08.兄の愛
私たちはおそるおそる振り返る。
(おおかみ……?)
「グルルルル……」
低い声で鳴く狼が目の前に現われたのだ。
(なんで王宮に現れるの!?)
ここは王宮の敷地内だ。
常識的に考えて、獣の類いが野放しにされているわけがない。
しかし、今は常識を考えても意味はないのだろう。
狼は私とルノーに狙いを定めている。口から垂れる涎。腹を空かせているのだろうか。
(魔法で……。でも、今魔法を使ったら……)
ルノーに魔法のことがバレてしまう。
まだ昔ほど取り戻していない力だ。だから、今これが露見してしまえば、ルノーは私を警戒するかもしれない。
せっかく秘密を見せてもらえる仲になったのに。
私が悩んでいるあいだに、狼が私たちに鋭い爪を向ける。
私が魔法を使うよりも早く、ルノーが私の上に覆い被さった。狼の鋭い爪がルノーの肩を抉る。
ルノーの顔が歪む。けれど、私と目が合った瞬間、笑う。
「だいじょうぶ、だよ。僕が守るから」
しかし、ルノーは痛みに小さく声を上げると気を失った。
「ルノーッ……!」
私は叫んだ。
身体中を光が覆う。
そのことは覚えていなかった。
**
アランは執務中、窓の外を見た。
ルノーがレティシアの手を取って庭園を歩いている。
仲のいい兄妹の光景だ。
隣に立った補佐官もその様子を覗いて小さく笑った。
「ルノー殿下はすっかり兄の顔ですね」
「そうだな。今日の授業はまだあったはずだが……」
「そういう日もあるでしょう。かわいい妹の相手も大切です」
「そうだな」
娘──レティシアが生まれて、ルノーは強く元気になった。
勉強も剣術も積極的に取り組むようになったのだ。
そして、王宮も活気づいたように見える。
「ルノー殿下がご一緒のようですから、今日は執務に集中できそうですね」
補佐官はいつも一言多い。
アランはギロリと補佐官を睨んだ。
しかし、補佐官が言うように、ふだんならレティシアの様子を見に行く時間だった。
しかし、今は行っても部屋にはいない。ルノーが庭園を連れ回している。
アランは小さくため息をつくと、席に座った。
部屋が光に包まれたのはそれから一時間ほどあとのことだ。
書類に目をとおしていると、突然部屋に光が満ちた。
あまりのまばゆさにアランと補佐官は目を細め、腕で目を覆う。
だんだんと弱まった光の先には、血だらけのルノーを抱いたレティシアがいた。
「あたちが……」
レティシアはそれだけ言うと倒れる。
アランは立ち上がり、すぐさま二人のもとへと駆け寄った。
ルノーの肩には鋭い爪の跡。どくどくと真っ赤な血液があふれていた。
レティシアも血だらけだったが、すぐに傷は見つけられなかった。
「医師をすぐに呼べ!」
アランが叫ぶ。気を取り直した補佐官が短い返事のあと走って行った。
**
治療を終えた医師が重々しく言った。
「ルノー殿下の傷は獣によるものでしょう」
「獣? 王宮に獣が入ったというのか?」
「はい。爪の跡がくっきりと残っています」
「それで、ルノーの容態は?」
「今はなんとも。傷口が塞がるまではわかりません」
医師は力なく言った。
アランは奥歯を噛みしめる。握り締めた拳が苛立ちに震えた。
「レティシアは?」
「レティシア殿下のほうに怪我はありませんでした」
「では、なぜ目を覚まさない?」
一晩経ってもレティシアは目を覚ましていない。
息はしている。しかし、死んだように静かだった。
医師がわずかに悩んで口を開く。言葉を選んでいるのだろうか。
「おそらく、マナが枯渇しているからでしょう」
「マナの枯渇……?」
「私はあまり魔法に関しては詳しくないのですが、体内のマナの量を上回る魔力を使ったようです」
アランは医師の説明に眉根を寄せた。
(マナの枯渇? レティシアは魔法が使えたのか?)
