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「……ごめんなさい。貴方の許可を取らずに、吸血鬼にしてしまったわ」
血に酔っていたのかもしれない。
確かに差し迫った事態ではあったけど、無理やり吸血鬼にしてしまうなんて、恨まれてもおかしくない。
彼の目は私と同じ赤色になっていて、鏡を見て驚いていた。
こんな風に変えてしまったのに、以前の彼の瞳の色を全く覚えていない。彼はほとんど臥せっていたから、本来の瞳を見たのは彼が初めて目覚めたあの日だけだ。
あんなに近くに顔があったはずなのに、覚えてないなんて。そう思ってから、自分の行動を思い出してカッと顔が熱くなる。
今となっては、どうしてあんなことをできたのかわからない。
「問題ありません。命を拾っただけでも、俺は運が良かった」
さして大したことでもなさそうに、彼は胸を張った。
もう痛みはどこにもない様子で元気そうに見えて、そのことだけは安心できた。
「貴方、家族はいるの?」
「いません。俺と父の二人暮らしでした。……いたとしても、この姿ではもう村にも戻れません」
「……その通りね」
この近くにある街はさほど大きくない。子供の目の色が突然変わるなんてことが起きたら、すぐに気づくだろう。
それに、人間にとって吸血鬼はモンスターだ。吸血鬼になってしまったこの子には、この国は生きにくい。
「貴方が暮らしやすい場所に着くまで、一緒に行きましょう」
「……良いんですか?」
「私は元々旅をしているし、貴方が一人増えるくらいは大丈夫」
宝石を売ったお金もあるし、節約すれば子供一人分くらいはなんとかなる。私は彼の人生を捻じ曲げてしまった責任を背負わなければいけない。
「申し訳ないけど、人間の多いこの国には、貴方はもういられない。生まれ育った故郷を離れることになるわ」
「構いません。家族のいないこの街に、未練はないです」
彼の印象は、死の淵に立っていたときとは少し異なった。
理不尽を飲む込んだ上で、私に礼儀正しく接しているように見える。母を亡くして父と二人で暮らしていたという境遇が、彼が大人びた原因なのかもしれないと、そう思った。
「私はカミラよ。貴方は?」
「ヴァンと言います。……ええと、カミラさん、で良いですか」
「最初に話していたみたいに、畏まらなくていいわ。名前も、気楽に呼んで」
私がそう言うと、ヴァンはあの夜を思い出したのか、少し顔を赤くした。あの時は、今より子供っぽい顔を見せていたように感じる。もうすぐ死ぬと思っていたからなのだろう。
「わかった、カミラ」
「ええ、それでいいわ」
そうして、私たちの旅は始まった。
ヴァンに与えた血は、まだ彼を完全な吸血鬼にはしていないようだった。完全に吸血鬼にするにはもうしばらく血を与えなければいけないと、本能的にわかっていた。
なら、人間に戻ることも可能だろうか。もしそうなら彼を人の世に戻してやれるかもしれない。
そう期待していたのに、私の血が薄まると、彼の身体は病で苦しんでいたあの日に戻ってしまう。
「ハァ……ハァ……」
「どうして病気が再発してしまうの……これさえなければ、人間に戻れるかもしれないのに……」
苦しそうなヴァンの背中を擦る。
苦労して手に入れた薬を飲ませてみたりもした。だけど、何故だか効果が出ない。私の血が薄まるに従って、病気が悪化していく。血のような色をした瞳も相変わらずで、根本的に人間の身体ではなくなっているとしか思えない。
「別に、俺は……吸血鬼になったって……構わない……」
「……貴方は私のように真祖じゃないから、生きるために人間の血が必要になってしまうわよ」
「代わりに、カミラから血を貰えばいいんだろ?」
「そうね……」
吸血鬼について家の古書に書かれていたのは、少しの特徴と、滅びた種族だということだ。
吸血鬼という種族は真祖と眷属と呼ばれる二種に分かれる。
真祖は光で灰になる性質を持ち、暗闇でしか生きられない。真祖の代わりに光の下でも活動できる手足として生まれたのが眷属だ。吸血鬼の真祖は、自らの血を分け与え、眷属を増やすことができる。
真祖は人の血を必要としないが、普通の吸血鬼は生きるために人の血が必要だと書かれていた。
ただ、人の血が無くても生きる方法が、もう一つだけ残っていた。
それは、私の血を彼に与えること。
……そう本で読んだときには、本当にできるとは思ってなかったけれど。
眷属ではない私は、どうやって吸血鬼になったんだろう。そんな疑問は、ゴホゴホと咳き込み始めたヴァンを前にして、どこかへ霧散していった。
「迷惑をかけて、ごめん。血も、カミラが嫌ならいらない」
「そんなの、全然構わない。構わないけど……」
ヴァンは人の血を飲まないと言っていた。
それは、私が彼の生死を握るということだ。
*
ヴァンを拾ったのは齢が十を数える頃だったが、それからもう何年も過ぎていた。
