第33話「紅蓮の来訪」
冬の柔らかな陽光が、ネビウス邸の広い調理場に差し込んでいる。
暖炉のそばの大鍋からは、コトコトという音と共に野菜と香草の優しい匂いが立ち上っていた。
その傍らで、ルイが真剣な眼差しでジャガイモと格闘している。
「ルイ、その調子だ。手つきが安定してきたな」
エプロン姿のシュバルツが、ルイの隣で肉を切り分けながら声をかけた。竜人の大きな手が、意外なほど繊細な動きで包丁を操っている。
「ありがとう、スバルさん。王都での買い出しの時に教えてもらったこと、ちゃんと覚えてるよ」
ルイが少し誇らしげに頬を緩める。以前、王都で食材を選んだ際、シュバルツから料理の手ほどきを受けたことを思い出しているようだ。
「流石だ。ルイ」
シュバルツの太い尾が、満足げにゆらりと揺れた。
野菜を洗っていたキオは、その様子を微笑ましく見守った。シュバルツの尾先が、時折キオの腰を支えるように触れてくるのがくすぐったい。
少し離れた場所では、リーリエが目を細めてその光景を眺めている。
「皆さん、お上手ですわね。私は料理の心得がありませんので、見ているだけで申し訳ないのですけれど」
「いえ、リーリエさんがいてくださるだけで心強いですよ」
ルイが笑顔で返すと、調理場の隅から小さな影が二つ、ひょこりと顔を出した。双子のルーアとネロだ。
「ねえ、ルイお姉さま、それ何作ってるの?」
ルーアが目を輝かせて調理台を覗き込む。
「今日はシチューを作るの。私の実家のお店でも人気メニューなんだよ」
「シチュー! 大好き!」
「僕も......好きだ」
ネロがぼそりと呟く。その声の弾み具合に、隠しきれない期待が滲んでいた。
「ルーアちゃんもネロ君も、良かったら最後に味見してくれる?」
「うん! 絶対する!」
「......まあ、頼まれたなら仕方ない」
そっぽを向くネロの態度に、キオは思わず吹き出しそうになった。
「ネロ、素直じゃないなぁ」
「う、うるさい、キオ兄さま!」
耳まで真っ赤にしたネロがキオを睨むが、その瞳に敵意はなく、照れ隠しなのは誰の目にも明らかだった。
その時、おずおずと控えめに手が挙がった。
「あの......私も、何かお手伝いできないかしら?」
ベアトリスだ。彼女の前には、まだ泥のついたニンジンが数本、所在なさげに転がっている。ゲルプ一族の令嬢である彼女にとって、調理場に立つこと自体が未知の冒険だった。
「ベアトリスさん、じゃあこのニンジンの皮剥きをお願いできる?」
キオが作業の手を止め、小さな果物ナイフを差し出す。
「え、これで......? どうすれば......」
「大丈夫、僕が教えるよ」
キオはベアトリスの隣に並び、手本としてニンジンを一本手に取った。
「こうやって、ナイフを軽く当てて、薄く、薄く......ほら」
するすると、赤い皮が帯のように剥けていく。
ベアトリスはぱちくりと目を丸くした。
「キオ様......お料理ができますの......?」
その声は、驚きに震えている。シュバルツ一族の御曹司が、慣れた手つきで包丁を握っている姿は、彼女にとって衝撃的な光景だったらしい。
「うん。小さい頃から、お屋敷の料理長に少し教えてもらってたんだ。それに、シュバルツの方がずっと上手だよ」
『まぁ、本当は、前前世でも前世でも料理する機会が多かったからなんだけど』
キオは心の中で苦笑した。
「まあ......」
ベアトリスは呆然とキオを見つめ、それから視線をシュバルツへ移した。
最上位貴族の御曹司とその精霊が、並んで台所に立っている。それは彼女の常識を覆す光景だった。
「ベアトリスさん?」
「あ、いえ......失礼いたしました。ただ、とても意外で......」
「あはは、よく驚かれるよ。でも、自分で作れると楽しいんだ。さあ、やってみて。最初はゆっくりでいいからね」
「は、はい......」
ベアトリスが恐る恐るナイフを握り、ニンジンに刃を当てる。ガリッ、と不穏な音がした。
「あっ......!」
「大丈夫、大丈夫。力を入れすぎないで、刃を滑らせる感じで」
キオが優しく声をかけながら、根気強く見守る。
「こう......ですか......?」
「うん、そうそう。上手上手」
少しずつ、ベアトリスの手つきが形になっていく。
「まさか、私が調理場でニンジンの皮を剥く日が来るとは......」
ベアトリスが苦笑交じりに呟いた。
「でも、不思議と......嫌ではありませんわ」
「良かった。みんなで作ると、もっと美味しくなるからね」
キオの言葉に、ベアトリスはふわりと花が咲くように微笑んだ。
『楽しそうだな、キオ』
『うん。みんなで料理を作るって、楽しいね』
心の中で交わす会話。シュバルツの声には、日向のような穏やかな温もりがあった。
調理場には、野菜を刻む軽快なリズムと、鍋が煮える音、そして笑い声が心地よい和音を奏でている。
「よし、玉ねぎは俺が切ろう」
シュバルツが新しいまな板を引き寄せた。
「スバルさん、玉ねぎは目に染みるよ?」
ルイが心配そうに言うと、シュバルツはふんと鼻を鳴らした。
「俺に涙など無縁——」
ザクッ。
包丁が玉ねぎを両断した瞬間、シュバルツの紫の瞳がじわりと潤んだ。
「............」
「スバルさん!?」
「......何でもない。これは涙ではない。汗だ」
苦し紛れの言い訳だった。
キオが肩を震わせて笑いを堪えていると、シュバルツの尾がぺしっとキオの背中を叩く。
「笑うな」
「ふふっ、ごめんごめん」
その微笑ましいやり取りを、双子が愉快そうに見上げていた。
「スバルさまも、玉ねぎには勝てないのね」
「......この世に敵なしと思っていたが、盲点だった」
涙目で真面目に語るシュバルツに、調理場はどっと笑い声に包まれた。
それから小半時ほど経った頃。
窓の外から、馬車の車輪が砂利を踏む音が聞こえてきた。
「あら? 誰かいらしたのかしら」
リーリエが外へ視線を向ける。ほどなくして、使用人の一人が調理場に駆け込んできた。
「奥様、ノックス様がお戻りになられました! 玄関ホールにいらっしゃいます!」
「ノックス兄さんが!?」
キオの顔がぱっと明るくなる。
ルイがすぐに近くにいた料理長に声をかけた。
「料理長さん、すみません。少し火を見ていてもらえますか? 出迎えてきますので」
「ええ、お任せください。焦げ付かないように混ぜておきますよ」
恰幅のいい料理長が、頼もしく請け負ってくれた。
「ありがとうございます! 行きましょう、リーリエさん」
「ええ。セク様も向かわれているはずですわ。参りましょう」
一同は手を洗い、エプロンを外して慌ただしくも弾む足取りで調理場を後にした。




