第2話 テレビ取材と誘拐と追跡
ローカル局『KTV神居』のスタジオは、昼のうちから熱気で落ち着きがなかった。
モニターには番組名『グルメパトロール★神居』が延々とループしている。
心春はカメラを向けられても、まったく動じなかった。
リハーサルの合間に皿の角度を三度変え、照明の反射を確かめる。
「ここ、ライトもうちょい当ててもらえるとソースが映えるんで」
ディレクターが親指を立て、照明係が即座に反応する。
ライトの角度が変わると、皿の縁に艶が走った。
心春はその変化を確認し、何も言わずに次の盛り付けに移る。
動きに迷いがない。
映える構図と『カメラに強い料理』の条件を、体で理解している手つきだった。
同じテーブルの端には、同級生の春日井桜子がいた。
顔立ちは平凡だが背丈が心春と近く、ブラウンに染めた髪を今日はサイドでまとめている。
彼女が春日井官房長官の娘であることは、サークル内では周知の事実だが、桜子自身が取り立ててそれを話題にすることはない。
無用な摩擦を避けたいのだろう。
「心春の盛り付けなら間違いないよ。お皿、交換しようか」
「助かる、桜子。そっちの方が高さ出る」
桜子は控え目だが、作業は正確だ。
盛り付け作業を進めるふたりの背面からのカットを、ディレクターが指示する。
モニターに映る二人の背は、髪留めの位置まで、驚くほどよく似ていた。
スタジオの出入口には防犯カメラが据えられ、赤いランプが規則的に瞬いていた。
搬入や搬出の様子を記録するためだが、その目は今日も絶えず誰かを見ている。
局の公式インスタアカウントは、撮影の裏側をストーリーズに投稿していた。
位置情報はONのまま「#KTV」「#神居」「#グルメパトロール」のタグが並ぶ。
その情報が誰に届くかを、気にする者はいない。
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収録は長引いた。
実演カットの撮り直し、コメントのリテイクとBロールの追加。
みな疲れた表情を隠せない。
やがて午後八時を少し過ぎたころ、ディレクターの手拍子が響いた。
「皆さん、お疲れさまでした!」
短い拍手がスタジオを包み、スタッフが手早く片付けに入る。
メンバーたちは自分の道具をバッグにしまい、記念に集合写真を撮ってから、それぞれの帰路へと散った。
桜子は、ロビーの外で待つ迎えの車へと向かった。
透明な傘越しにライトが反射し、彼女の背中がゆっくりと滑っていく。
その後ろ姿は、照明の角度まで含めて、ほんの少し前の心春とほとんど変わらなかった。
心春はトートバッグにエプロンを丸めて押し込み、肩にかけた。
同じ班の友人が笑い、手を振る。
「また明日ね。帰り気をつけて」
「余裕。おつかれー」
人波を抜けた瞬間、心春は歩く速度を落とした。
裏手の通りは静かで、街灯の光がところどころ途切れている。
濡れたアスファルトが細く光り、白いワゴンが路肩に停まっているのが見えた。
運転席の人影は動かない。
助手席は真っ暗だ。
スマホをポケットに戻し、トートバッグの持ち手を握り直す。
指先に、汗がにじむ。
そのとき背後で、コツ、ともう一つの足音。
振り向くより先に、正面に男が立っていた。
「すみません、ちょっと」
声は落ち着いている。
だが道を譲る気配がない。
心春が眉を寄せた瞬間、背後の足音が再び寄った。
「え、なに──」
「静かに」
その言葉と同時に、布が顔を塞いだ。
冷たく乾いた繊維が鼻を塞ぐ。
空気が急に薄くなる。
息が、つぶれるように遠のいた。
「や、め──」
叫ぶ前に腕を掴まれる。
もう片方の手が肩を押さえ、体が傾く。
蹴ろうとした足も、後ろから押さえつけられた。
背後でスライドドアが静かに開く。
暗い車内に、抑えた低い声が響く。
「身長一致」
「髪型一致。行け」
心春の視界が回転した。
世界が斜めに傾き、腕を引かれる。
体が車内へ引きずり込まれた。
ドアがスッと閉じる。
エンジン音が低く唸り、白いワゴンはヘッドライトを点けずに発進した。
ナンバープレートの末尾は、一文字だけ泥に隠れて見えなかった。
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『すのうどろっぷ』のカウンターには、洗い終えたコーヒーカップが逆さに並んでいた。
換気扇の音がゆっくりと弱まり、コーヒーの香りだけが空気の中に残る。
閉店の支度を終える静けさ。
壁の時計が午後八時二十二分を指す。
その瞬間、店の固定電話が鳴った。
矢上は一拍置き、受話器を取った。
