15.おかーたまの危機
使用人は懐から小瓶を取り出すと、こっそりと紅茶に液体を混ぜる。
私は目を見開いた。
なんの液体かはわからない。しかし、どうみても怪しかった。
(このままじゃ、お母様が危ない!)
私は立ち上がる。
しかし、イズールの屋敷から王宮まで、子どもの足では遠い。
走っても間に合わないだろう。
(オーバンなら……)
間に合うだろうか?
しかし、すぐに信じてくれるだろうか?
私が「シェリルが危ない」と突然言っても、信じてもらえるとは思えなかった。
こうしているあいだにも、シェリルに危険が迫っている。
(一度できたなら……)
私は両手を握りしめた。
(お母様を助けたい……!)
ギュッと目をつむる。
方法はよくわからない。けれど、私にはこれしかない。
シェリルの優しい手がなくなるのがいやだった。
すると、まばゆい光が私の身体を包みこんだ。
**
宙に放り出されるような感覚に、私は目を見開く。重力が私を下へ下へと引っ張る。
「わわっ!」
私は思わず声を上げた。
突然、落とし穴に落ちたような気分だったのだ。
「レティシア!?」
「レティシア様!?」
ポスッ。と、落ちたのはアランの腕の中だった。
「あれ? おとーたま?」
私は目を瞬かせる。
シェリルを助けたいと願ったはず。なのに、なぜアランのもとなのだろうか。
しかし、アランがいるということはここは王宮だ。
私はきょろきょろと辺りを見回す。──アランの執務室だった。
アランはまだ驚きに目を丸くしている。
私は慌ててアランの腕をつかむ。
「あかーたま! どく! はやく!」
「毒? シェリルが?」
「ん。こーちゃ! どく!」
三歳の口はあまり回らない。この拙い言葉で伝わるだろうか。
補佐官が困惑気味に言った。
「どういうことでしょうか?」
「シェリルの紅茶に毒が入れられたということか? 今は夫人たちを招いてお茶会の最中だったはずだ」
「ん。はやく!」
私はアランの腕を揺さぶる。
アランは私の言葉を信じてくれるだろうか。
(ここからなら一人でも間に合うかも)
私はアランの腕から降りようとした。しかし、アランが立ち上がる。
「急ごう」
アランは短く言うと、大股で部屋を出たのだ。
彼は廊下を走る。
振動が直に伝わってきて、酔いそうだ。私はアランの腕にぎゅっとしがみつく。
まっすぐにお茶会の会場に到着する。
部屋の前で待機するメイドに見向きもせず、扉を開いた。
いっせいに夫人たちの視線がアランと私に向く。
ちょうど、シェリルや夫人たちが新しい紅茶を口にしようとしたところだった。
「だめぇえええええ!」
私は精一杯叫ぶ。
みんなが驚きに目を丸くし、手を止めた。
「陛下? レティシア? いかがなさいました?」
シェリルが驚きながらも、首を傾げる。まだ紅茶は飲んでいないようだ。
(よかった。間に合った……)
「みな、一度その手を離すんだ」
アランが冷静な声で言う。
困惑した夫人たちがおそるおそるティーカップを置く。
私はホッと安堵のため息をついた。アランが私の背を撫でる。
少しずつ状況を理解し始めた夫人たちは、慌てて立ち上がりアランに向かって頭を下げる。
「王国の太陽にご挨拶申し上げます」
「堅苦しい挨拶は不要だ。楽しい席に邪魔をしたな」
「いえ、陛下と王女様にお会い出来て嬉しゅうございます」
「それにしても、二人でどうしたの? レティシアに何か?」
シェリルは不思議そうに再び首を傾げる。
「おとーたま」
私はためらいなく、一人のメイドを指差した。
あいつだ。紅茶に何かを入れていたのをはっきりと見たのだ。
アランは私の頭を撫でると、私をシェリルに預けた。
状況をつかめていないシェリルは、目を瞬かせ私の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
