人斬り主水
寛文年間、浪人・田宮主水は「試し斬り」を生業にしていた。戦国の遺風が残る非情の世界に生きる剣士を取り巻く人間模様。
主な登場人物
・田宮主水
この物語の主人公。総髪に小ざっぱりとした身なりの浪人者。無口で冷酷だが、人情味を見せる一面もある。同田貫を愛用。
・神谷伊右衛門
二百石の大番士。四十がらみの醜男で痘痕面。サディスティックな性格で猟奇趣味。主水に度々試し斬りを依頼する。
・水野小左衛門守正
初代盗賊改方頭。父親の水野守重は戦国武将・水野忠守の次男。主水に囚人の試し斬りを依頼。
人斬り主水
寛文年間(西暦一六六一~一六七三年)のことである。
浪人・田宮主水は試刀を生業にしていた。
刀剣の切れ味を試すために人を斬るのである。
江戸初期のこの頃は戦国の殺伐とした遺風が残り、武士たちの勇武を貴ぶ風潮もいまだ衰えていなかった。
侍が些細な理由で下人を斬り捨て、腕試しに町人を斬る辻斬りも横行していた。
主水は江戸の牛込・馬場町に小さな屋敷を構え、大名・旗本との交際も広く、彼らに乞われて試し斬りをし、口を糊していた。
かなりの収入があるとみえ、浪人ながら小ざっぱりとした衣服を身につけ、総髪に大小を腰に帯して悠然と道を行く姿は誰の目にも“ひとかどの武芸者”に見えた。
承応二年(一六五三年)、江戸幕府は曾根源蔵ら六名を奉行に任命し、江戸北部と西南部の赤坂、小石川、小日向、牛込方面に旗本の屋敷地を置いた。
前年の慶安五年(一六五二年)八月、将軍側近の久世大和守広之と牧野佐渡守親成が江戸市中を巡視し、旗本で屋敷を持たぬ者が六百名にも及んでいたことから、彼らの屋敷地を確保する必要に迫られていた。
当時、市谷から四谷にかけては寂しい場所であった。
『御府内備考』によると、明暦の大火(一六五七年)後、四谷大番町に移り住んだ木村三右衛門の屋敷周辺では、夜な夜な狼が出没したという。
『落穂集』によれば、麹町辺の武家屋敷は竹藪に囲まれ、小さな門の中に茅葺きの住居や長屋が臨まれるだけであったという。
この日、主水は市谷の左内坂町に住む二百石の旗本で大番士の神谷伊右衛門に招かれた。
「無銘だが、拵えのよい古刀を手に入れ申した故、是非、試していただきたい」
と当主の伊右衛門に頼まれたのである。
大番は戦時には旗本部隊の一番先手として、平時には江戸城や要地の警護を担当する。
徳川幕府成立後の慶長十二年(一六〇七年)、大御所(徳川家康)膝下の駿府に三組が編成され、寛永九年(一六三二年)にさらに三組が取り立てられて都合十二組となり、これが定数となった。
各組は大番頭一人、大番組頭四人、大番士五十人、与力十人、同心二十人で編成された。
万治元年(一六五八年)以降、幕府は大番衆八十名に市谷の屋敷を与えた。
享保八年(一七二三年)の制では、大番頭は役高五千石、大番組頭は六百石、大番士は二百石、与力は現米八十石、同心は三十俵二人扶持であり、役料は支給されず、在番中はそれぞれの役高の一倍の合力米が給された。
大番士は「両番」と称する小姓組、書院番に比べ家格は一段低く、出世の途は限られていた。
伊右衛門は四十がらみの醜男で、痘痕面は血の気がなく、鉛色に沈んでいた。
屋敷の中庭には土を盛った土壇の上に裸の男女が重ねられていた。
「この者たちは?」
主水が問うと、
「不義者にござる」
伊右衛門は多くを語らなかった。
通常、試し斬りは死罪を申し付けられた罪人を使う。
生きたままの死罪人を斬ることを「生き試し」と言い、罪人の死骸を土壇に重ねて胴を斬り落とすこともあるが、江戸初期は処刑と刀剣の試し斬りが不可分であり、生き試しが広く行なわれていた。
