第1話 めちゃくちゃ美味しそうな料理描写
神居市の地図を北へずらすと、すぐ海が現れる。
潮そのものはここまで届かないが、夜風の端に、波の記憶だけが薄く混じる。
名物のスープカレーで全国にその名を知られる、人口二百万人の政令指定都市。
けれど北区の外れにあるこの細い通りは、夜のはじまりから歩幅が狭くなる。
『すのうどろっぷ』はそこで、琥珀色の明かりを静かにこぼす喫茶店だ。
客が訪れない扉の鈴は、しばらく出番がない。
古道具と木の匂いが満ちた店内に、テーブルが三卓十二席、カウンターが八席。
店内にはジャズが流れ、壁の時計は真面目に時を刻む。
アルバイトの心春は、布巾でカウンターを磨いていた。
サイドで留めたピンクブラウンの毛先が、手元に合わせてふわりと跳ねる。
ミディアムボブは調子がいいときほど弾むのに、今はため息の重みが勝っている。
「……ねーマスター、今日も来客ゼロじゃん。てか今月、客入った日なくない? この店、マジ潰れるって。ねぇ?」
銀縁眼鏡の細いフレームが、柔らかく煌めく。
マスターと呼ばれた男・矢上は、静かに微笑みながらそっとブリッジを押し上げ、いつもの調子で応じた。
「おや、心配してくださるんですね、心春さん。ですがご安心ください、ここは静けさを楽しむための店です」
「いや理由になってないし。だいたい『静けさを楽しむ』なんてコンセプトだけでやってけるほど世の中甘くないっしょ? もったいない……この内装なんてめっちゃ雰囲気あるのに」
雰囲気はある。
だが、雰囲気はレジに現金で並んだりはしない。
心春はスマホを抜き、ランプシェードを斜めからカメラで写した。
「ほら見てマスター! フィルターかけたら超イイ感じだよ!」
「それはそれは……ですが心春さん、内装は客寄せのためではありません。私はお客様にこの場の『静謐』を味わってほしいのです」
矢上は微笑み、豆の袋を開ける。
コーヒーミルが低く歌い、店内の時間が挽かれていく。
やがて時計の針が、ちょうど十九時半を指した。
矢上はミルを止め、軽く頷く。
「そろそろ、まかないにしましょうか」
心春の表情が一気に明るくなる。
「やった! 今日なに作るの?」
食べ物の話は瞬時に心春を浮上させる。
彼女は『よく食べる』という美徳を全力で誇ってやまない。
「今日は新作です。『メネメン』という、トルコの家庭料理ですよ」
「あ、それ知ってる! トマトと卵とピーマンのやつでしょ? 美味しいし彩り良くて映えも最高なんだよね〜!」
「おや、ご存知でしたか。さすがは料理研究会所属ですね」
ここは喫茶店、料理屋でもレストランでもない。
けれど矢上の作るまかないは、いつも小さな祝祭を運んでくる。
矢上はコンロに火をつけ、フライパンを静かに温めた。
オリーブオイルが薄い金色に光りながら流れ、にんにくのみじんが油の海で軽やかに跳ねる。
香ばしい匂いが立ちのぼり、空気が一瞬で食欲色に染まる。
そこへ玉ねぎとピーマンが加わる。
ジュウウッ、と音が弾け、店の温度が一度上がった。
甘みが先陣を切り、ピーマンの青い香りがすぐ後ろで追う。
矢上の手元は一定のリズムで動き、木べらの音が小気味よく響く。
角を落としたトマトが投入されると、赤がぱっと広がり、湯気が笑うように立ちのぼった。
酸味を帯びた香りが鼻先をくすぐり、心春の鼻が自然に反応する。
彼女の舌は、もうすでに準備万端だ。
「めっちゃ良い匂いする〜! てかマスター、いつもながら手つきがプロだよね!」
「お褒めいただき光栄です。メネメンは卵の半熟加減が決め手なんですよ」
そう言うと、矢上は卵を割り入れた。
殻が小さく鳴り、流れ落ちる黄身がトマトの海に沈む。
木べらが鍋底をやさしく擦るたび、赤と黄がまじりあい、ゆるやかに世界が溶けていく。
トマトの酸味が熱でやわらぎ、卵の香りがそれを包む。
音はジュウウッと低く、泡が小さく弾けて、まるで呼吸しているようだ。
黄身が赤にほどけ、朝焼けのような渦ができる。
夜と昼の境目に一瞬だけ訪れる光、その瞬間を閉じ込めるような温度。
矢上は目を細め、そのタイミングを逃さない。
火加減をほんのわずかに弱め、炎の先が穏やかに揺れたところで、すっと手首を返す。
――音が止まる。
迷いのない動き。
その刹那の沈黙すら、料理の一部にしてしまうような、完璧な止め方だった。
皿に盛りつけると、湯気が縁にふんわりまとわりつき、まるで白い羽衣のように立ちのぼる。
トマトの赤と卵の黄、ピーマンの緑が、琥珀色の照明に照らされて鮮やかに輝く。