私は何も言うことができず、ぎゅっとシェリルに抱きついた。
もしも、この人が毒を飲んでいたら。そう考えるだけで冷や汗が出る。
シェリルは毎朝、世界に光が満ちてくれることを教えてくれる人だ。
『おはよう』と笑みを浮かべ、優しさで包んでくれる。
アランはシェリルが飲まなかったティーカップを手にすると、メイドのもとへと歩いていった。
「そこのおまえ、これを飲みなさい」
ついっとティーカップを押しつける。
メイドは目を見開いた。
メイドは床に膝つき、頭を横に振る。
「で、殿下の飲み物を口にするなど、私にはできません」
「私が許す」
「で、ですが……」
メイドはシェリルに助けを求めた。
私はシェリルを見上げる。
「私も許すわ。それにその紅茶は私のお気に入りなのよ」
「シェリルも許した。主人の紅茶を飲んだことで罪を問うことはない。証人はここの者たちだ。よいな?」
三人の夫人たちはアランの神妙な雰囲気にのまれながらも頷く。
アランはそれを確認すると、メイドの手にティーカップを押しつけた。
「さあ、飲むがいい」
メイドの手がカタカタと震える。
震えた手でメイドはティーカップを口元に運んだ。
しかし、紅茶が口につく前にティーカップを床に落とす。メイドはその勢いのまま頭を下げ、額を床に擦りつけた。
「も、申し訳ございません……! お許しください……!」
「詳しく説明しろ」
「わ、私はただこの薬を紅茶に混ぜるようにと……」
メイドは震えた手で懐から小瓶を取り出す。
アランは奪い取った。そして、補佐官に小瓶を渡す。
「早急に中身を調べさせろ」
アランはメイドに向き直ると、訊ねた。
「誰に頼まれた?」
メイドは頭を横に振る。
「わかりません……。この薬を王妃殿下の紅茶に混ぜれば、父の病気を治してくれると言われたのです」
「その言葉を信じたのか? 誰かもわからん者の言葉を?」
「それでも父の病が治るのであればと……」
「王妃を殺しても構わないと?」
「そ、そんなつもりは……!」
メイドは顔を上げる。しかし、再び頭を下げた。
「この者を連れて行け」
駆けつけた騎士がメイドを連行する。
一部始終を見ていた三人の夫人の顔は真っ青だった。
シェリルの手がわずかに震えている。
シェリルは狙われた張本人だ。冷静でいられるわけがないだろう。
しかし、シェリルはにこやかに笑った。
「みんなが紅茶を口にする前でよかったわ」
「は、はい……」
「せっかく美味しい紅茶だったのだけれど、残念ね。皆に土産を用意して。食べる物ではないほうがいいわ」
シェリルはメイドに指示を出す。
そして、夫人たちにシェリルの装飾品を下賜した。
「不安でしょうから、帰りは騎士をつけましょう」
「お心遣い感謝します」
「その代わり、この件は内密に」
「はい。そのように」
夫人たちは頭を下げ、足ばやに帰っていった。
人がいなくなった部屋でシェリルは息をつく。
そして、床にへたりこんだ。
「おかーたま」
「大丈夫よ。少し驚いただけ」
彼女は色のない顔で微笑むと、私を抱きしめる。
(よかった……。お母様が無事で)
安堵した途端、身体から力が抜けた。この症状はよく知っている。
マナの枯渇。
前世で何度も体験した感覚。
「レティ?」
シェリルが私の顔を覗き込む。
(それもそうだよね。まだマナがたまっていないのにたくさん使っちゃったから)
瞬間移動がどれほどのマナを使うのか、まだわかっていない。それなのに、必死で使ってしまった。
(でも、お母様が守れてよかった)
私はにへらと笑う。
「レティ!?」
「レティシア!」
アランとシェリルの声が聞こえる。
「へー……き」
どうにか絞り出した声が彼らに届いたかどうかはわからなかった。
**
マナの枯渇を再び起こした私が目を覚ましたのは、それから五日後のこと。
そして、私は窮地に立たされている。