28.ブルーベリー
私は思わず扉に視線を向ける。
声の主は兄――ルノーだ。彼は大きなバスケットを手に、満面の笑みを見せている。
(ブルーベリー)
つい、ブルーベリーに気が取られた。
それがいけなかったのだろう。
私はバランスを崩し、積み木の城に向かって勢いよく転んだ。
ガラガラと積み木の城が音を立てて崩れる。
積み木が一つ、頭に当たった
「あた」
「殿下っ!」
「レティッ!?」
みんなが一斉に私のもとへと駆け寄ってくる。
私は頭を押さえながら、立ち上がった。
「レティ、大丈夫!?」
「お怪我はありませんか?」
「ん。へーき」
少し痛いだけ。
しかし、過保護なメイドたちは私の身体をくまなく確認した。
「お怪我はないようでよかったです」
「ごめんねレティ。僕のせいだね。せっかく大きなお城ができてたのに」
ルノーは眉尻を下げて謝った。
まるで重罪でも犯したような表情に私は慌てた。
「ちあう。へーき」
そんな顔をする必要はない。積み木の城に思い入れはないのだから。
これはただのトレーニングだ。それをルノーに説明するすべはないけれど。
そんなことよりも、私はルノーの手にあるバスケットの中身のほうが気になっている。
私はジッとバスケットを見つめた。
ルノーも私の視線に気づいたのだろう。
満面の笑みを浮かべる。
「ブルーベリーをもらってきたんだ。一緒に食べよう」
「ん」
以前、食べたブルーベリーの味を思い出すと、口の中にじわりと唾液があふれ出す。
思わず両頬を押さえた。
想像だけでおいしい。
「ほら、あーん」
ルノーに差し出され、私は反射的に口を開けた。
口の中にブルーベリーが放り込まれる。
甘酸っぱい。
久しぶりの味に私は目を細めた。
「おいしい?」
「ん」
ルノーは嬉しそうに笑うと、一粒口に含む。
「うん、おいしい! ほら、レティ、もう一つ」
ルノーはブルーベリーを差し出した。
差し出されると、つい口を開けてしまう。
こんなにも新鮮なフルーツが好きなだけ食べられるだなんて、なんて幸せなのだろうか。
私は両頬を押さえながら、何度も咀嚼した。
リオート王国の食べ物はなんでもおいしい。
ただ積み木をしているだけで、たくさんの食べ物が与えられる。
それはとても幸運なことなのだろう。
ガルバトール帝国の皇女でさえ、明日の食べ物に困る時代。それを考えると、ここは天国のような場所だ。
すると、廊下からバタバタと足音が聞こえた。
(これは、いつものね)
私は扉に視線を向けながら、苦笑を浮かべる。
もう慣れたものだ。
コンコンコンコンと慌ただしく扉が叩かれる。メイドが開く前に扉が勢いよく開いた。
「殿下っ! やはりこちらにおられましたか!」
この光景を何度見ただろうか。
私はもう動じない。
「もう休憩時間は終わりましたよ!」
「えっ? 早いよ。あと三十分は残っていると思うけど?」
「そんなはずはございません。ほら、早く参りますよ」
私は誰にも聞こえないようにため息をつく。
「レティ、また来るね」
「ん」
ルノーは私の頭を撫でると、渋々部屋を出て行った。
私はそんな彼の背中を見送る。
食堂からブルーベリーを手に入れて、私の部屋に来たのだろう。
それでは休憩なのに休憩になっていないのではないか。心配になる。
私は残されたバスケットに手を伸ばす。
(これは食べてもいいやつ)
ルノーがくれる物には見返りを求められていないのだと知った。
私がこれを全部食べても罪には問われない。
まだ信じられない話だが、それが事実なのだ。
なんとも不思議な話だと思う。
ブルーベリーを一粒口に含む。
咀嚼をするたびに口の中に広がる酸味に私は目を細める。
「レティシア様、おいしいですか?」
「ん」
私はメイドにブルーベリーを一粒差し出した。
「もしかして、私にもいただけるのですか?」
「ん」
