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我が身かわいく

作者: 千葉真六

 誰しも、とことんまで正直に相手にしているのは、結局のところ自分自身だけで、その他は精々自分の子供ぐらいのものだーー。

 これは厭世哲学者ショーペンハウアーの言であるらしい。しかし、ショーペンハウアーは生涯独身を貫き、自分の子供をもたなかったと聞く。それが事実であれば、自分の子供を正直に相手にすることについては、ショーペンハウアーに実感できたはずもない。それは兎も角、この「正直に相手にする」という言葉は、「慈しむ」とか「可愛がる」とかに読み替えてもよいと思う。

 翻って、これを私自身に当てはめて考えてみると、30歳代前半で長男を儲け、1歳ごろから小学生までは心底かわいいと思った。息子をベビーカーに乗せて自宅の近くを散歩したときなど、同年代の他人ひとの子と比べて我が子の方が絶対かわいいと毎回のように確信した。いざとなったら、自分の生命いのちを投げ出しても一人息子を救いたいとさえ思った。父親としての偽らざる気持ちである。

 ところが、子供が成長するに連れて父子愛は薄くなり、二十歳を過ぎる頃には、子供への愛情がなくなるどころか、目の前から消えてほしい、家から出て行ってほしいと願うようになった。理由はよく分からない。ひとつ屋根の下に住んでいても、父子間の会話はほとんどない。我が子を可愛く思わない私が異常なのか。それとも、父と息子の男同士の関係は普通こんなものなのか。

 その後、私の願いが叶ったのか、一人息子は家を出て自活しているようである。息子の住所も電話番号も知らない。その息子が突然、知らない女性を連れてきて「今月、結婚するから」と言い、数分も居ないうちに帰っていった。私が息子に興味がないのと同様、息子も私に興味がないようだ。いや、結婚相手を親に紹介するだけ、私より息子の方がまともか。

 さて、私が死ぬとき、私は人並みに息子夫婦に看取られるのだろうか。私は別段それを望んでいる訳ではない。決して強がりではない。完全に子離れしている。死別は悲しいことだというが、悲しみの涙を流すのは看取る側だけだろう。看取られる側は、息を引き取れば悲しむことすらできない。

 ある日、自分と息子との関係を考える参考になるかと思って、先考と自分との関係を振り返ってみた。私は20歳代の前半、就職を機に実家から出て遠くに居を構えたので、その後は父親と顔を合わすことが滅多になかった。会ったときも特に話をする訳ではなかった。その父親は80歳代で脳梗塞を患って半身不随になり、最晩年には病床で私の名前を何度も口にして私に会いたがっていたと母親から聞いた。果たして、私も最晩年には息子の名前を呼ぶのだろうか。今の私には、とても考えられないことだ。

 しかしながら、人は生きていくに従って考え方が変わることもある。よしんば今日どこにも希望が見出せないと思っても、明日は希望がひょっこり見つかるかも知れない。短気は損気。ただし、希望をつかむには、それに向けて努力しなければならない。具体的には、先人の著作をたくさん読み、色々な体験を積み重ねた上で、さらに自分の頭で真剣に考えるのである。言い換えれば、ニーチェの言う“超人”に近づく必要があるのだ。(完)

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