2 彼女の口づけは血の味がした
私は当てもなく放浪していた。
吸血鬼という種族がどう影響するかわからなくて、私は自分に幻覚を被せて、容姿を変えていた。
瞳は地味な色合いに、牙と耳は短く。
人の姿になれても、私が街で普通の仕事をすることは不可能だった。若い女が一人、人が寝静まる深夜にできる仕事はない。……正確には一つだけあったけれど、私を値踏みする視線が気持ち悪くて、途中で逃げ出してきた。父のような視線を私へ向ける人間が、まっとうな仕事を紹介してくれるとは思えなかったから。
なんとか私でも出来るのは、獲った獣を持ち込むことくらいだった。
そうは言っても、私が活動する時間に開いている問屋などない。仕方なく、人の気配がする家の扉を叩いては、肉を買ってくれる人を探していた。時間がかかる割に、夕食時をとっくに過ぎた時間に生の肉を買ってくれる人は少ない上に、買い叩かれることも多く、路銀はさほど稼げなかった。
道中で肉を乾燥させることや、人の食べられる草や実を覚えてから少し暮らしはマシになったけれど、吸血鬼の身体が丈夫でなければ、私はとっくに死んでいたかもしれない。
学んでいたのが魔術ばかりだったことを、少し後悔していた。
日々の生活は、正直に言えば苦しい。
それでも、自由にどこへでも行ける。その事実は嬉しかった。
その日は、大きな街を目指して歩いているところだった。
私にとっては見慣れた、夜の闇の世界。普通の人は闇に包まれた森の奥を見据えることはできないけれど、私の目には草木の隙間を這う虫さえはっきりと見える。
もうすぐ街へつくだろうか。そう考えていると、道の先に地べたに転がっている小さな身体を見つけた。思わずその場で立ち止まって、目を凝らす。死体かと思ったが、胸がかすかに上下している。
「まだ、生きてる……?」
傍目にも具合が悪いことがわかって、急いで近寄った。私の目の前で、うつ伏せに横たわった少年が、ぜいぜいと息を乱している。
少年のそばに跪いて、指先で首筋に触れた。とても熱くて、何かの病気に蝕まれている様子だった。そして、すでに随分と悪化している。
「……可哀想に。もう助からないと思われたのね……」
薄情な。そう思うものの、見捨てた者を責めることはできなかった。
こんな風に捨て置くのだから、何かの伝染病なのかもしれない。死にかけの子供を助けて病気が流行るより良いと判断したのだろう。
「……私には、人の病気は伝染らないから」
うつ伏せだった身体を、仰向けに動かす。私と同じ、黒い髪の少年だった。見た目からすると、十歳前後だろうか。
両手で抱えあげると、少年は苦しげに呻く。しばらく物を食べられなかったのか、ひどく軽い。
「どこか、休めるところへ……」
少年と一緒では街へ入ることはできないだろう。なら、どこへ行けばいい?
「森へ行きましょう。人が休める小屋が、あるかもしれないわ。……だから、もう少し頑張って」
私は道をそれて、木々が生い茂る森へ入った。
意識を集中させて目を瞑ると、森に潜む小さな生き物たちの視界が頭に飛び込んでくる。吸血鬼にとって、蝙蝠や鼠など夜に生きる小さな生き物を支配するのは容易なことだ。
運良く、人が休めそうな小屋を見つけた。なるべく少年に負担をかけないようにしながらも、できる限り早足で進んでいく。
辿り着いた小屋に、人が住んでいる形跡はなかった。ずっと昔に、木こりか猟師が使っていたのかもしれない。
木組みだけが残されたベッドの上に自分のローブを敷いて、少年を横たえた。
朝が来るまでに小屋の改装をしないと、窓から入り込んだ日差しを浴びれば、私は灰になってしまう。そう考えて、ひとまず狭い室内を点検した。
「どれだけ放置されていたのかしら。ひどい有様ね。このままじゃ、あの子の身体に良くないわ」
隙間風が入り込み、腐りかけた床板はたわんでいる
た。それらをできる限り魔術で誤魔化していく。改修とも呼べない荒療治だった。
ある程度の環境を整えてからは、少年を見守ることしかできなかった。少年はずっと苦しげで、大したことのできない自分に歯噛みする。
数日の看病の後、少年が死に向かって衰弱していくのがわかった。
ずっと寝込んでいた少年が、ふっと目を覚ました。
神様が最後の時間を与えたのだろう。なぜかそう感じて、とても悲しくなった。
「こ、ここは……?」
