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夜空色の青春  作者: 上永しめじ
第3章 「紅・銀の波乱と創生の祭典」
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第34話「告白と兄のぬくもり」



 世界がまだ、夜の静寂しじまに支配されている刻限だった。


 まだ夜が明けきらぬ冬の早朝。屋敷を取り囲む広大な庭園は、深い霧と霜に閉ざされている。


 生き物の気配が絶えた、凍てつく風が吹き抜ける屋敷の庭を、二つの影が足音を殺して歩いていた。砂利を踏む音さえも、張り詰めた冷気の中に吸い込まれていくようだ。



 頭上を仰げば、空は濃紺から藍へと移ろいはじめているが、星はまだ幾つか残っている。それらは寒空に凍りついた氷の粒のように、鋭く、頼りない光を地上へ投げかけていた。


 吐く息が白く煙り、たちまち風にさらわれて消えていく。手袋越しの指先がかじかみ、頬を刺す寒さが静寂をいっそう深めていた。



「シュバルツ、こっちだよ」


 キオは囁くような声で、傍らを歩く竜人に声をかけた。声量が控えめなのは、眠っている屋敷の人々を起こさないためだけではない。この張り詰めたガラス細工のような空気を、大きな声で壊したくないという心理も働いていた。



「ああ」


 シュバルツは静かに頷き、キオの半歩後ろを影のようについてくる。


 その歩調には一切の乱れがなく、足音すらしない。夜闇に溶け込むような黒い長衣の裾が風に揺れ、額から伸びる二本の角が、薄明かりに淡く鈍色に光っていた。彼が纏う空気は明らかに異質で、夜そのものを従えているような威厳がある。



 目指すのは、庭の奥にそびえる一本の巨木だ。



 他の木々が冬枯れして寒々しい姿を晒す中で、その木だけは圧倒的な存在感を放っていた。


 樹齢は百年を優に超えるという、この屋敷のシンボルとも言える樫の木。幹回りは大人三人が手を繋いでも届かないほど太く、天を突くように伸びた枝葉は、夏には緑の天蓋を、冬には厳格な黒いシルエットを形成する。


 幼い頃から、キオが一人になりたい時に逃げ込む秘密の場所だった。叱られた時、寂しい時、あるいはただ空を見上げたい時。この木の無言の温かさは、いつもキオを受け入れてくれた。



「ここ」


 キオは幹の窪みに手をかけ、慣れた動作でするすると登り始めた。


 幼少期に何度も繰り返したルートだ。手袋の革越しに伝わる樹皮のゴツゴツとした感触、足をかける枝の配置、身体を持ち上げるタイミング。すべてが身体に染み付いている。



 太い枝が複雑に絡み合い、地上から数メートルほどの高さに、大人がゆったりと座れるくらいの窪みがある。天然のベンチとも言えるその場所は、周囲を枝葉に囲まれ、下からは見えにくい死角になっていた。


 冷えた樹皮の感触を確かめながら、キオはその場所へと辿り着いた。


 振り返ると、シュバルツはまだ地上にいた。


 彼は一度キオを見上げ、紫色の瞳を細める。それからふわりと、何の前触れもなく背中の翼を展開した。



 バサッ——


 空気が爆ぜるような音と共に、夜空のような黒い膜が広がり、その中で星のような紫の光点がちらちらと瞬く。


 それは単なる身体の一部というよりも、魔力そのものを織り上げた織物のようだった。翼幅は四メートル以上にも及び、その威容は圧倒的だった。周囲の闇すらも、その翼の前では色褪せて見える。


 シュバルツは軽く地を蹴ると、まるで重力を無視するかのように音もなく浮き上がり、キオの隣の枝にふわりと降り立った。


 風圧すら感じさせない、あまりにも優雅な飛翔。生物としての格の違いを見せつけられるような光景だった。



「......やっぱり、すごいね」


 キオは思わず呟いた。何度見ても、シュバルツの翼には見惚れてしまう。それは恐ろしさと美しさが同居した、絶対的な力の結晶だ。


「この程度、造作もない」


 シュバルツは翼を畳みながら、キオの隣に腰を下ろした。

 シュバルツの重みで枝がかすかに軋む。けれど、折れる心配はなかった。この木がどれほど頑丈か、百年という歳月を耐え抜いてきた強さを、キオはよく知っている。



 高い場所特有の、吹き抜ける風が冷たい。


 眼下には霜に覆われた庭園が広がり、植え込みや石像が白く化粧をしている。遠くには冬枯れの森と、うっすらと雪を被った丘陵が連なり、その稜線が空のグラデーションに切り取られていた。