江戸初期の判例集『御仕置裁許帳』によれば、寛文六年(一六六六年)七月二六日、庄左衛門という町屋の奉公人が博打を打った罪で森川小左衛門方に身柄を渡され死罪。
その五日後には吉兵衛という奉公人が博打の罪で朽木弥五右衛門方に渡され死罪とある。この場合の「死罪」は斬首刑ではなく、刀の切れ味を試すために生きたままの罪人を斬殺したものであろう。
試し斬りの名人としては中川重良や山野永久らが挙げられ、中川左平太に師事して試刀の腕を磨いた山野加右衛門は寛文七年(一六六七年)に没するまでの七十年の生涯に六千人余の罪人を斬り、亡者の供養のため永久寺を建立した。
また加右衛門の息子・勘十郎の弟子で幕臣の鵜飼十郎右衛門は元禄五年(一六九二年)から御様御用を拝命し、九年間に一五〇五人の罪人を斬った。元禄十三年(一七〇〇年)に病気で御様御用を辞退すると小石川伝通院の清浄心院の境内に慰霊碑を建立した。
死罪人を試し斬りするため武家が幕府や藩から貰い受け、生き試しにする風習は江戸では宝永年間(西暦一七〇四~一七一一年)の頃まで続き、諸藩では十八世紀の後半ごろまで続いた。
『盛衰記』によれば、「恵公御代より一同に相止申候に付、恵公以後不被遊候」とあり、高松藩では三代藩主・松平頼豊以前は幕府から死罪人を貰い受けて藩主自らが生き試しにする慣わしがあったが、宝永以降は幕府がそのような慣習を廃止したため、高松藩に限らずどの藩でも行なわれなくなったという。
(それにしても、妙な……)
試し斬り稼業で女の罪人を斬ることは珍しい。
女体は男より脂肪が多く、試し斬りに適さないためだが、土壇に据えられた女は見たところ十五、六の少女である。
女の上に寝かされた男は女の兄のようにも見えた。
主水は諸肌を脱ぎ、ずしりと重い古刀を手に取った。
刀身は切り柄に鉄の輪と目釘で留めてある。
土壇に歩み寄り、据物を確かめるふりをして、そっと男に訊ねた。
「妹か?」
死人のようにうなだれていた男が驚いて顔を上げた。
「お武家さま。お願いがござりまする」
男が必死の形相で訴えた。
「初は……妹に罪はありませぬ。斬るのは私だけにしてください」
「仔細は知らぬが、罪なき者は斬らぬ」
主水が静かに言うと、男の顔に安堵の色が浮かんだ。
主水の眼は兄の下敷きになった妹の白い肌にいくつもの痣を認めた。
「初、よかったな。俺の分まで生きてくれよ」
嗜虐的な主人に折檻される奉公人の妹を救うため、命を賭した兄の願いを聞き届けた主水は、青く光る抜き身を大上段に構えた。
兄だけを斬り、妹は助けてやることもできたが、いずれ永くはない命。
心を鬼にして、主水は刃を土まで打ち込んだ。
「田宮殿。お見事でござった」
主人の伊右衛門が満足げに言うと、主水は血刀を庭石に叩きつけ、ふたつに打ち折ってしまった。
「田宮殿。何をされる」
伊右衛門の表情が凍り付いた。
「不義者を成敗した不浄の刀にござる。直参旗本が持つべき刀ではござらぬ」
主水は冷然と言い捨て、伊右衛門が何か言おうとするのを振り向きもせず、神谷邸を辞した。
寛文年間(西暦一六六一~一六七三年)のことである。
浪人・田宮主水は試刀を生業にしていた。
刀剣の切れ味を試すために人を斬るのである。
この日、主水は盗賊改・水野小左衛門守正の役宅に招かれていた。
明暦の大火(一六五七年)以後、江戸の町には盗賊や放火魔が横行し、幕府は治安回復のため特別警察の設置を決め、寛文五年(一六六五年)に「盗賊改」を設けた。
江戸の市政を担当する町奉行が役方(文官)であるのに対し、盗賊改は番方(武官)であり、武装した凶悪犯罪者に対抗するため、ある程度の独断専行が認められていた。
天和三年(一六八三年)には「火付改」が設けられ、「火付盗賊改方」と改称されたが、容疑者への苛烈な拷問による冤罪などの弊害も多く、一時廃止された後、享保三年(一七一八年)に復活している。
