「もういいかい」の掛け声に返ってきた不思議な声
鈴木さんには何度も言っているんだ。
もういいかい。いい加減に察してほしい。
早く見つけておくれよ。シゲハルは泣く。
鈴木さんはシゲハルのことを見る。
「元気そうだな」
オールバックの鈴木さんは怖い。ヤクザか。アロハシャツ着てる。サングラスかけてる。金歯が光る。五十歳前後。浅黒い肌。ヤクザか。ため息をつくと煙草臭い。ひきつった口角が痙攣している。やっぱり怖い。取り立てかな。シゲハルは借金なんてしてない。パチンコは好きだけど、何回転までって決めてるんだから。でも肝心の何回転かは覚えてない。幾つだったかな。
「約束通り、はかはねえよ」
眉を寄せて渋い顔をする。怖いって。シゲハルは目を逸らす。だって睨まれるの苦手だし、得意な人っているのか。はかはねえ?何それ。外国人なの鈴木さん。約束をシゲハルは鈴木さんとした記憶がない。新手の詐欺じゃないのこれ。
「海に撒いてやる」
ああ、はか。墓ね。殺されるの。シゲハルはおしっこを漏らしそうになる。膝をもじもじさせると痒い。変な感触がした。紙パンツじゃん。シゲハルは紙パンツはいてるの。大人なのに。詐欺ってより誘拐が濃厚。話が読めない。もう帰ってほしい。
「もういいかい」
シゲハルは無視された。シゲハルのこと見えてる?さっきから何でナイフをちらつかせてるの。鈴木さんに殺されるのかな。ヤクザに刺される人生なんて最悪じゃん。嫌だなあ。もう、嫌だ。
「いいか、二度と同じこと言うんじゃあねえぞ」
ナイフを突き付けられてシゲハルは押し黙る。怖いときは目をつむる。すると眠れる。夢の世界に逃げるが勝ちなのさ。
須藤さんにも何度も言っているんだ。
でも「はいはい」とまともに受け取らない。名札に須藤と書いてあるから呼んでみるけど、素性の知らない白髪の男だ。
「シゲハルさん、ちょっとテストしてみましょうか」
テスト?高校卒業してから何年経ってると思ってる。かなり前のはず。昔すぎて分からん。少なくとも須藤さん、あんたより年配だからね。そんな車とか海老とか、こどもの喜ぶ絵を見せて、真面目な顔して、ひょっとするとなんだ、あんたもヤクザか。そうなんだろ。その手には乗らんぞ。親しくしておいて、金をせびろうってんだな。この性悪め。
「シゲハルさん、ここに何が描いてあったか当ててください」
須藤さんが指をさしている。
四角の中には一ページ前のキャラクターの残像が揺れている。白い。長い。耳。白い。歯。そうそう、簡単だ。
「うさぎ」
「うさぎ、ですか」
窓の外は曇っている。黒い雲が直に雨を降らしそうだ。
目を開けると誰かが見下ろしている。夜の部屋は暗い。常夜灯と、非常灯の緑。隣で咳をするのは新入り。いつも一人だ。可哀想だが話しかけてやれない。どうせ話しても無駄なのだ。シゲハルは目を閉じる。
誰だこいつ。さっきからシゲハルのベッドの傍らで本を読んでいる。細い眉毛に鋭い眼光が、近づくものを威嚇している。
「おう、起きたのか」
なれなれしい。シゲハルは無視する。男はさして気を害した様子もなくシゲハルに水差しを向ける。
「飲まないか」
何で見知らぬ男に水を飲ませてもらわにゃならんのだ。苛立ちがシゲハルをつつく。上体を起こそうとする。この男に一発お見舞いしたかった。偉そうにシゲハルの側で勝手知った様子なのは腹だたしい。
読書の前にはフルーツを食ってやがった。シゲハルが貰ったフルーツを剥いて食った。
ところが鈍痛に苛まれて立てない、どころか手に力が入らない。天井を向いたままシゲハルは固まった。黒目だけを左右に動かす。