彼女が魔法を使っているところは見たことがない。
「もしかすると、危機的状況によってうちに秘めていた力が出たのかもしれません。専門の者に見てもらうのがよろしいかと」
「そうだな。では、ルノーの治療に注力してほしい。レティシアのことは別の者に頼もう」
「かしこまりました」
医師が頭を下げ、ルノーの部屋へと戻っていった。
アランは補佐官に、魔法使いをレティシアのもとに連れてくるように命じる。
そして、レティシアの部屋へ向かった。
レティシアの部屋には先客がいた。──シェリルだ。彼女は一時間ごとにルノーとレティシアの部屋を訪れ、看病に当たっていた。
シェリルはアランを見つけると、駆け寄る。
「陛下……! ルノーとレティシアは大丈夫なのでしょうか?」
「安心しなさい。すぐによくなる」
アランは言えなかった。ルノーがいまだ峠を越えていないことを。
幼い身体で獣に襲われたのだ。
しかし、今それを伝えれば、彼女が倒れてしまうだろう。だから、これはアランなりの気遣いだった。
アランはシェリルの肩を抱く。
「レティシアはどうして目を覚まさないのですか? この子は傷もないのに……」
「マナの使い過ぎだそうだ」
「マナの……?」
「どうやら、怪我を負ったルノーを私のもとまで魔法で連れてきたようだ」
「魔法で……」
シェリルは驚きに目を丸くし、レティシアを見る。
「この子が魔法を使えるなんて、知らなかったわ」
「私もだ。きっと、レティシアも知らなかっただろう」
廊下からバタバタと足音が二人分聞こえる。──補佐官と魔法使いが来たのだろう。
アラン自ら扉を開いた。
長いローブを着た魔法使いは驚いて目を見開く。
「さっそくで悪いが、娘を診てほしい」
「レティシア殿下をですか?」
「ああ。魔法を使ったらしい」
「もしかして、昨日の夕刻の強い魔法は殿下のもので!?」
「強い魔法?」
「はい。あれほど強い魔法は初めて見ました」
魔法使いは頬を上気させ、興奮気味に言った。
「昨日の夕刻ならレティシアなのだろう。怪我をしたルノーを魔法で連れてきた」
「瞬間移動……ですか!? まだ三歳の殿下が!?」
「今がどのような状況なのか、診てほしい。医師はマナの枯渇ではないかと言っている」
魔法使いは慌ててレティシアのもとへと駆け寄る。
そして、レティシアの頭に手を当てた。
「魔力の残滓を感じますね。ああ、見たてのとおりマナが枯渇しています」
「それで、レティシアは大丈夫か?」
「ええ、魔法使いではよくあることです。身体にマナが戻ってくるまでは、暫く眠ったままでしょう。私も初めて魔法を使ったときに五日ほど眠りこけ、家族を心配させたものです」
魔法使いは「ははは」と冗談めかして笑う。
隣に立っていたシェリルが安堵のため息をついた。
「なにか用意したほうがいいものは?」
「そうですね。マナは自然にあるものですが、マナの塊とも言える魔法石などを側に置いておくのもいいかもしれません」
「わかった。国中の魔法石を集めよ!」
アランは即座に補佐官に指示を出す。補佐官はすぐさま返事をすると走って行った。
魔法使いだけがひとり慌てる。
「いや……そこまでする必要は……」
「レティシアの大事だ。他に必要なものはあるか?」
「い、いえ。必要ないかと」
アランはレティシアに近づくと、頭を撫でた。
(こんな小さな身体で兄を守ろうとしたのか?)
目の前に広がった強い光を思い出す。
あれほどの光は初めて見た。レティシアの内なる輝きなのだろう。
「安心しなさい。二人とも私が守ろう」
アランはレティシアに背を向ける。
まだやることは多くあった。
「シェリル、悪いが二人のことを任せてもいいか?」
「ええ、もちろんです。でも何か問題が?」
「王宮に紛れ込んだ獣と、獣を入れた者を探し出す」
王宮に獣が紛れ込んでいるなどあり得ない。
絶対に手引きした者がいるはずだ。
**
私は長いあいだ夢を見ていた。
狼に襲われる夢だ。そして、最後は絶対にルノーが私を守って傷つく。
すべては私がためらったせいだ。
魔法を使えば、追い返すことができた。
もしも、ルノーに魔法のことがばれたら? そんなことを考えてしまったせいで、ひどい結末を迎えた。
(なんでルノーは私を守ったの?)
普通は妹を囮にして逃げるものではないだろうか。
兄妹とはそういうものではないのか。
私にはルノーの考えがわからなかった。だって、ルノーは王太子だ。ただの王女の私よりも価値のある存在。
私が死んでも国は困らないが、ルノーが亡くなったら困る。
だから、私を見捨てて逃げればよかったのだ。
(わからない……)
私はゆっくりと瞼を上げた。
「レティ」
目の前が金色に輝く。
「おにーたま?」
私は思わず呟いた。