ヴァンは何年もかけて、徐々に本物の吸血鬼に近づいていった。
彼が人間に戻れることを期待した私は、最低限しか血を与えなかったけれど、変化は確実に起こっていた。赤くなった目はそのままに、耳が尖り、犬歯が鋭くなっていく。
今は確か、十五歳だったはず。
成人すればもう二度と老いることはなくなるが、ヴァンはまだ身長が伸び続けていた。吸血鬼として完全に成人してはいないけれど、それも時間の問題だった。もう後戻りできないところまで、ヴァンは吸血鬼化していた。
人の国では未だに人外の種族への偏見も根強く残っている。その上、人狼や吸血鬼のような存在はモンスターに数えられていた。私たちの正体が知られてしまえばどうなるか、想像に難くない。
救いだったのは、吸血鬼は一般に知られていない滅びた種族であり、人は吸血鬼の特徴を知らなかったことだ。時折出会った人にも、鋭い牙は獣人の血で、尖った耳はエルフの血と言えば納得はしてくれる。ただ、そんな目立つ容姿のものが夜にこそこそと出歩いていれば、怪しまれることもしばしばある。
もっと自然に紛れるには、人ならざる者が住まう国へ行く必要があった。
人伝に聞いた話では、様々な種族の血を受け継ぐ人々が暮らしている、多種族国家があるらしい。人間に友好的とされるエルフやドワーフだけではない、姿形が人とは全く異なる者さえ受け入れる国。
私たちは旅の途中で、その国へ訪れた。
噂の通り、街には様々な種族の者が暮らしていた。全身が毛に覆われた者、身体に鱗が生えている物、手の平ほどの大きさの小人が住むための、小さな家もあった。とても、不思議な国。
念の為、赤い瞳だけは幻覚で隠してはいるものの、エルフに牙があるように見えても、誰も気に留めない様子だった。この国ではハーフも多く、特異な姿形をしている者に対して寛容だった。
移住もさほど難しくなく、簡単な審査の際には、自分たちの種族をエルフと獣人のハーフと申告していた。
私たちはようやく一つの住処を得て、細々と暮らし始めていた。
「新しい仕事が見つかったわ。前より少し稼ぎが良いの。今夜からよ」
私が笑顔で報告しても、彼の眉は不機嫌そうに潜められていた。私は少し苦笑しながら、椅子に座る彼の前へ温かいお茶を置いた。
不機嫌な表情の理由が、心配から来ていることには気づいていた。
「俺はカミラと違って、日差しを浴びても問題ない。俺のほうが安全に働けるのに」
「それだと、貴方が学校に行けないでしょ? せっかくチャンスがあるのに、勿体ないわ」
今暮らしているこの国なら、望めば誰でも教育が受けられる。せっかくチャンスがあるのだからと、嫌がる彼に無理を言って学校に通ってもらっていた。
周りより遅れての入学ではあったものの、元より優秀だったのか周囲に付いていくことができている。だからこそ、彼にもっと学んで欲しいという思いが私にはあった。
「カミラも学校に行ってないんだろう?」
ヴァンの顔には、なぜ俺だけが、といった感情がありありと浮かんでいた。
「私の住んでいた屋敷にはたくさんの本があったから、ヴァンと違って、成人まで学ぶ時間はたくさんあった。でも、貴方は違う」
ヴァンは故郷を出てからというもの、ずっと旅をしていた。私が教える知識には偏りがあるし、魔術は完全に独学のため、教育者のように体系的には教えられない。
私が教えるだけでは心配だったのもあるけど、それ以上に、今後この国で暮らしていく上で、学校へ行くことは重要だと考えていた。
人の国では誰もが学校に通えるわけではないが、この国は違う。異なる種族同士が手を取り合うには、お互いのことを知る必要がある。だからこそ、多くの者が学び舎へ通っていた。
「この国はよそ者に寛容だけど、だからと言って、私たちとの隔たりが全くないわけじゃない。学校を卒業すれば、この国で育った証明になる。そうしたら、少しはこの国へ馴染むことができるでしょう?」
周りのほとんどが学校に行ったことがある中へ、何も知らないよそ者が入っていくのは難しいことだ。旅をしてきたからこそ、わかっていた。
「……俺のためにそこまでする必要があるのか? 普通に生きていくだけなら、今だってできている。カミラの代わりに俺が外に出ても、同じ水準の暮らしは保てるはずだ」
確かに、私の代わりにヴァンが外で働いても、問題ない程度の暮らしはできる。それでも、余裕がある暮らしとは程遠い。
旅をしているときより全然マシではある。けれど、この国で暮らしている一般的な人々よりは、大分低いものとなってしまう。
私は首を振って、ゆっくりと口を開いた。
「多少魔術が使えようと、この国の人々に信頼されなければ意味がないわ。せっかく才能があっても、重要な仕事を任せてもらえなくなってしまう。生きていくだけの糧は魔術が無くても得られるけれど、私たちが死ぬまでの間、そんな暮らしをずっと続けていくのは心許ないと思うの」
