第4話 美味しそうな料理描写とプレゼント
雨上がりのガラスに街灯がまだらに貼りついて、店内のジャズは控えめだ。
壁の時計は真面目に歩いているが、ドアの鈴は今日も沈黙を守っている。
いつも通り、来客はゼロ。
カウンターの上には磨かれたカップが逆さに並び、銀縁の眼鏡がひとすじだけ光を拾った。
金曜日の十九時ちょうど。
心春はエプロンの紐を結び直し、カウンターに顎をのせてスマホをいじる。
「ねぇマスター、金曜の夜でこの空き具合、もはや伝説じゃない?」
「空席にもグラデーションがございますからね。今日は『最上級』です」
「グラデーションって言い方カッコつけ〜。ハッシュタグ付けづらいのよ、マスターのはさ」
「『付けづらさ』もまた風味ですよ」
「もー。そんなの味わえるの、この店だけだよ」
心春は笑って布巾をたたみ、エプロンの結び目をきゅっと整えた。
「では、味わいやすい方をひとつ。賄いをお作りしましょう。今日はリクエストにお応えしますよ?」
「マジ!? やった! じゃあね……チュルブルが食べたい! いつもの映えるヤツ」
「承りました、お嬢様」
小鍋にバターが落ち、低い火でゆっくり溶ける。
赤い薄片、唐辛子をひとさじ。
じわっと立ち上る香りは辛さより先に甘さを連れてきて、鼻の奥がくすぐったくなる。
隣の深鍋では湯が渦を巻き、酢をほんの数滴。
割り落とした卵白が渦の中心に吸い込まれ、白い布みたいに黄身を包む。
「はい映えポイントその一、渦の中心に愛を落とす」
「料理を詩にしないでください。卵が照れますから」
スライスされたパンがオーブンで軽く焦げ目をつけられ、香ばしい匂いがふっと立ち上がる。
ボウルではニンニクをつぶしてヨーグルトにすべらせ、塩を一つまみ。
音は静かで、手つきは速い。
トーストにヨーグルトの白を塗り、中央にポーチドエッグを乗せる。
赤唐辛子バターを皿の縁にゆるい円で流し、スプーンの背で円を描く。
仕上げにディルの緑。
そして砕いたピスタチオを小雨みたいに散らす。
白、赤、緑。
光に強い三色が、琥珀の照明で艶を持つ。
「お待たせしました」
「来た、優勝ビジュ。ちょっと待って? 角度……はいここ。湯気、こっちに来て……よし」
シャッター音が二度、三度。
「ストーリー上げるね。『#まかない #チュルブル #すのうどろっぷ』……あ、カフェオレも欲しいな」
「存じておりますよ、お嬢様」
ミルクピッチャーの白がふくらみ、泡が静かに口を開く。
コーヒーの線と混じる音は細く、心春の好みを知り尽くした手がその比率を決める。
砂糖を焦がす直前のキャラメル色がカップを満たし、香りが皿の赤と重なっていく。
「では、どうぞ」
「うまそ! いただきまーす!」
ナイフの先で黄身の帽子を軽く叩く。
ゆっくり広がる金色がヨーグルトの白と混ざり、バターの赤を少し巻き込む。
トーストの角を切り、端からすくって口に運ぶ。
最初に『冷たい白』が舌に触れ、すぐに『温かい黄』が追いつく。
その二層に、赤いバターが薄く差し込んでくる。
辛さは鋭くなく、香りとしてだけ残る。
ピスタチオの粒が最後尾で香りを打ち、ディルが鼻でうなずく。
「ん〜、やっぱこれ! うまさがバグってるし」
「不具合の報告は歓迎いたしますが、修正予定はございません」
「しなくていいよ、完璧だから。カフェオレ挟むとさ、また白いとこに戻りたくなるんだよね。で、赤が恋しくなる。そういう悪いループ」
「悪い、と言いつつ続けるのもまた善です」
「言い方ずる」
心春は二口目を切り出し、三口目の導線を目で測る。
黄身の流れが止まる前にヨーグルトをすくい、トーストの芯に乗せる。
食べるときの計算は抜かりない。
でも、顔はただ幸せそうだ。
「……マスター」
「はい」
「その、さ。ありがと」
「どういたしまして」
「いや、なんかさ。あれこれ言葉にするとさ、軽くなりそうで。だから、これ食べてる時は、黙ってるね」
「沈黙は、良い言葉です」
食器の触れ合う音が一度鳴って、すぐ消える。
雨上がりの匂いがもう外からは届かず、店の中にはカフェオレの甘さだけが残る。