仕上げにオリーブオイルを一滴だけ落とし、光をひと筋、料理の上に滑らせる。
喫茶店らしく、皿は少しだけ小ぶりだ。
テーブルに広げる料理ではなく、香りごと手のひらで包めるほどの、控えめな存在感。
このサイズが『すのうどろっぷ』の静けさを壊さない。
香りが客席へ逃げず、あくまでこの場所だけにとどまる、計算された大きさだ。
その隣では、カフェオレが静かに泡を立てていた。
ミルクの白い息がカウンター越しに漂い、ほのかな甘さが空気に溶けていく。
心春の好みは、コーヒーの苦味がミルクの優しさに飲み込まれる寸前のバランス。
ポットから注がれる液体は、焦がす寸前のキャラメル色だ。
カップを差し出すと、ふわりとした香りがメネメンの熱気と混じって溶け合った。
「お疲れさまです。貴女のお好きなカフェオレもどうぞ」
「え、神! この組み合わせ、絶対最高じゃん!」
心春はスマホを前に出し、皿を半歩引く。
湯気が薄く写る角度を探し出すのが彼女の特技だ。
カメラで撮った写真をSNSに投稿するハッシュタグの指も速い。
「#まかない #メネメン #すのうどろっぷ」
送信の完了を待たずに、香りが食欲のスイッチを押しきっていた。
心春はパンを手に取り、親指と人差し指でそっと裂いた。
ぱりっと軽い音がして、香ばしい皮の下から、白い内側がふわりと顔を出す。
熱を宿した生地が湯気をゆっくりと吸い込み、まるで息をしているように揺れた。
その湯気に混じってオリーブオイルとトマトの香りが鼻先をくすぐり、異国の台所を覗いたような錯覚に陥る。
そのまま、ちぎったパンをメネメンの皿に沈める。
赤と黄色が柔らかく絡み、パンの端にトマトの汁が染み込んでいく。
木べらの跡が残る皿の表面からは湯気が立ちのぼる。
その一片を持ち上げ、ひと口。
最初に、トマトの酸味が世界を切り開く。
シャープな赤い風が、舌の上をひとすじ駆け抜ける。
すぐに卵のコクが追いつき、味を丸く包み込む。
その柔らかさに、ピーマンの青い香りが遅れて合図を送る。
酸味。
甘味。
そして余韻。
味の列がきちんと整列し、心春の舌の上を整然と行進していく。
どこにも無理がなく、それでいて隙がない。
「ヤバっ……!」
そのひと言は、心春の思考の隙間からこぼれ出た。
「このトマトの酸味がマイルドで、卵のとろとろ感も激ヤバい! ピーマンの香りがちゃんとアクセントになってる!」
「お口に合って何よりです。トマトの水分を飛ばしすぎないのがコツですよ」
「マスター、マジでプロ! てかこれもう優勝じゃん、バズらんわけないって!」
心春は二口目を味わいながら、すでに次の一手を考えていた。
どの部分をすくえば卵がちょうどよく絡み、どの角度から攻めればトマトの汁がベストに染みるか。
まるで攻略マップを脳内に描くような集中力だ。
食べるとは戦略。
タイミングと配分、そして一瞬の判断が命。
ひと口ごとに、トマトの酸味が舌の上で小さく拍手を打ち、卵のとろみがその音を包み込む。
ピーマンの香りは後方支援のようにそっと現れて、「次、もう一口いける」と甘く囁く。
心春の表情は、もはや真剣勝負だ。
まぶたの奥では、皿の中にだけ存在する小さな宇宙が回転している。
カフェオレをひと口。
ミルクのまろやかさが舌をやさしく撫でて、さっきまでの熱気をやんわりと鎮める。
それなのに、ほんの数秒後にはまた赤いソースの誘惑が顔を出す。
ミルクの白が引き算した熱を、トマトの赤が足し算で取り戻す。
このループが危険なことを、心春は理解している。
『もう一口だけ』が永久機関に変わる、罪深い魔法。
それでも手は止まらない。
パンが湯気を吸ってしんなりした瞬間、胃袋の指揮が全てを支配し、全細胞が「おかわり」を要求する。
心春はほっぺをふくらませたまま、次のパンをちぎった。
「ねぇマスター、これメニューに出そ! 『世界の朝ごはん特集』とかさ、絶対バズるって!」
「ありがたいお話ですが、この店を有名にしたいわけではないんです。ここは静けさを味わう場所でありたいので」
「マスター、ホント哲学者だよね〜。もう黒板に『今日の悟り』って書いとこうよ」
「では『本日の静けさ』も添えておきましょう」
「いや誰得なのそれ。でもちょっと見たいかも」
「見られなくても、ここにあれば十分ですよ」
矢上はカウンターの奥でカップを磨いていた。
指先の動きは穏やかで、音を立てない。
磨かれるたびに銀縁が光をすべらせ、そのたびに彼の長い影がゆるく伸びる。
背は高いが、動作に威圧感はない。