「この頃は盗賊や火付けばかりでなく、小さな盗みを繰り返す盗人も増えておる。公儀では盗賊は捕えずともよし、その場で成敗しても苦しからず、との御達しじゃ」
小左衛門は初代盗賊改方頭であり、父親の守重は戦国武将・水野忠守の次男である。
盗賊改方に正式な役所はなく、任命された先手頭などの役宅を臨時の役所として使用した。
役宅には牢屋もあり、罪人が鮨詰めになっていた。
「早う仕置を済ませぬと牢が罪人であふれてしまうでの。新刀の試し斬りを兼ねて死罪人を斬っていただけぬか」
刀剣は慶長年間(西暦一五九六~一六一五年)以降の作刀を「新刀」、それ以前の刀を「古刀」と区別する。
違いは地鉄にあり、慶長以前は各地で鋼を生産していたため地方色が強く、天下が安定した慶長以降は全国に均質な鋼が流通するようになり、地鉄の格差が少なくなった。
新刀の地鉄は洗練されており、その開祖は山城国(現在の京都府南部)の刀工・埋忠明寿(一五五八~一六三一)と言われている。
役宅の牢から引き出された囚人が、小者たちに両腕を掴まれ刑場に引き据えられた。
囚人は下帯ひとつで、手拭で目隠しをされている。
主水が新刀を手に諸肌脱ぎとなって囚人に歩み寄る。
「おらあ、まだ死にたくねえ。い、命だけは助けてくんろ」
まだ若い囚人は死の恐怖に怯え、両脚で土を掻くように暴れた。
「下郎。覚悟じゃ」
主水は抜き打ちに斬り付けた。
「抜き打ち袈裟」と呼ばれる斬り方で、そのまま斬りつける他、刀を返してから斬りつける方法もある。
「大袈裟」は右肩から左臀部へ一直線に斬り下げ、「袈裟」「中袈裟」は右肩から左脇下まで斬り下げる。
「吊し胴」は両手を頭上で縛って吊るし、脇腹を横に一直線に斬り放つ。
「放し斬」は両手を後頭部で縛り目隠しをした罪人を歩かせ、背後から胴を横一文字に斬り離す。
怪鳥のような悲鳴が空気を切り裂き、赤黒い血潮が宙に舞った。
囚人の上半身は右肩から左脇下まで両断され、分身がドサリと地に落ちた。
骸は小者たちが刑場の隅に寄せておく。後で胴体を土壇に据え、様々な角度から斬り込むのである。
続いて囚人が引き据えられた。
ザンバラ髪の囚人が両腕を頭の後ろで縛られている。
「払い胴」と言い、三の胴(乳と心窩部の中間)を真横に斬って落とす。
囚人の足を少し開かせ、腰を反らせるようにするとグラつかずに斬りやすい。
「まだ、間があるぞ」
主水は囚人を落ち着かせるように言って、目にも留まらぬ早業で見事に胴を落とした。
空間に一瞬、浮かんだように見えた囚人の胴体が上下別々に落ちた。
「歩き袈裟」と言い、囚人を歩かせておいて、袈裟斬りにすることもある。
この場合、囚人の腰を縄で強く縛ると、足取りが安定するという。
次の囚人は「縦割り」である。
しゃがませた囚人を小者が両脇から押さえ、背骨に沿って縦に斬り落とす。
刀身が重くないと斬れないため、鉛の鍔を柄に嵌め込む。
白い一閃が稲妻のように走り、囚人の胴は左右に分断された。
すでに日が暮れかけていた。
主水は囚人の死骸を土壇に据え、背を割り、下肢を断ち切り、筋違いのように腕や脚を斬った。
首も落とし、土壇に打ち込んだ竹に挟み、面割り、眉間割り、鉢巻きと縦横に斬った。
余すところなく囚人の躰を切り刻み、返り血を浴びて夕焼けのように紅く染まった主水は、石井戸の水で身を清めた。
小者たちは無表情で刑場に散った囚人の骸を取り片付け、無造作に肉片を空俵に放り込んでいた。
小左衛門の役宅を辞去しようとすると、小者たちが集まって鍋で何かを煮ているのが見えた。
「犬の肉か」
主水が訊ねると小者の一人が下卑た笑いを浮かべ、
「旦那が斬ったやつでさ」