「はい、喫茶『すのうどろっぷ』でございます」
「心春って子、お前んとこのバイトだな」
聞き覚えのある、低く乾いた響き。
矢上はそれだけで、通報者の顔を思い浮かべた
雑踏の風切り音が通話に混じる。
「ええ。彼女に何かありましたか」
「攫われた。白いワゴン、後部にガムテ、ナンバー末尾不明。北区へ」
「……承知しました、ありがとうございます。このお礼は必ず」
「礼はコーヒーでいい。深煎りで」
「かしこまりました」
通話はそれだけで終わった。
受話器を戻すと、カウンターの上には再び静寂が降りる。
矢上は短く息を整えた。
その表情は変わらない。
だが、呼吸の深さが半拍だけ長くなる。
カウンター下の棚を開け、黒いナイロンバッグを引き出す。
生地の内側で、金属と革が低く鳴った。
革手袋、ライト、救急セット、折りたたみ工具。
どれも無駄がなく、使い慣れた形をしている。
バックルを留める音が小さく響き、手袋が掌の中でしずかに沈む。
装備の順序を頭で考える必要はなかった。
体がすでに覚えている。
戦場から戻った男の動作は、今も正確にそのリズムを刻んでいた。
ドアの鈴が鳴る寸前、矢上は先に外へ出た。
雨は細く、街灯の光を糸のように歪めている。
通りには人影がまばら。
その中から、スーツ姿のサラリーマンが店の中を覗き込んだ。
「もう閉めちゃいました?」
「申し訳ございません。本日は早仕舞いでして」
「コーヒー一杯だけでも、ダメですか?」
「きちんとお淹れする時間が取れませんので。中途半端な味を出すのは、私の流儀に反します」
サラリーマンは困ったように笑い、ネクタイを軽く緩めた。
「じゃあ、また来ます」
「ありがとうございます。静かな夜を」
矢上は深く頭を下げ、客が立ち去るのを見届けてからドアを閉めた。
『CLOSED』のプレートを裏返し、鍵を静かに回す。
換気扇のスイッチを落とすと、コーヒーの香りが空気に残った。
照明を一段落とすと、銀縁の眼鏡が最後の光をひとすじ拾う。
店は再び、音を持たない世界に戻った。
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矢上は車のエンジンを静かにかけ、北区へと向かった。
ワイパーが一定のリズムでフロントガラスを掃く。
雨に濡れた路面は均一ではなく、傷んだアスファルトの溝にだけ光が強く反射していた。
街灯が途切れるたび、車体の影が歪む。
信号の上には黒い半球、防犯カメラだ。
レンズの向きを見れば、どの道が映り、どこが死角になるかがすぐにわかる。
右に曲がれば、しばらくカメラの目が届かない区間が続く。
橋の手前で左に折れれば、裏道へ抜けられる。
逃げる側がどう動くかは、性格で決まる。
慎重な者は裏を使い、勢いだけの者は大通りを突っ切る。
矢上はそのどちらのルートも頭の中でなぞりながら、ライトに照らされる街を静かに見つめていた。
信号で停まると、矢上の指先がハンドルの縁を軽く叩いた。
数を数えているわけではない。
呼吸を整えるように、待ち時間をリズムで埋めているだけだ。
北区に入ると、建物の輪郭が低くなった。
遠くの海がまだ見えないのに、空気の湿度が変わる。
街の中心より重く、冷たい匂いが混じっていた。
廃ビルが視界に入る。
四角い箱のような建物。壁には、すでに倒産した会社のロゴがかすかに残っている。
駐車区画には、ライトを落とした車が三台。
道路脇で、赤い点が一瞬だけ灯った。
タバコの火だ。
その近くに二人。
立ち位置と体の向きが違う。
一人は建物の正面を監視し、もう一人は道路側を拾っている。
無線のノイズが、雨の中にかすかに混じった。
靴底の重心の置き方、間の取り方。
訓練を受けた兵の動きだとわかる。
矢上は車を離れた場所に止め、そこから徒歩で距離を詰めた。
雨に濡れた路面が、足音を隠す。
動くにはちょうどいい環境だ。
建物の出入口は三つ。
表の自動ドアは止まり、ガラス越しに真っ暗なロビーが見える。
非常階段の扉は錆びており、踏めば音が響く。
搬入口のシャッターは半分だけ下りていて、下の隙間から淡い光が漏れていた。
この時間に明かりがある理由など、ひとつしかない。
矢上は立ち止まり、ビル全体を視線でなぞる。
建物の構造、進入経路、障害物、そして逃走路。
脳内でルートが組み上がっていく。
やるべきことは決まっていた。
――まず心春を確保。
――次に脱出経路を確保。
――最後に、必要なら掃討。
呼吸をひとつ、静かに整える。
声にはしない。
だが、心の底でだけ確かに言葉が形になる。
「……ここですね」