ぼんやり開いた目が、辺りを見回しながら、不安げに瞬いた。私を見つけると、驚いたように目が見開かれた。
「森の中にある小屋よ。道の途中で貴方を拾ったから、間借りしてるの」
「どうして、俺を連れてきた……?」
「放っておく気になれなかったから」
「……あんた、死にたいの?」
少年の問いかけに、私はただ首を振って答えた。私は人間の病気で死ぬことはないだなんて、苦しむ少年の前では言えなかった。
「……俺の父さんも、同じ病で死んだんだ。それが俺に移ったから、俺も同じように死ぬ。あんたもそうなるかもな。そんな布かけてたって、意味なんかない」
少年は私の頭を覆うベールを馬鹿にしたように見て、すぐにそっぽを向いた。私には精一杯虚勢を張っているような、そんな風に見えた。
……自分の死が近づいているのを、今も感じているのね。
目頭が熱くなったが、涙を堪えてできる限り平静でいなければいけない。死を前にした彼の前で、私が取り乱すわけにはいかない。
人の死を見たことがないとは言わないけれど、それでも、関わった人間の命が失われてしまうのは胸が痛い。
励ますように手を握ると、少年はまた驚いていた。
「……あのまま、放っておけば良かったのに」
「普通の人間なら、そうしたかもしれない。否定はしないわ。貴方を連れてきたのは、私がしたくてしたことだから、別にいいのよ」
「……あんたは死なないといいな。俺が先に行って、神様に頼んでおく……」
握られた手を見つめて、ポツリとこぼす。自分が死の縁に立っていてさえ、私を案じていた。
「ゴホッ……」
少年が苦しげに顔を歪めた次の瞬間、血の香りが広がった。少年の口から血が滴り落ちて、ベッドに敷かれた私のローブを汚す。
「ごめ……俺のせいで、汚しちゃって……ゴホッ! はぁ、はぁ……」
謝っている間にも、抑えた指の間から血が溢れ出す。私は声を発することもできず、ただ本能的に、その赤を凝視していた。
濃厚な血の匂いが、鼻につく。
肺を満たして、頭がくらくらと揺らぐ。
本能が血を求めている。
“目の前にいるのは弱った獲物だ”
そう頭によぎる。唾を飲み込んだ音が、やけに大きく聞こえた。
“今なら、簡単に襲える”
違う、私は、怪物じゃない。
衝動を追い出したくて、頭を振った。その動きでベールが外れ、パサリと床に落ちる。
天敵に睨まれた小さな動物のように、少年は動きを止めていた。少年の目の中に、真っ赤な瞳をした私がいる。
赤い、赤い血の色。
あれを吸いたい。違う、そんなことしたくない。
そんなこと、してはいけない。
人を避けるように生きてきた私にとって、これは初めての衝動だった。
「違う……駄目よ。私は、殺したくないの……」
うわ言のように、小さく呟く。
あの弱った身体に牙を突き立てたら、きっと一瞬のうちに死んでしまうだろう。
死の恐怖を隠し、私を心配してくれるような子を、そんな風に殺してはいけない。
彼を見つけたとき、光の届かない暗闇で一人地面に横たわっていた姿が、暗い地下で一人ポツンと残された私と被って見えた。
苦しみながらも必死にあがいて生きている彼を見守っていて、何もできない自分が歯がゆかった。
死なないで、生きていて欲しかった。
襲いかかる衝動を抑え込んで、ギリ、と唇を強く噛む。牙が皮膚を突き破って、血が滲む。
ポタリと落ちた血が、少年の手を握ったままの私の手を彩っていた。
そして、自分の血を見て、はたと気づく。
……そうだ、私は彼を仲間にできるんだ。
吸血鬼の真祖は、自らの血を分け与え、眷属を増やす。動物に与えれば使い魔に、人間に与えれば吸血鬼に。彼らは決して裏切ることのない、永遠の臣下となる。
ただ本能が導くまま、唇の傷を牙で広げていた。
「あんた、一体何を……っ……!?」
困惑する少年を抑え込んで、唇を重ねる。温かな口内には彼の血が混ざっていて、初めての人の血の味に身体が自然と熱を帯びていくのを感じた。舌先ですくい取った血を何度も送り込み、逃げ惑う舌先に血を絡めた。
「……っ! ……! ……、……………」
初めは抵抗していたが、それも次第に弱まっていった。少年の喉が血を飲み込むたびに、私の血が彼の体内を巡り始める。徐々に死の気配が遠ざかっていくのがわかって、ようやくお互いの顔が離れる。
……もう大丈夫。
私が確信を持つのと同時に、少年は気絶するように眠りに落ちた。