旅暮らしから一転して、今はもう居を構えている。今までのような貧しい暮らしを抜け出すことができるのだ。ヴァンに、いつまでも貧しい暮らしをしてほしくはなかった。
「……そうだな。その通りだと思う。だけど、俺はいつかではなく、今カミラを支えたいんだ。今までは病気で動けなかったけど、今は自由に動けるのに」
「……ヴァンが病気で動けなかったのは、私のせいでしょう?」
ヴァンの表情は、ままならない現実に歯噛みしているように見えた。私の責任だとどれほど伝えても、心優しい彼が割り切るのは難しいようだった。
「結局、貴方を人間に戻してあげることもできなかったし、意味のない苦痛を味わせてしまったわ」
「俺を人間に戻そうとして、何もできない子供をずっと支えてくれていたんだ。……俺はいつになったら貴女の役に立てる?」
縋るような視線の中には、様々な感情が渦巻いているように見えた。
安心させるように、私は笑みを浮かべた。
「きっと、そんなに長い時間ではないわ。私たちが生きる年月と比べれば、学校へ行くのはほんの少しの時間だもの。……もう少し、今を楽しんでみたらどう? そうやって、ヴァンが学んだことや過ごした時間を、私にも教えてくれると嬉しい」
「……わかった」
完全に納得はしていないようだったが、ヴァンは小さく頷いてくれた。
「……だが、夜に出歩くときは必ず声をかけてくれ。帰って来なければ、探しに行くから。夜明けギリギリになっても帰ってこない貴女を待ち続けるのはもう嫌だ」
「心配しないで。ちゃんと、日が昇る前に帰ってくるから」
それでもヴァンの顔は晴れなくて、私は何も言えず苦笑した。彼の心配もわかるけど、仕事をやめるとは言えない以上、私にはどうにもできない。
「旅をしていたときよりも、よほど安全だもの。私も気をつけているし、大丈夫よ。……少し話し込んでしまったわね。もう出ないと間に合わないかも」
昼に学校へ行くヴァンと、夜に出かける私では、生活する時間が異なる。こうしてゆっくりと言葉を交わせるのは、出勤前の貴重な時間となっていた。
私は残ったお茶を飲み干して、立ち上がった。
「貴方も早く飲み終えて、明日に備えて良い子で眠るのよ」
「俺はもう子供じゃない」
ヴァンは否定しながらも、頭を撫でるのを許してくれた。私と同じ色の黒髪は短く整えられていて、少しパサついている。私より少し高い位置にある瞳も、私と同じ赤色。
横に並んだら姉弟に見えるかもしれないなと、ふと思った。
「そうね、どちらかと言うと、姉弟かもしれないわ。色がそっくりだもの」
「姉弟でもないが、この瞳の色は気に入ってる」
思わず、ふふ、と笑みがこぼれる。
暗かった部屋の空気が明るくなるのを感じて、そのことに少しホッとした。
「貴方と私の関係を、はっきりと言い表すのは難しいわね……。ただ、母でも姉でもなくとも、私と貴方は家族よ。少なくとも、私はそう思ってる」
「ああ。俺にとっても、貴女は大切な人だ」
私を見つめる眼差しは、温かい。
ヴァンは、私にとって唯一の家族だと思える。私の父は父とも呼べないような関係だった。成人までは一人ぼっちで過ごして、その後はずっと、誰かと深く関わることもなく、旅をしてきた。その中で、ヴァンは唯一、私にとって心を許せる相手だった。
閉まっていく扉の向こうで、真紅の目が最後まで私を見送っていた。
外へ出てしばらく歩いてから、私はようやくため息をついた。家にいるときはできるだけ明るく振る舞ってはいるけれど、心配事は尽きない。
ヴァンはいつも私を守ろうとしてばかりで、自分のために生きようとはしてないように思う。
ヴァンを吸血鬼にしてしまった影響で、彼は人間の血か、私の血を飲まなければ生きてはいけない。ヴァンは人間の血を飲まないと言った。このままではずっと、彼を私の手元に置く必要がある。
それは、彼の未来を縛ってしまうということに他ならない。
ヴァンは気づいていないかもしれないけれど、私の代わりに働くというのは、ほんの一ヶ月や一年で終わるようなものではない。
吸血鬼の明確な寿命はわからないけれど、老いないという性質上、人間よりよほど長く生きるに違いない。一体どれほどの年月を彼から奪うことになるのか、見当もつかなかった。
彼の人生を変えてしまった上に、彼の未来を縛り続けたくはなかった。命を救ったことも、私の血で生かし続けていることも、恩を感じてもらう必要なんて、これっぽっちもない。
だからこそ、私は彼に学校に行って欲しいと思っていた。
ヴァンに、たくさんの生き方を知って欲しい。私と旅をしていたときは、これからの人生に様々な可能性あるなんて、考える余裕もなかっただろう。けれど、この国でなら、新たな可能性を模索することができる。
彼を自由にしてやれたら……。
そう考えながら、月がぼんやりと照らす夜道を、ただ歩き続けた。