まるで自分の体じゃないみたいだ。シゲハルは象に乗られている玉の気分だった。サーカスでやるやつ。カラフルのボールにシゲハルは変わっている。自分の体が言うことをきかないなんて、とんだ道化だ。馬鹿馬鹿しい。
須藤。こいつ須藤と言うのか。廊下に出て挨拶してきた男は白衣を着ていた。背後には白衣を着た集団がいた。シゲハルは彼らが去っていくのを眺めていた。
自販機でコーヒーを買った。取り出すとオレンジジュースだった。壊れているなら直さないと、放っておくとろくなことにならない。ロビーの自販機は押したものと違うものが出てくる。シゲハルは首を傾げながらもオレンジジュースを飲む。
「あ、こぼしてるー」
女の子がシゲハルを見て笑う。あわてて母親がやってきて、ペコペコシゲハルに頭を下げる。シゲハルは何だか楽しくなって笑う。胸が冷たいことも大して気にならない。髪の毛を二つにしばった女の子が手を引かれて背中が小さくなっていく。
「シゲハルさーん、さ、着替えましょうか」
あんまり美人じゃない、でも愛嬌のある看護婦に腕を掴まれてシゲハルは引き摺られるようにロビーから出ていく。女の子からすれば、小さくなっていくのはシゲハルの方だった。
目を開けると誰かが見下ろしている。夜の病室は暗い。
「なあ、いるんだろう」
シゲハルは囁いた。すると耳元で微かな息遣いがした。
「もういいかい」と返ってくる。
「もういいんだよ」
本当にそう思っていた。シゲハルの呟きは湿った空気に流されて消えた。
ヤシの木が膨らんでいる。赤い夕焼けをバックに、緑の葉が翳る。そんなアロハシャツは珍しい。
「ここだよ」
岬からみはるかす海原は凪いでいた。静かだ。振り返ると車椅子がつけた轍がある。
「いいのか」
「もういいんだよ」
シゲハルは言った。それが自分の口から出た言葉とは思えなかった。水平線に沈む夕陽を拝みに来るつもりが、太陽は高かった。鈴木さんのアロハのような景色がシゲハルの望みだった。
「あんまり先生にもういいって言うなよ」
「せ、先生?」
「須藤先生だよ」
そんなこと言ったかな。シゲハルは顔をしかめる。頭が痛い。ときどきズキズキする。鼻も痛い。スースーする。腕は傷だらけ。シゲハルはボロボロだった。
「いなくなるなよ」
「何が?」
「諦めたと思われるだろ、折角まだ」
そこで言葉を切って鈴木さんは目を伏せた。太陽が眩しい。シゲハルも目を伏せる。
「まだ?」
「とにかく、もういいことなんてないんだ」
「ふうん」
シゲハルは眠かった。ちょっと話すと疲れる。鈴木さんは怖いけどいいやつかも知れない。眩しくて涙出るならサングラスすればいいのに。
夜は暗い。
聞こえますか。眩しい。
シゲハルさんが呼ばれている。金属のかちゃかちゃと鳴る。うるさい。聞こえますか。おい。かちゃかちゃ。
シゲハルさん。シゲハルさん。
ったくシゲハルさんはどこに行ったんだ。返事をしないと。かちゃかちゃ。うるさい。
もういいかな、って思ったら。自分の一番近くで誰かがもういいよと言った。じゃあ、もう、いいや。
シゲハルはありとあらゆるほだしを抜いていく。不思議と力が湧いていた。火事場の馬鹿力?
するとどこからともなく駆けつけてくる足音がする。
逃げないといけない。遠くへと向かわなければ追い付かれてしまう。深くて暗いところへシゲハルは落ちていく。浮遊感を抱きながら底の底まで隠れてしまえば誰に咎められることもない。ふわりと。
(了)