 世界が薄明に包まれ、色彩を失ったモノクロームの世界から、徐々に色が生まれようとしている。どこか幻想的な光景だった。


「......ふう」


 白い息を吐き出しながら、キオは幹に背を預けた。

 硬く冷たい木の感触が、高ぶっていた神経を少しずつ鎮めていく。


 しばらく、二人は無言のまま、明けていく空を眺めていた。言葉は必要なかった。ただ隣に、絶対的な味方がいてくれる。その事実だけで十分だった。



「キオ」


 やがて、シュバルツが静かに口を開いた。低く、深みのある声が、朝の冷気の中に染み渡る。


「ガロンの言葉が、まだ引っかかっているのだろう」


 問いかけではなく、確信を持った断定だった。


 見透かされている。キオは苦笑して、視線を遠くの空へと向けた。シュバルツの前では、どんな強がりも仮面も意味をなさない。



「......うん」


 昨夜、調理場でシチューを作り終えた後も、ガロンの言葉は胸の奥で小さな棘のように刺さったままだった。


 湯気の立つ温かい夕食の席では、穏やかな時間が流れ、ルイたちと笑い合うこともできた。美味しいと言ってくれる家族の笑顔に救われたのも事実だ。


 けれど、ふとした瞬間に——心のどこかでずっと、あの言葉が反芻されている。



『甘えるな、キオ!』


 耳の奥で、ガロンの声が響く。


『貴族たるもの、自分の足で立てなくてどうする。一人で立てない者が、誰を守れるというんだ!』


 その言葉に含まれていた熱量は、単なる叱責ではなかった。


 ガロンの声は、怒りではなく、純粋な焦燥と心配に満ちていた。従兄弟であるキオが、厳しい貴族社会の中で食い物にされないか、足元をすくわれないか。本気で案じているからこそ出た、魂の叫びのような言葉。



 だからこそ、単純に否定することができない。悪意からの言葉なら聞き流せたかもしれないが、善意からの言葉は、深く重く心に食い込む。



「......ガロンの言っていること、間違ってはいないんだよね」


 キオはぽつりと呟いた。視線は、霜で白くなった自分の靴のつま先に落ちている。


「この世界の『貴族』としては、きっと正しい考え方だと思う。ノブレス・オブリージュ——高貴なる者の義務。平民を守り、導き、決して弱みを見せない。それが、この国の騎士や貴族が理想とする姿なんだ」



 この世界に生まれ落ちてから、キオはずっとその価値観を見てきた。強さこそが正義であり、弱さは罪であるかのような風潮。それは、厳しい環境で生きる人々にとっては必要な規律なのだろう。


 シュバルツは何も言わず、静かに耳を傾けている。彼の沈黙は、拒絶ではなく受容だ。キオが言葉を紡ぎ出すのを、じっと待ってくれている。


「僕が『学園生活を楽しみたい』とか、『友達と支え合いたい』とか思っていることが、ガロンから見たら『甘え』に見えるのも......客観的には、分かるんだ」



 キオは自嘲気味に笑った。


 平和ボケしていると言われればそれまでだ。守られることに慣れ、危機感がないと断じられれば、反論の余地はない。


「世間知らずで、頼りない従弟。そう思われても、仕方ないよね」


 沈黙が流れる。


 冬の風が枝を揺らし、枯れ葉がカサカサと音を立てた。どこかで鳥が一声鳴き、朝の訪れを告げる。東の空が、少しずつ白み始めている。藍色だった空の端が、薄紫色に滲み始めていた。




「......でも」


 キオの声が、わずかに強さを帯びた。

 迷いを振り払うように、顔を上げる。冷たい風を正面から受け止める。


「それでも、僕はこの想いを捨てたくない」


 シュバルツが、静かにキオを見つめる。その深淵のような瞳に、キオの姿が映っている。


「ガロンの言い分も分かる。この世界では、それが『正しさ』なのかもしれない。でも——」


 キオは胸に手を当てた。


 そこにある鼓動。そして、もっと奥底にある、魂の記憶。



「この想いの根っこにあるのは、やっぱり『私』だから」


 あえて、その言葉を使った。


 『僕』ではなく、『私』。


 それは、一番最初の人生——現代日本で、ごく普通のOLとして生きていた頃の自分を指す言葉だった。


 剣も魔法もない、平和な世界。理不尽な暴力に怯えることなく、友と笑い、美味しいものを食べ、ささやかな幸せを大切にしていた「私」としての記憶。


 それが今のキオの魂の土台であり、どうしても譲れない核なのだ。その感性を捨ててしまえば、キオはキオでなくなってしまう。



「......そうだな」


 シュバルツの声が、短く応える。


 その響きには、不思議な温かみがあった。優しく、どこか慈しむような。


 キオは、ふとシュバルツを見上げた。


 朝日を背にした竜人の横顔は、彫像のように美しく、そしてどこまでも頼もしかった。



「シュバルツは......僕がどんな選択をしても、そばにいてくれる?」


 ふと漏れた弱音。確認せずにはいられなかった。


「愚問だな」

 即答だった。



 シュバルツは、わずかに口元を緩めた。皮肉めいた笑みではなく、信頼の証としての笑み。


「俺は、お前の考えを尊重する。ガロンの言葉も、この世界の価値観としては正しいのだろう。だが、お前はお前だ」


 その言葉に、キオの胸が熱くなる。


 世界中が敵に回ったとしても、この最強の竜だけは味方でいてくれる。その確信が、冷え切った心を芯から温めていく。



「お前が大切にしたいものを、俺は大切に思う。それだけだ」


「......ありがとう、シュバルツ」


 キオは微笑んだ。張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩んでいくのが分かる。


 涙が出そうになるのをこらえ、キオは再び空を見た。


 二人は、しばらく無言のまま、明けていく空を眺めていた。


 濃紺だった空は藍色に、やがて淡い灰色へと変わり、東の地平線が薄紅色に染まり始める。雲の縁が金色に輝き出し、太陽の予感が世界を満たしていく。



 その時だった。


 ガサゴソ、ガサ、ガサゴソ。


 静謐な空気を切り裂くように、無粋な音が響いた。




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