CAR LOVE LETTER 「Bitter sweet March」
車と人が織り成すストーリー。車は工業製品だけれども、ただの機械ではない。
貴方も、そんな感覚を持ったことはありませんか?
そんな感覚を「CAR LOVE LETTER」と呼び、短編で綴りたいと思います。
<Theme:NISSAN MARCH(K11)>
この眺めも、あと一週間で見納めだな。
俺は、アパートの窓に腰掛け、いつもの様に外を眺めながらタバコをふかした。
大学の四年間、あわや五年となるところだったが、その間このアパートにお世話になった。
不味いカレーを作った台所、連れと雑魚寝した六畳間、隣の女の声が筒抜けの薄い壁。そんな四年間の思い出が詰まったこの部屋も、来月には新しい屋主が入ってくる。
そして俺の四年間の下駄だったあの車、マーチも、明後日後輩に引き取られる事になっている。
大学一年の中頃に、先輩から10万で買った俺のマーチ。
1000ccの、多分一番安いグレードだろう。坂道なんか全然上らなかったけれど、それまで原付生活だった俺にとってみれば、雨風しのげるエアコン付きのマーチはこの上無く快適だった。
マーチを手に入れてからは、バイトの出勤も、彼女とのデートも、連れとの悪フザケも、いつもマーチが大活躍だった。
タバコがフィルターを焦がし始めた頃、ふと眼下に見えるマーチを洗車しようと思い立った。
今までマーチの洗車なんて、多分両手の指で余る位しかしたことないだろう。もちろん洗車道具なんて持っていない。
明後日後輩に渡す前に、せめて軽く掃除位はしておくか。
俺はマーチを近くのカー用品店に走らせた。
所狭しと並ぶ洗剤やらワックスやら何やらかにやら。洗車道具ってこんなに要るのかよ?
車好きな奴らは週末のコイン洗車場で、こんなのいっぱい持って行ってひたすら車を磨くんだろうな。
俺には何が何だか訳がわからないので、店員に聞いて洗剤とワックスの一番安いやつを購入した。
洗車するのに、アパートの大家さんにバケツとホースを借りに行った。
大家さんには、「君が洗車するなんて、明日雨でも降るんじゃないかぁ」、なんて言われる始末。確かにずっと乗りっぱなしだったからな。
俺は空をあおぎ、雲ひとつ無い三月とは思えない陽気に、大家さんの言葉を軽く受け流した。
洗車を始めてものの数分、水を掛けただけでずいぶん綺麗になった気がする。
これでいいかな、なんて思ったが、せっかく洗剤とワックスを買って来たんだ、もう少しやってみるか。
泡をたっぷり含ませたスポンジをボデーに滑らせる。するとみるみる内に泡が真っ黒になって行く。
こんなに汚れてたのか。俺がボデーをなでる度、汚れはどんどん落ちて行く。単純なその作業がやけに楽しく感じてくる。
ホースで水をかけ、洗剤を流すと、思い掛けない程綺麗なボデーが現れた。四年乗って初めて感じたその驚嘆に、やってみるもんだと少しだけ感激した。
水洗いでこれほどなのだ。ワックス掛けにも期待が高まる。俺は車好きの気持ちがほんの少し理解出来る気がしてきた。
ワックスの掛け方なんて知りゃしない。スポンジにワックスを取り、グリグリとボデーに塗り付ける。
ワックスを掛けていると、ボンネットに小さなへこみがある事に気がついた。
思い出した。これは自分の前を走っていたトラックからでかい砂利か何かが落ちてきて付いたキズだ。
あの時は信号待ちでトラックの運転手怒鳴りつけて、そしたら相手もヤンキーみたいな奴で、あと一歩で掴みあいになる所だったな。
左のフェンダーにも擦り傷がある。
これは確かアパートに入る時に大家さんの植木にひっかけて、鉢植えをぶっ壊した時のやつだ。
後ろのバンパーにもへこみがある。
これはコンビニの駐車場でバックして、ポールにぶつけたやつだ。
ボデーのキズひとつひとつに身に覚えがある。
ボデーを磨き上げて満足してきたが、ここまでやったんだ。外側だけじゃなく、車内も掃除することにした。
満杯の灰皿を久しぶりに空にし、マットを外し、床に掃除機を掛けようとした。
物凄い砂ぼこりが立ち登り、むせかえった瞬間、そこに光る物を見つけた。
モトカノにプレゼントしたピアスだ。まさかこんな所にあったなんて。
あいつの誕生日プレゼントに買ったピアス。このピアスをするために、あいつはわざわざ耳に穴を開けたんだ。
喜んで毎日着けていたのだけれど、いつの頃からか突然着けなくなった。
理由を聞いたら、「無くした」ってさらりと答えたものだから、俺は激怒して、それからあいつには一切プレゼントを買わなくなった。
今思うと、あの時は随分酷い事も言ってしまった。
四六時中一緒にいたのだから、無くしそうな場所が俺にも検討ついただろうに。
どうして俺は、ただ怒鳴るだけだったのか。
あやまりたい気持ちが込み上げてくるが、もう俺とあいつは遠い思い出。叶わぬ想いだ。
その後も、リヤシートの隙間からはキズだらけになったお気に入りのCDや、グローブボックスからは昔もらったバイト代やら、俺の大学の思い出がそれこそ山の様に発掘された。
これほどにまで、マーチは俺の大学生活を縁の下で支えてくれていたのだ。
近すぎて見えない存在。マーチは俺にとって、水や空気のような存在となっていたんだ。
そう思うと、突然マーチと離れるのが苦しくなって来る。大学時代の思い出を、全て捨ててしまう。そんな気がしたからだ。
見違える程綺麗になったマーチ。
後輩が受取りに来た時に、その変わり様に驚いていた。
これからあのマーチは、後輩の大学生活を支えて行く事になる。
あいつの次にはまた次の後輩に渡って行くのか、それとも廃車になってしまうのか。それはもう知るよしもない。
後輩に鍵を渡した瞬間、俺とマーチは思い出に変わった。
そんな甘くほろ苦い気持ちを、最後にマーチは俺に残して去って行った。
三月の陽気の下で。