一人で食べきるには多すぎるし、ルノーならメイドたちにあげても怒らないと思った。
ルノーはとても優しいから。
メイドは嬉しそうに笑う。
気をよくした私は、他のメイドたちにも数粒わけて歩いた。
もちろん、護衛騎士のオーバンにも。
オーバンに差し出すと、彼は困惑の表情を浮かべる。
「自分にもいただけるのですか?」
「ん」
(ここで一人だけあげなかったら意地悪してるみたいじゃない)
オーバンは身体が大きいから、たくさんあげよう。
バスケットから両手ですくうと、オーバンの手の平に乗せる。
「こんなにたくさんいただいても、よろしいのですか?」
「もっと?」
「いえ、これでじゅうぶんです」
私の両手いっぱいにあったブルーベリーが、彼の大きな手だと片手にほんの少しにしか見えない。
何度もオーバンと私の手を見比べた。
オーバンは片手に乗った数粒のブルーベリーを一気に口に入れる。
大きな口はあっという間にブルーベリーを吸い込んだ。
私の口では大粒に感じたブルーベリーも、彼の前では極小に見える。
「おいしかったです」
彼は真面目な顔で言う。
本当においしいのかは表情からは伝わらなかった。
とりあえず頷いておこう。
バスケットの中のブルーベリーはまだたくさんある。
私だけでは食べ切れないほどだ。
(そうだ)
私はオーバンを見上げて言った。
「おさんぽ」
「お供いたします」
「ん」
私は大きなバスケットを持ち上げる。まだ三歳の私が持つには大きすぎた。
すると、ヒョイッとオーバンがそれを持ち上げる。
オーバンが持つと小さく見える。不思議だ。
私が歩き出すと、メイドが部屋の扉を開ける。
散歩にはメイドが一人ついてきてくれることになった。
私はメイドと護衛騎士を従えて、小さな足で歩く。
「お連れいたしましょうか?」
オーバンが控えめに尋ねた。
私は頭を横に振る。
「へーき」
オーバンに抱き上げて連れて行ってもらえば、すぐに目的地につくだろう。
しかし、これは体力づくりの一環だ。
自分の足で歩かねばなるまい。
大股で歩く。
しかし、進みはあまり早くなかった。
到着したのは、父――アランの執務室だ。
私の代わりにメイドが扉を叩く。
扉を開けたのは補佐官だった。
「おや、陛下。可愛らしいお客様がいらっしゃいましたよ」
補佐官はすぐに私たちを部屋の中に入れてくれた。
ちょうどアランは書類に目を通していたようだ。
机の上には書類の束が積み上がっていた。
アランは私をすぐに抱き上げる。最近気づいたのだが、彼はすぐに私を抱き上げる癖があると思う。
私が小さいから、会話がしづらいせいだろうか。
「レティシア、どうした?」
「おさんぽ」
「そうか、散歩に寄ったのか」
「ん」
アランは私の頭を撫でる。
頭を撫でるのも彼の癖の一つだ。しかし、この癖は結構みんな持っている。ガルバドール帝国の皇帝やきょうだいたちには見なかった癖だ。
リオート王国特有の癖だと思う。
しかし、この癖は嫌いじゃなかった。
ひとしきり撫でられると彼も満足したのか、私をソファの上に下ろす。
私はソファを飛び降りると、オーバンのもとへと駆けた。そして、両手をオーバンに伸ばす。
オーバンはすぐに察したのか、膝をつき私にバスケットを差し出した。
(両手分だと、オーバンと同じ量になっちゃう)
国の主と護衛騎士が同じ量はさすがにまずいのではないか。
オーバンが「自分と同じ量です」と言うとは思えないが、何かの弾みでそれが露見したとき、アランはどう思うだろうか。
しかし、私の手は二つ。けっして大きくはならない。
私は両手をまじまじと見つめた。
「どうした? レティシア」
アランの声が背中から襲う。
(どうしよう)
二往復するのか正解か。
籠ごと献上するほうがいいだろうか。
いや、この中で艶のあるおいしいそうなものを選ぶのが正解だろうか。
私はブルーベリーを睨みつけた。
(……よし)