皿を持つときだけ、厚い肩に一瞬だけ力が入る。
それが終わればまた、何事もなかったように静かな人へ戻る。
心春はメネメンをパンでぬぐいながら、その背中をちらりと見た。
「ねぇマスター!」
フォークを咥えたまま、心春は声を上げる。
「ウチのサークル、今度テレビ来るんだよ! 『グルメパトロール★神居』ってやつ! ウチの代表、テレビ取材とか初めてでさ。今もうテンパりMAX!」
「ほう、それは楽しそうですね。華やかでいいじゃないですか」
「でしょ? うちのサークル『Stella Kitchen』って言うんだけどさ、四学年合わせてなんと百人超え!」
「百人の包丁が一斉に動く光景……圧巻でしょうね。鍋の悲鳴も混じりそうです」
「マスター、そういう例えほんとジワるんだけど。てかさ、マスターも出れば? 『静寂系バリスタ』とか絶対話題になるって!」
「いえ、私は表より裏が落ち着く性分でして。カメラの前より、カップの向こうが性に合います」
「出た! 歩く名言メーカー! マスターの口って絶対どっかに『ポエムON』スイッチあるでしょ!」
そんな会話の最中だった。
スプーンが、跳ねた。
続けて皿がカタリと鳴り、フォークが勝手に動いた。
そして次の瞬間――
カップが宙を舞い、椅子が横滑りし、天井の照明が小さく揺れる。
壁の時計が逆回転を始め、棚のグラスがひとつ、またひとつと浮き上がった。
「うそっ!? えっ!? ちょ、マスター!? これホラー!? 心霊!? 無理無理無理!!」
心春が叫ぶより早く、矢上は動いていた。
音を置き去りにする速度で、カウンターを越える。
左腕で棚のグラスを受け、右手で飛んできた皿を弾く。
跳ねたフォークを膝で受け、落ちるカップの下へ靴の先を滑り込ませる。
反動で跳ね上がったカップを手の甲で持ち直し、同時に椅子の脚を肩で押し返す。
そのすべての動きが、呼吸ひとつ分の間に収まっていた――
重力が戻り、音が一斉に帰ってくる。
コーヒーカップが、コトリと音を立てて静かにカウンターへ置かれる。
皿もグラスも、どこも割れていない。
矢上は何事もなかったかのように、前髪を指で整えた。
「……少々、騒がしかったですね」
「騒がしかった!? いやいやいや!! 戦場だったけど!? マスター、何それ!? 目にも止まらなかったけど!?」
「片づけの基本は、早めの対応ですよ」
「対応!? 今のスロー再生したら、武道の教材になるよ!? てか床滑ったよね!? 物理法則どうなってんの!?」
「喫茶業も、重力と仲良くする仕事ですから」
「いや怖っ!! 今の流れで『喫茶業』って言葉出す人いる!?」
「プロ意識ですよ」
矢上は落ちたスプーンを拾い、軽く布で拭いてから元の位置に戻す。
まるで、最初から何も起こらなかったかのように。
「お食事の続きをどうぞ。温かいうちに」
心春は半口開けたまま、しばらく言葉を失っていた。
そして、ようやくスプーンを握り直す。
「……マスターって、絶対普通の人じゃないよね?」
「どなたも、少しの訓練でできることです」
「いや訓練であの動きムリでしょ!? 人間やめてるじゃん!」
「秘密保持には慣れております」
「やっぱり何者なん……」
言うことがさらりと常識を抜けていく。
心春は眉を上げ、そして苦笑いをもらした。
たまにマスターの素性を知りたくなるが、その気持ちはカフェオレで流し込む。
喫茶店は詮索しない場所。
矢上の敬語は、そのための静かな壁でもある。
「でもさー、ほんとに宣伝しないの? さっきのインスタ投稿、今日のメネメンにもう反応来てるよ」
「ご遠慮します。宣伝は、届かなくていい方にも届いてしまいますので」
「えー? それはなんか意味深。マスターの元カノとか?」
「いえ。元カノの方がまだ平和です」
「なにその比較。怖いんだけど」
心春は小さく笑った。
冗談は半分。
半分残る真面目が、また店を静かにする。
最後のひとかけのパンで皿をきれいにしてから口に放り込み、心春は至福のため息をついた。
満足は、喫茶店にとって最良のデザートだ。
会話の余韻と、食器のやさしい触れ合い。
「でもさ、マスター。こうしてマスターとまかない食べるの、アタシわりと好きだよ」
「それは光栄です。誰かと分け合う静けさは、少し甘くなりますからね」
窓の外、通りの向こうの街灯が、小雨を縫う。
客は来ない。
鈴は鳴らない。
静けさと、湯気と、会話。
それらはミルクの泡くらいの軽さで、天井に消えていく。
この夜が嵐の前口上だとは、今はまだ、誰も知らなかった。




