第1話 猫に誘われて
七分袖の白いワイシャツに、ベスト、腰エプロン、スラックスは全て黒で統一され、焦げ茶の革靴を履いて並木通りを歩く彼女の名前は中場晶。現在高校二年生。学校の制服でも、私服でも無いのはこれが彼女のバイト先のカフェの制服だからである。
「えっと、まずはあそこの八百屋でレモン、りんご、オレンジか。」
メモを片手に買い出し途中の彼女に、声をかける者が一匹。
「ンニャァオ。」
「あ、野良。おはよう。」
喉を鳴らしながら頭を自分の足に擦り寄せる猫に、晶はしゃがんで目線を合わせる。
「ごめんね、今おつかい中なの。また後でね。」
メモを見せながら頭を撫でると、紙切れが気になったのかヒゲがメモ用紙に向いた。
「これは食べ物じゃないよ。」
鼻を近づけて匂いを嗅ぐ猫に苦笑しながら立ち上がろうとした時、晶の右手からそれが抜き取られた。
「あ、ちょっ! だから食べ物じゃないって!」
立ち去る猫を慌てて追いかけようとするが、塀に登られてしまい、手が届きそうで届かない。
「あれが無いと、買う物が分からない……。」
猫はゆっくり歩いているので追いつけそうだった。試しにスボンのポケットから猫用のオヤツを出してみる。
「おいでー。美味しい魚のすり身だよー。」
猫はちらりと振り返っただけで、後は見向きもしなかった。
晶は仕方なくもう一度メモを貰おうと来た道を振り返ると、辺りは深い霧に包まれていた。
「濃霧注意報なんて出てたっけ?」
首を傾げていると、後ろからぐぐもった声がした。
「あの、付いて来て欲しいんだけど。」
再び振り返るとそこには道の真ん中でお座りしているあの猫しかいなかった。
「おかしいな……。空耳かな。
野良、返してくれる気になったの?」
晶は近づいてしゃがみ込み、猫の口に咥えられているメモを取ろうとするが、見事に避けられた。
「何故……。」
がっくりと肩を落としていると、再びあの声が聞こえた。
「これは、付いて来てくれたら返すから。」
周りを見渡すが猫しかいない。
「まさか……。」
「あれ? もしかして言葉通じてる?」
晶は思わず猫を凝視した。
「よかった、じゃあもうこれは返すよ。」
その言葉と共に紙切れが目の前に置かれるが、晶はそれを茫然と眺めるだけで拾おうとしなかった。
「いらないの?」
「いや、要ります。」
急に我に返って紙切れをポケットに仕舞いながら、まだ現実を受け止められない晶は思わず敬語で返事をしてしまった。
「もう行くよ? 付いて来てね。」
「はい、わかりました。」
混乱した頭のまま猫に付いて行く。
「着いたよー。」
気付けば多くの店が立ち並ぶ商店街の入り口に立っていた。提灯や、ネオンの看板、洒落た街灯が夜の商店街を明るく照らしている。
ふと、頭にバイト先の店長との会話が蘇った。
店長は休憩室に設置されたテレビのニュースを観ながら思い付いたように、お茶を注ぐ晶に話しかけた。画面には行方不明者の心当たりを呼びかけるテロップが流れていた。
『晶くん、この町に昔からある噂話って知ってる?』
『いや、知りませんけど……。』
『そっか。僕のお婆ちゃんの話なんだけどね。昔、神隠しにあったらしくて。で、その神隠しにあった人は結構居てね。今でもそういう事に出くわす人が居るらしいんだ。』
『でも、この町の行方不明者ってほとんどすぐ見つかってますよね?』
『お婆ちゃんは、あそこは時の流れが違うからって言ってた。多分、僕達が過ごす1時間は、あちらでは1日だったりするんだろうね。』
『店長のお婆さんはどこに連れ去られて居たんですか?』
店長はニヤリと嗤った。
『人ならざる者達が行き交う商店街、その名も、』
晶は見上げた先にあるアーチ看板の文字を見て疑いが確信に変わった。
「『つばき通り』。」