待っているような、静かな、そして海のように深い眼差しがある。



「話してみろ。何を考えているのか」


 促され、キオは深く息を吸い込んだ。冷たく澄んだ空気が肺を満たし、勇気をくれる。


「......僕は、友達と一緒にいたい。支え合いたい。辛いときは頼りたいし、誰かが辛いときは支えてあげたい」


 言葉が、ゆっくりと紡がれていく。


 それは、ガロンに対する反論ではない。自分自身の宣言だ。


「それがガロンの言う『甘え』なのかもしれない。貴族としては、情けないことなのかもしれない。でも——」


 キオは胸に手を当てた。シャツ越しに伝わる体温。



「これが、僕なんだ。この気持ちだけは、どうしても譲れない」


 言い切った。


 長い沈黙が流れた。


 その間、風が止み、世界が静止したかのような錯覚に陥る。


 東の空が、いよいよ明るくなってきている。朝日が昇る直前の、世界が金色に染まる瞬間が近い。空の青みが消え、温かなオレンジ色が雲底を焼き始めていた。



最後までお読みいただきありがとうございます。

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