欠けた茶碗に異様な臭気を放つ汁を盛り、
「旦那も一杯いかがです」
と勧めた。
「うまいのか」
小者は黒い前歯をむき出してヘッヘッと笑い、
「渋くって、とてもじゃねえが、喰えたもんじゃねえでさ」
「なぜ、喰うのだ」
「お屋敷じゃあ、ろくなもん喰わしてくんねえからね。この頃は野良犬どもが科人の肉を喰いすぎて、人様の味を覚えちまいやがった。こう物の値が上がっちゃあ、人の肉より犬の肉の方が高えくれえだよ」
役宅の待遇に不満を言いつつ、小者たちは機械的に手を動かし、囚人の肉汁をすすり込んでいる。
「人の肉を喰った犬の肉はうめえだべや」
「じゃあ、今度は犬鍋だな」
小者たちの屈託のない会話を背に主水は役宅の門を潜り、夕闇迫る通りに出た。
空は血糊を刷毛で掃いたような残照が広がっていた。
躰に染みついた血の匂いは容易に消えそうになかった。
寛文年間(西暦一六六一~一六七三年)のことである。
浪人・田宮主水は試刀を生業にしていた。
刀剣の切れ味を試すために人を斬るのである。
その日、主水は市谷・左内坂町に屋敷を構える二百石の旗本・神谷伊右衛門の邸にいた。
中庭の松の木の枝に若い女が吊るされている。
女はひどく折檻されたらしく、白い柔肌は無数の傷で無残にも膨れ上がり、赤い腰巻ひとつの裸体は力なく揺れていた。
女の黒髪は乱れて若布のように腰のあたりまで垂れ、肩にがっくりと沈み込んだ顔の表情は汲み取れない。
「田宮殿。生き吊り胴を所望したい」
と伊右衛門が言った。
「釣り胴」とも言い、生きたままの罪人を木から吊るし、その胴を斬り落とす。
胴を断たれた罪人は重みで上体が反転し、そこを狙って首を払う。
罪人の体が揺れないよう、腰に石を縛りつけて安定させることもあった。
「いかなる科で、この者を斬れと申されるか」
主水が問うと、
「慮外者ゆえ、吊し胴を申し付けた由」
伊右衛門は傲然と答えた。
「田宮殿。貴殿の刀で斬っていただきたい」
そう言って伊右衛門は、
「まさか、貴殿の刀は折れまい」
渋紙のような醜い痘痕の顔に冷笑を浮かべた。
主水は針のように細い目を縛られた女に向けた。
この女も奉公人で、主水に斬られた兄妹と同じような身の上だろう。
主水は女の下腹がわずかに膨らんでいるのを見逃さなかった。
「田宮殿。胴斬りを所望いたす」
と伊右衛門が念を押した。
主水は答えず、腰に帯びた同田貫を抜き払った。
同田貫は永禄年間(西暦一五五八~一五七〇年)、肥後国(現在の熊本県)菊池の同田貫で栄えた肥後刀工の一群を指し、銘を九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫などと切り、また個銘(刀工の名前)もある。
装飾をまったくと言っていいほど加えず、簡素な拵えが特徴で、美術品としての鑑賞価値は低いが、いわゆる「剛刀」と呼ばれ切れ味の鋭さに定評がある。
明治十九年(一八八六年)十一月十日、明治天皇の御前で、榊原鍵吉(直心影流の剣士)が同田貫で鉢試しをし、十二間筋の兜に切り口三寸五分、深さ五分の斬り込みを入れた。
この「天覧兜割り」は、榊原の剣豪としての名声を高めるとともに、同田貫の強度を物語る逸話として伝えられている。
主水の同田貫は身巾尋常ながらも重ね厚く、刃肉豊かにつき、切先伸び、反り浅く、長寸。鍛えは板目肌流れ、白ける。直刃、小乱刃を焼く。銘は「肥後州同田抜」と刻まれてあった。
女は両腕を縛られて松の枝に吊るされ、風にそよぐ柳の葉のように揺れ動いていた。
間合いを詰め、主水は女の胴を薙ぎ払った。
下半身を断たれた女がくるりと反転するところ、主水は女の首を打たず、両手の戒めを解いていた。
ドサリと地に落ちた女が血溜りに浮かぶ胎児を認めた。
