はじまり
時々、知らない風景が頭に浮かぶ。
少しすれば忘れてしまう程度のもので、こうして月に何回か再び頭に浮かぶたび、そういえば前もこんなことがあったな、と思い出すのだ。
これは一体何なのだろう。
わからないけれど、私はどこか、懐かしさを感じていた。
もしかしたら、私の故郷なのだろうか。
私は幼い頃の記憶が全くと言っていいほど無い。
引っ越してきたといった話は家族から一度たりとも聞いたことはないが、だいぶ前(私が幼い頃)に故郷を離れたということなら納得がいく。
いつもはすぐ忘れてしまうのに、はっきりとそう、とは言えないが、今日だけは暫くその風景に懐かしさと、なぜか心が安心するような温かさを感じていた。
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数学の授業中。低い先生の声と紙の音が教室を包む。
私は目の前で黒板が白で埋め尽くされていくのを、ただぼうっと見つめていた。
そのとき、背中を鋭利なもので刺されたような気がした。
振り向くと、そこにいたずらをする子供の顔をした友人と、私の背中を刺したであろう水色のシャーペンが目に映った。
そして彼女は私が何かを言う前に、右手をこちらに突き出してきたのだ。
なんだろう、と思って握られた指の先を見てみると、ノートをちぎって小さくなったような紙があることに気づく。彼女はそれを受け取れと言わんばかりにぐいぐいと右手を突き出してきた。
「なに、宰?」
「いいからこれ読んでよ。」
いつもより一際小さな声で、早口に彼女は言い放った。
私は受け取り、しぶしぶと折りたたまれた紙を広げ、彼女の筆跡で書かれた文字を読んだ。
・・・内容は、本当にくだらないものだった。
私は数秒をこのふざけたことに、こんなことに奪われてしまったのか、と深く呆れるほど、そこには阿呆らしいという感想しか生まれなかった。彼女はというと、なぜか得意げな表情でこちらの様子を見ているのである。
「もう、ちゃんと授業聞きなよ。」
「あらあら、ましろちゃんは真面目でちゅね」
本当にこいつは、とため息をついたその時。案の定、黒板の前に突っ立っている先生が怒号をあげた。もちろんこいつだけでなく私も含めてである。
「「はあい」」
私は呆れながらも事が荒立たないよう大人しく返事をするのだが、宰はというとにこにこと楽しそうに返事をした。反省も何も無い。
彼女を見ていると、毎度のごとく本当に同い年なのだろうか、という考えが浮かんでは消える。小学生の頃から一緒にいたと言っても、こうまで性格が変わらないのは驚きである。
私は先生の叱責を受け、すぐに何事もなかったかのように前を向き、ノートを取る。そして、もう何かちょっかいをかけられても後ろを振り向くものか、と静かに決意した。
放課後。
人の少ない帰り道。ほとんどの生徒は部活動に属しているので、あまりこの時間帯には人がいない。いるのは、私のような無部か、夕方の犬の散歩をしている人(と犬)くらいである。
学校から家に続く道路までの坂を下る途中、後ろから急いで走ってくるような足音が聞こえてきた。
それは間違いなく私の方に向かってきており、そしてそのような奴は一人ぐらいしかいない。
「まっしろちゃーん」
憎っくき宰である。そして彼女は私の名前を声高々に呼び、走ってきた勢いで私の右肩を叩いた。
「宰?あなた、部活あるでしょ?」
そう、こんなんでも宰は私とは違って陸上部という立派な部活に入っているので、忙しいはずだ。彼女だとはいえ、自分の部活動のことを忘れているわけではないだろう。今日は別の用事でもあるのだろうか?
「ん――――?部活、ねぇ、」
しかし、宰は何か深く考えるようにして空を見上げた。
私がさらに不思議そうに彼女を見ていると、ふいにこちらを向きいつもの調子で、休む、と一言だけ言った。
「はぁあああああ?」
「いいじゃーん、今日はましろちゃんと帰るのよ――。」
さあさあ、と私の背中をぐいぐいと帰り道に向かわせる宰。どこか納得いかないが、彼女自身がいいならいいのか?と戸惑いつつも大人しく帰り道に向かう。
✱
夏の終盤。もうすぐで8月が終わる頃。
あつかった日々が、冷たい風で冷やされていく。
「ましろちゃん、私こっちだから」
「・・・あ、うん」
ぼうっとしていたら、あっという間に分かれ道に着いていたようだ。私は、なにがしたかったのか分からないままの宰と別れ、ひとり帰り道の続きを辿る。
ふと、空を見る。あの時、宰は空を見て何を考えていたのだろうかと思う。
しかし、空には延々と濁った雲が続き、今にも雨が降り出しそうな様子だった。こんな空を見ても、雨が降りそうだな、という考えしか出ないだろうなと私は苦笑し、そしてなぜかどっと疲れたような気持ちになった。
きっと、宰が原因である。
じゃないと、いつもは疲れないはずのことに、説明がつかないのである。そうだ、これは宰のせいなのだ。
まあ、そう結論づけたところで、私の心に残るのは苛立ちではなくどこまでも呆れである。
「はあ、あいつも、ちょっとでも真面目になってくれればなあ・・・」
誰も居ない道端でごちる。しかし、本人にこれを言っても変わらないだろうなぁ、と無念に思っていたその時。
アオーン
どこからか、遠吠えが聞こえてきた。ほんの数秒のそれは、私の鼓膜にいくつもの波を伴って響いた。
私は一瞬、何が起こったのかわからず、無意識に聞こえてきた方向を見ていた。
そこは少し離れたところにある、木が生い茂った小山だった。
だいぶ暗いので何かがいるかはわからないが、先程の咆哮で木々がざわざわと揺れているようだった。
「・・・え、なに・・・・・・?」
なにかが起こる予感。きっとそれは悪いという方の。
ぐわんぐわんと頭が揺れるようだった。このとき、自分が思っている以上に私は激しく混乱していたのだ。
そして、私は段々と意識が遠のいていった。