最初の仕事
橘美緒は緊張していた。総合病院の廊下に立ち、これから入る病室のドアを見つめながら、深呼吸を繰り返していた。
「大丈夫、落ち着いて。今日はまだ本番じゃないから」
そう自分に言い聞かせ、美緒はゆっくりとドアを開く。
その病室は個室だった。中央付近に大きめのベットが一台だけ置かれている。
春の穏やかな空気が室内へと流れている。開け放たれた窓の手前には、一人の男性が立っている。寝巻き姿の患者だ。病でやつれてはいるものの、自分の足でしっかりとそこに立っている。
「誰?」
男性にそう問われた瞬間、美緒はノックもせずに入ったことに気付き、慌てて頭を下げた。
「す、すいません。突然お邪魔して。わたし、魔術師協会から派遣されてきた橘美緒です」
「ああ、そうか。面会日は今日だったね。すっかり忘れていたよ」
男性はそう言うとベットまで歩み寄り、その縁に腰かけた。そしてスツールを手で示し、
「それを使って。座り心地は悪いけど、話もそう長くはならないと思うから」
「はい」
美緒はスツールに腰掛け、横から男性の顔を眺める。とても穏やかな表情をしている。年齢は三十手前と事前に聞いていたが、もっと若い印象。肌が青白いのに髭は目立たず、不思議と唇は赤い。
「まずは自己紹介したほうがいいかな。おっと、その前に」
男性はベットのサイドテーブルに手を伸ばし、そこに置かれていた眼鏡を手に取った。
「ちゃんと相手の顔を見ないと失礼になるよね」
眼鏡をかけると、男性は美緒の顔をじっと見つめた。
「思ったよりも若いんだね。年齢を聞いてもいいかな?」
「十五歳です」
「十五?そんな年齢でもう現場に出るのかい?」
「封魔師は数が少ないので」
「そうか。やむを得ないとはいえ、その年齢で人の死に向き合わなければならないとは、酷な話だね」
「まだ、よくわからない部分もあります。実際に人の命を奪ったことはないので」
美緒は今日が初仕事だった。封魔師としての訓練は積んだものの、実践とそれとはかなり違う。
「緊張しなくてもいい。死にかけの魔術師の中には命を奪われることに抵抗する人もいるみたいだけど、ぼくはすでに納得しているから」
「わたし、上手くできるかわかりません。でも、一生懸命やります。信じてください」
美緒にはわかっている。封魔師としての経験のない自分に最期を託すことがどれだけ不安なことなのかということを。
「信じるよ。若い才能のために死ねるなら、ぼくも本能だからね」
「佐伯さん、でいいんですよね」
「うん、ぼくは佐伯透。年齢は二十八。魔術師としての能力は結界師になるね」
「結界師、ですか」
「もしかして、何も聞いてないのかな?」
美緒は頷いた。
「能力的なことは教えてもらいませんでした。現場で情報を集め、相手の心に近づくのも封魔師の役割りだって言われたので」
「そうか。心に触れる能力だからこそかもしれないね」
「でも、結界師はわかります。空間を遮断する結界をつくることによって、何かを封じ込めたりする能力ですよね」
「その通り。体力が衰えているいまは、もう使えないけどね」
力なく笑う透。
「病気の原因について聞いてもいいですか?」
「仕事の失敗だよ。ぼくは結界師として、大きな過ちを犯してしまったんだ」
そう言って、透は次のことを説明した。
いまから数ヵ月前、透は魔術師としてある任務を引き受けた。それはある犯罪者の捕獲である。
その犯罪者は魔術師で、韋駄天と呼ばれていた。自身の肉体を強化することができ、まさに目にも止まらぬ素早い動きで殺人や強盗といった犯罪を繰り返していた。
透の役目は、その動きを止めること。協会のネットワークを使って入手した情報をもとに次に韋駄天が現れるであろう場所は特定され、透はその近辺で準備を整えていた。
実際にその人物が現れたとき、透は慌てることなく行動した。こちらに気づいて逃げ去ようとする後ろ姿に向けて結界を張り、その足をとめた。
「韋駄天を捕まえるだけなら、それでよかった。しかし、相手は単独犯ではなかった。仲間がいたんだ。しかも複数。周りを敵に囲まれた中、ぼくに残された選択肢は一つしかなかった。それは呪殺方陣の発動だった」
「呪殺方陣?」
「ぼくの結界の力と、相方の呪術を組み合わせた合体技の名前だよ」
魔術師の能力は基本的にひとつに限られている。なので大抵の場合、二人一組での行動となる。お互いに能力を補い、またはさらに生かすことのできるような組み合わせとなっている。
「ぼくが周囲に結界を張り、その内部空間を呪術師が呪いで染め上げる。そうすればそこにいる敵は一網打尽、相手の命を奪うかもしれないが、窮地を挽回するにはそれしかなかった」
しかし、と透はそう言ってうつむき、数秒黙りこんだ。
「失敗した。呪殺方陣は上手く働かなかったんだ」
「じゃあ、敵には逃げられた、ということですか?」
「いや、敵の殲滅には成功した。問題はぼくの結界の方だった。作り上げたはずの結界がちゃんと機能せず、呪いが外部に流出したんだ」
呪術はとても扱いが難しい。熟練者でも力のコントロールは簡単ではない。だからこそ、結界師が相棒になるのだ。周辺に呪いを撒き散らさないよう、塞き止める役目がある。
「その結果、多くの一般市民が巻き添えになった。結界の一番近くにいたぼくも例外ではなかった」
透は寝巻きの袖を捲り上げた。所々、黒いシミのようなものが浮かんでいる。
「体は呪いに蝕まれ、こうして死を迎えようとしている。ぼくの命も、もって半年だと言われている」
「なぜ、失敗したんですか?」
「焦っていたんだ。突然敵が現れたし、数もすぐには把握することができなかった。慌てて大きな結界を張ろうとしたが間に合わず、呪いが周囲に拡散してしまい、自分に結界を張ることもできなかった。これがその日起こったことの全てなんだ」
「相方の人は大丈夫だったんですか?」
「呪術師は呪いに耐性があるし、敵の攻撃を受けることもなかったよ。もっとも、精神的なものは別だと思うけどね」
「精神的、というと」
「呪いによって一般市民が犠牲になってしまったからね。ぼくの責任とはいえ、そのことをきっと悔やんでいるだろう。彼女の気持ちを考えれば、こうしてぼくが死に瀕しているのも、必然的なことなのかもしれない」
「もしかして、相方の呪術師は恋人だったんですか?」
「ああ」
透はそう小声で言った。
「ぼくの、妻だった」