女の細い指がヒクヒクと痙攣する嬰児に触れた。
「あ、あたいの……あたいの子だ……」
低く、噎ぶような女の声がかすかに聞こえた。
「あたいの子なんだ……」
女の目に熱いものが吹きこぼれてきた。
やがて、嬰児はか細い動きを止め、女は目を見開いたまま息絶えた。
「田宮殿。何故、首を打たれなかったのじゃ」
伊右衛門が不満げに主水を詰った。
「神谷殿。女は懐妊してござった」
主水は、ほとんど閉じられたかのような細い両目に青白い殺気をたたえ、
「貴殿の子ではござらぬか」
と問うた。
伊右衛門の狼狽ぶりは激しかった。
「な、何を申される。直参のそれがしが、下賤な女などと……」
「我が子は斬れぬ、と申されるか」
「き、貴様。浪人の分際で無礼な……」
「それがしを斬られるか」
「…………」
伊右衛門の醜悪な面貌が空間に凍り付いたようになった。
主水は女の骸に歩み寄り、目蓋をそっと指で閉じてやってから、神谷邸を辞去した。
神谷伊右衛門が公儀の怒りを買い、切腹を申し付けられたのはその数日後である。
家禄は没収され、市谷の屋敷は取り壊された。
主水に斬られた女が、どこの何者かは知る由もない。
※参考文献
『明暦の大火』(黒木喬、講談社)
『大江戸残酷物語』(氏家幹人、洋泉社)
『大江戸死体考―人斬り浅右衛門の時代』(氏家幹人、平凡社)
『江戸時代の罪と罰』(氏家幹人、草思社)
江戸時代、日本は鎖国し、300年近くも平和でした。
反面、厳しい身分制度に縛られ、貧富の格差は大きく、軽微な罪でも過酷な刑罰が科されました。
殺伐とした戦国時代の遺風が根強く残る江戸初期、戦争をすることのなくなった武士は腕試しや刀の切れ味を試すために些細な理由で家来や百姓・町人を切り捨て、人命軽視の風潮が色濃く残っていたのです。
『水戸黄門』で有名な徳川光圀も若い頃、罪のない乞食を斬り殺しています。
光圀は悪友にそそのかされ、やむにやまれず非人を斬ったのですが、これを深く恥じた光圀は悪友と絶交し、以後、試し斬りをしなくなったと云われます。
現代では「残虐」そのものの行為であっても、当時の武士にとって目下の人間を殺すことはゴキブリを殺すくらいの感覚だったのでしょう。
しかし、時代が下るにつれ、平和な時代が長く続くと、武士階級の間にも残忍な試し斬りを嫌う風潮が生まれます。
試し斬りを「不仁(残酷)」と忌み嫌い、「罪人を斬っても手柄にならぬ」などと言い訳して斬りたがらない武士が増えたのです。
江戸初期の寛文年間(1661~1673年)、江戸の武家は些細な理由で奉公人を手討ちにしていましたが、ずっと時代が下って八代将軍・徳川吉宗の治世、享保年間(1716~1736年)になると、もはや「お手討ち」などというものはほとんどみられなくなった、と古老が語っています。
「武士が優しくなったのか、罪を犯す者が少なくなったのか、理由はわからないが…」と古老は語っていますが、生きた人間を刀で真っ二つに両断する「生き試し」の現場は相当グロい凄惨な光景だったことは想像に難くありません。
人を殺すことへの恐怖をはねのけて、あえて無抵抗の人間を斬り殺すことで勇気と胆力を養い、何があっても動じない強靭な精神力と不屈の闘争心を培うことが武士の「試し斬り」の動機だったのかもしれません。
とすれば、泰平の世、もはや戦争をすることもなくなった武士たちが「試し斬り」をしなくなったのは、ある意味、自然なことだったのかもしれません。
私の先祖は武士でしたが、今の時代に生まれてよかった、とつくづく思う土屋なのでした(;^_^A
土屋正裕の小説
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