ストレート紅茶フラッシュ
思わず、立ち上がって口を出してしまった。
いや、聞いてくれ。仕方がなかったんだ。
気になっていたクラスメイトを偶然見かけたら、こっそり後をついていく。これはぎりぎり許されるだろう。一人で歩いていたから、あわよくば話しかけてみたいと思うのは真摯たる男子高校生一般として逃れ得ぬものだと確信している。
草食系男子などとなまっちょろい事を言って遠巻きに女子と接する同胞諸君の何と嘆かわしいことか。輝かしく清らかな男女交際はお釈迦さまから垂らされる蜘蛛の糸のように目に見えない存在から気まぐれに与えられるようなものではない。
だから、喫茶店に入った彼女から遅れること数分、平然と喫茶店に入った。入るだろう。入らなければならない。彼女がカウンターに座っていたので、ぎりぎり視界に入るかどうかの所の席を素早く確保した。この角度が偶然を装うのに最適な角度だったからだ。
彼女はカウンターの中の店員に向かってにこやかに話をしていた。なるほど、彼女が喫茶店の常連なのだと、即座に理解することができた。
彼女は紅茶が好きらしい。
彼女の趣味嗜好に関しては、理解ある友人から情報を提供されており代わりにあらん限りの感謝に具体的な形を付与して友人に渡しておいた。学生食堂の食券、三ヶ月分である。
その甲斐あって彼女の趣味が判明したのだから、さりげない会話の共通項として紅茶について学びを深めたことは言うまでもない。茶葉の産地から歴史、ゴールデンルールや各種茶器の取り扱いまで、今や自らのことを紅茶紳士と名乗ることになんの不遜もないのだ。
さらに付け加えるならば学校では深窓の令嬢とも高嶺に咲く一輪の白百合とも言われている彼女が、運ばれてきた紅茶を前にして、笑ったのだ。天使の微笑みなどというレベルではない。大輪の花が開いたような、破顔一笑とでも呼ぶべき笑顔。
この学校と私生活のギャップにことさら心を撃ち抜かれたことを正直に、かつ紅茶紳士的に告白しておこう。正直は美徳であるのだから。
だがその彼女が!
紅茶が趣味だと言っていた彼女が!
店員に向かって「ねえ、いつものレモンと蜂蜜をちょうだい」と言ったのだ。言い放ったのだ!
「これぞ好機!」
そうとも。そう、叫んでしまったのだ。店内にいる数名の客も、店員も、彼女も、その全てがこちらを向いた。彼女は目を丸くして「ク、クラスメイトの……」とぽつりとこぼした。
○ ○ ○
紅茶紳士として、やってはいけない事がいくつかある。
慌てふためく事と、その場を変に取り繕う事だ。紅茶紳士たるもの、悠然としていなくてはならない。
たとえ、店内の注目を一身に集めて、あまつさえ不審な目で見られていようとも、だ。
「奇遇ですね、雪屋さん」
「あ、あの、えと、その、クラスメイトの人……だよね?」
おお、クラスメイトだと覚えてくれている!
「いかにも。あなたのクラスの紅茶紳士です。その紅茶、少し失礼」
彼女の方へと優雅に歩く。紳士だからな。カウンターに置かれた紅茶。透明感のある琥珀色をしたそれを手に取ると、目を閉じて香りを求めた。
淡く、それでいて芯のあるマスカテルフレーバーがすぅっと抜けていく。
「これはダージリンのセカンドフラッシュですね。この香りをレモンで消してしまうのは勿体ない。それに、蜂蜜の中の鉄分は紅茶の成分のひとつであるタンニンと結合して黒く変色してしまいます。この紅茶を楽しむならば、是非、ストレートで」
決まった……。雪屋さんはきっとこの博識の権化たる紅茶紳士をアコガレの眼差しで見ているに違いない。そしてここから始まる二人の青春紅茶物語。ああ、素晴らしきかな!
しかし、彼女からのアクションは無い。何も聞こえてこない。店内にかかる穏やかな曲調の音楽だけが辺りを漂っていた。
音楽は詳しくないんだ。だって、紅茶紳士だからな。
「いやあ、君は詳しいんですねえ」
雪屋さんの声の代わりに耳に届いたのは、穏やかな男性の声だった。目を開ければ、カウンターの向こう側でにこやかに笑みを向けてくる人物がいる。
見たところ、四十は越えていそうな雰囲気の店員だ。いや、この人以外に店員の姿は見えないので店長かもしれない。紅茶紳士的にはティーマイスターやバリスタ、バールマンと呼んでおく方が雰囲気が出るかも知れないな。
「紅茶紳士ですから」
「あ、あのっ!」
彼女がとても慌てたように声をかけてくる。両手で口元を覆い、うつむき加減、上目遣いでこちらを見るその眼差しは美の女神アフロディーテも泡くって逃げ出す様相だった。他の数名の客は、こちらが顔見知りだと知って興味を無くしたようだ。彼女の方へと顔を向け、鏡で練習してきたキメ顔を披露する。
「さっきの……見た?」
「さっき……の?」
何のことだろうか。記憶にあるのは雪屋さんの眩しい笑顔だけだ。普段の学校では見せない、朗らかな……。
ああ、そうか、恥ずかしいのだな。
しかし笑顔は人を最も魅力的に見せるものであり、雪屋さんの笑顔はそれはもう太陽のような、いや、太陽目指して飛び立ったイカロスが思わず舞い戻ってきてもおかしくないような、そんな極上の笑顔だった。
ならば、紅茶紳士の取るべき態度は一つである。彼女が魅力的であることをきっぱりと伝えなければならない。そう、悠然と、平然と、そこにあるのが普通だというように。それは当然の存在だというように。