皿がきれいになったところで、心春はトートをがさごそやった。
クラフト紙の小包み。
上に小さなタグ。
手書きで「K→Y」。
「はい、マスター。これ、お礼ってほどじゃないけど、受け取ってください」
「おや。緊張いたしますね」
「緊張しなくていいよ。雰囲気で選んだから」
「雰囲気で、ですか」
「うん。店に似合いそうって思って」
矢上は丁寧に紙を剥がす。
古い紙の匂いが少し立つ。
焼けた背。
タイトルは深い茶色で、控えめに光った。
『珈琲と沈黙――香りで読む世界の記憶』。
矢上の指が一拍止まる。
銀縁の奥で、視線がほんのわずか遠くへ行って、すぐに戻る。
「……古本、ですか。良い題名ですね」
「見た目で持ってきたから中身は全然知らないんだけどさ。なんとなく『すのうどろっぷ』っぽいよなーと思って」
「ええ。とても」
「なんか、合うでしょ。マスターの空気に」
「空気、ですか」
「うん。静かで、ちょっとだけ寂しくて、でも優しい匂いがする感じ」
「それはそれは、最上級の褒め言葉ですね」
矢上は最初のページをめくる。
紙が鳴る。
指先に残る乾いた感触が、記憶のどこかを叩いた。
「……昔、これと似た話を聞いたことがあります」
「え? マジ?」
「ある騒がしい街に、小さな喫茶店がありました。夜だけ営業して、話す人がいない夜は、湯の音だけを聞かせる店です」
「やば。もうエモい」
「人はそこで、黙って湯気を見ます。言葉を持たない夜に、香りだけが残る」
「……なんかさ。マスターって、たまにずるいよね」
「それは大人の特権ですから」
「は? ずるい大人禁止ー」
「承知しました。以後、節度あるずるさで」
心春は小さく笑って、姿勢を正す。
いつもの跳ねた口調が、少しだけ丸くなる。
「ほんとに、ありがと。助けてもらった時、怖いのとか全部ごちゃごちゃになっててさ。うまく言えないんだけど……あたし、ちゃんとここ戻って来れて、よかった」
「ええ、お帰りなさい」
「うん、ただいま」
短い沈黙。
鳴らない鈴の代わりに、湯気が一度だけ揺れた。
「この本さ、店に置いていい?」
「もちろんです。ですが、まずは私にいちど、読ませてください」
「うん。じゃあ、読み終わったら感想会しよ。あたしは雰囲気で語るから」
「では私は、香りで語るとしましょう」
「なにそのオシャ。スクショしたい」
矢上は古本を胸の前に抱え、軽く頭を下げた。
「心春さん、良い贈り物をありがとうございます」
「どういたしまして、でいいのかな。……うわ、今の丁寧な自分ちょっと恥ず」
「慣れは不要ですよ。ここは喫茶店ですから」
「何その理屈。好き」
時計の針が二十時を指した。
心春はエプロンを外し、髪留めを直す。
「じゃ、今日は帰るね。明日また出るよ。あとチュルブル、反響えぐいから」
「宣伝は控えめにお願いしますよ」
「はーい。『控えめにバズる』よう努力するし」
「それは上級者向けですね」
カウンターの上、空になった皿と、まだ温かいカフェオレ。
矢上は食器を片づけ、心春に手を振る。
「お足元、お気をつけて」
「了解……マスター」
心春が振り向いた。
矢上は少しだけ首を傾げる。
「はい」
「その本、好きになってくれるといいな、って思ってます……では」
「ええ。きっと、好きになります」
ドアが開いて、鈴がひとつ。
外はすっかり乾いて、アスファルトの匂いは夜に溶けていた。
心春の背が街灯の下で一度だけ振り返り、すぐに角へ消える。
店内に静けさが戻る。
矢上は照明をひとつ落とし、カウンター席に腰を下ろした。
古本をもう一度開く。
最初の章の冒頭に、指先が触れる。
文字が立ち上がり、過去の記憶の中の、遠い街の湯気が目の前に広がる。
「……香りのある沈黙、ですか」
独り言は小さい。
だが、湯を沸かす音とよく馴染む。
銀縁が光を拾い、ページがやわらかく鳴る。
カウンターの奥では、深煎りの豆が明日のぶんだけ計量され、袋の口がそっと閉じられた。
鈴は鳴らない。
けれど、店は満ち足りている。
静けさと、香りと、少しだけ甘い余韻で。
fin.




