第34話「告白と兄のぬくもり(2)」
風の音ではない。明らかに、何かが木を登ってくる音だ。枝が折れる音や、葉が擦れる音が、下の方から近づいてくる。
「ん?」
キオとシュバルツは顔を見合わせ、揃って下を覗き込んだ。
野生動物だろうか。警戒心を抱いて覗き込んだ視線の先には——
「うおっ、と......! くっ、この枝は......!」
信じられない光景があった。
黒髪を後ろで束ねた青年が、必死の形相で幹にしがみついていたのだ。
仕立ての良い上質なフロックコートを着込んだまま木登りを試みており、長い裾が枝にひっかかったり、磨き上げられた革靴が苔で滑りそうになったりと、その動きは極めて危なっかしい。
「セク兄さん!?」
キオは思わず声を上げた。目を疑った。
領主であり、常に優しく冷静沈着な兄が、なぜこんな場所で、子供のような真似をしているのか。
「ん......っ! おお、キオ......!」
声に気づいたセクは、額に汗を滲ませながら、なんとかキオたちのいる高さまで到達した。
最後の一歩を踏ん張り、隣の太い枝に身体を預けるようにして登り切る。そこでどっかりと腰を下ろし、大きく息をついた。
整っていたはずの髪は乱れ、高級な服には樹皮の粉がついている。
「危なかった......。昔はもっと楽に登れた気がするんだが......」
「いや、その格好で登る方がどうかしてるよ......」
キオは呆れながらも、思わず笑みがこぼれた。
フロックコートに革靴という、およそ木登りに適さない格好で懸命に登ってきた兄の姿は、滑稽でありながら、どこか愛おしかった。完璧な貴族としての仮面が剥がれ、ただの不器用な人間としての兄がそこにいた。
シュバルツもまた、わずかに口元を緩めている。彼にとっても、この光景は予想外だったのだろう。
「失礼した、スバル殿」
セクは息を整えながら、シュバルツに頭を下げた。襟元を直し、努めて真面目な顔を作るが、肩についた葉っぱがその威厳を台無しにしている。
「当主としてではなく、兄として来た。少し、弟と話がしたくてな」
「構わん」
シュバルツは静かに頷いた。その目には、セクに対する敬意のような色が浮かんでいる。
「......俺は、少し離れる」
「あ、スバル......」
「すぐそこにいる。呼べばいつでも戻る」
そう言って、シュバルツは音もなく隣の枝へと移動し、幹の陰に姿を消した。
気配を絶つのがうまい彼のことだ、物理的な距離は近くても、会話の邪魔にならないよう配慮してくれたのだろう。けれど、キオにはシュバルツの気配がすぐ近くにあることが分かる。完全に見捨てて離れたわけではない。見守っていてくれているのだ。
木の上には、キオとセク、兄弟二人きりの空間が残された。
朝の光が強まり、セクの顔をはっきりと照らし出す。
「......キオ」
セクが、ようやく落ち着いた声で話しかけてきた。
「エドワードから聞いた。お前がいつもの場所に向かったらしいと」
エドワードというのはネビウス家に長年使えている執事長である。誰よりもキオたち兄弟のことを知っている人物だ。
「......ごめん、心配かけて」
「謝らなくていい」
セクは小さく首を振った。
「こんな早朝に出てきたということは......やはり、昨日のことが気になっているんだな」
「......うん」
隠しても無駄だ。セクにはお見通しなのだ。
「ガロンのことは、僕も気にかけていた。あいつが来ることは、ノックスから聞いていたからな」
セクは苦笑した。その表情には、当主としての苦悩が滲んでいる。
「もう少し、うまく立ち回れればよかったんだが......すまない」
「ううん、ガロンは悪いやつじゃないから......」
「ああ、分かっている。あいつは本気でお前のことを案じている。その気持ちに嘘はない」
セクの金色の瞳が、静かにキオを見つめる。
それは、相手を値踏みするような貴族の目ではなく、弟を案じる兄の目だった。
「だが——お前が辛い思いをしたのは、変わらないだろう」
隠し事はできない。キオは小さく頷いた。
セクの優しさが染みる。けれど、だからこそ、自分の考えをちゃんと言葉にしなければならない気がした。
「でも......ガロンの言うことも、全部間違いじゃないと思うんだ」
「ほう」
セクが興味深そうに眉を上げる。
「この世界の貴族としては、僕はきっと『甘い』んだと思う。友達に頼って、守られて。それって、ガロンから見たら情けないことなのかもしれない」
キオは膝を抱えた。小さくなるように身体を丸める。
「でも、僕はそれでも——」
「キオ」
セクの声が、穏やかに遮った。
「どうした。難しい顔をして」
その言葉に、キオは顔を上げた。
セクの表情には、批判も説教の気配もなかった。ただ、弟の言葉を待っているような、静かな、そして海のように深い眼差しがある。
「話してみろ。何を考えているのか」
促され、キオは深く息を吸い込んだ。冷たく澄んだ空気が肺を満たし、勇気をくれる。
「......僕は、友達と一緒にいたい。支え合いたい。辛いときは頼りたいし、誰かが辛いときは支えてあげたい」
言葉が、ゆっくりと紡がれていく。
それは、ガロンに対する反論ではない。自分自身の宣言だ。
「それがガロンの言う『甘え』なのかもしれない。貴族としては、情けないことなのかもしれない。でも——」
キオは胸に手を当てた。シャツ越しに伝わる体温。
「これが、僕なんだ。この気持ちだけは、どうしても譲れない」
言い切った。
長い沈黙が流れた。
その間、風が止み、世界が静止したかのような錯覚に陥る。
東の空が、いよいよ明るくなってきている。朝日が昇る直前の、世界が金色に染まる瞬間が近い。空の青みが消え、温かなオレンジ色が雲底を焼き始めていた。
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