「しかと見ましたよ。とても素敵な笑顔でした。教室で見る事のない姿に思わ」
「いやああぁ!」
言葉を遮られた。そして彼女は両手で顔を隠すように店の奥へと駆け、従業員用であろう扉をあけてこの場から去ってしまった。彼女は、天岩戸にでも引き籠ってしまったのだろうか。
理由も何もかも分からないが、この状況と結論からするに、どうやら自分が原因であるらしいことは分かる。分かった所でどうしようもないが分かる。これは謝りに行くべきなのか。いや、何を謝ればいいかまったくもって判断できていないのに形だけの謝罪をするなど、それこそ失礼である。
ここは、紅茶紳士らしく落ち着き払って席に座る所からはじめなければ。そうとも、そうしよう。どうしよう、どうすればいいかな。
「一杯どうですか、紳士君。ごちそうしますよ」
「お願いします」
「ずいぶんと平然としていますね。慣れているのですか?」
「……いえ、表に出していないだけです。紅茶紳士として」
「ふふ、妙な人ですね」
それ以上、彼は何も言わなかった。もしかして彼女に嫌われてしまったのではないかと気が気でなかった。
やがて目の前に静かに置かれたのは、ずいぶんと色の濃い紅茶だった。香りは、少しばかりスモーキーで奥の方から角の丸い香りも混ざって鼻腔をくすぐってくる。
ブレンドされているらしい。ブレンドティーは紅茶を淹れる人の個性が出るという。存在感のある紅茶だが、決して主張は強くない。
一口飲んでみると、少しばかりの清涼感が渋みの中にアクセントを添えていた。
「……おいしい」
「それは光栄です」
ラプサンスーチョン、ベースはルフナ? いや、アッサム、にしては渋みが少ない。それに、この丸い感じの風味は……何だ。分からないけれど、隙間に入り込んでくるこの柔らかい味は……?
「紳士君。紅茶のゴールデンルール、ご存知ですか?」
「もちろんです。紅茶紳士ですから」
思考を途切れさせるように、声がかかる。そしてもちろんゴールデンルールは知っている。英国王立化学教会によって定められた、10のルール。茶葉の味をしっかりと引き出すことを科学的に考慮されたもので、紅茶を味わうためだけに存在するルールだ。
「では、そのルールは何のためにあるのでしょう」
「それはもちろん、紅茶を一番良い状態で飲むためにあるのでしょう」
「一番良い紅茶、どんな紅茶でしょうね」
はたと顔を上げれば、まっすぐにこちらを見据える視線とぶつかった。
「見てしまったならば、隠すこともありませんね。あの子は、確かに人ではありません」
「……」
……ん?
雪屋さんが人を越えたレベルで可愛いのは存じているが、どうやら違う話をされているのではないかコレは。待て。紅茶紳士的には何を言えばいいのか分からないぞ。
「やはり、動じませんね」
いや、違うんだ。あまりの展開に言葉が出ないだけなんだ。え、人じゃないというのは比喩的なものではなく、本当に人間ではないと言いたいのだろうか。まさか、そんな馬鹿な。だって、雪屋さんはあんなに可愛いんだぞ。
それに、見た目はどう見ても人じゃないか。
「ご覧になったでしょう。あの牙を」
ご覧になってません。彼女の笑顔が100万ルクス越えで明るすぎたので。
「私とあの子は、吸血鬼の子孫なのです。もう血は薄く、文献に残るような特徴は見られませんが、彼女は少しばかり、一族の中でも強く特徴が出てしまっているようで」
「それと、紅茶のゴールデンルールにどう関わりが?」
「あの子は、紅茶を飲むと酔うのです」
そんな馬鹿な。
「そんな馬鹿な」
心の声がそのまま外に出る。
あれか? 紅茶紳士の指摘があまりにも鋭すぎた故の嫌がらせでこのような冗談を言っているのか?
「ええ、私もはじめはそう思いました。しかしどうやら、代を重ねたことと先祖返りの相互作用で起こった突然変異のようなものだそうで。紅茶は飲みたい。けれど、飲めない。そこでなんとか味を加えたり、薄めたりしてようやく飲めるのですよ」
「そんな事情が……」
冗談には思えないほど、真剣に彼女の事を思っていることが声色からうかがえた。
つまり、酒好きの下戸がなんとかして酒を楽しもうとしている所にストレート一気飲みを強要したアルハラ上司的な立ち位置がこの紅茶紳士である訳だ。これはいけない。紳士さの欠片もない行動だった。彼女が思わず店の奥の天岩戸に引き籠ってしまう事も已む無しである。
「そこで、紳士君。ウチでバイトしませんか」
「……バイト?」
「紅茶、お詳しいでしょう。あの子のために、あの子のための一杯を探してやってくれませんか」
優しそうな笑みをこちらに向けながら、そう話をもちかけてきてくれる。
確かに紅茶紳士となったのは雪屋さんとお近づきになるためだ。まさにその努力が報われようとしているのだ。これを断る手はあるまい。
いやしかし、どうやら雪屋さんは人間ではないらしい。確かに人間離れした美しさだとは思っていたが真実人間ではないとは思ってもいなかった。吸血鬼。吸血鬼ときたか。いや、彼女を鬼と呼ぶのは忍びない。ここは吸血姫とそう呼ぶことにしておこう。そして、だ。なにかこう、彼女の弱みに付け込むようで気が引けるのも事実だ。吸血姫であることを隠していたくらいなのだから、見られたのは想定外なのだろう。
そこにつけ込んで仲良くしてくれと踏み入ってしまっている気もするのだ。
ああ、心の中の悪魔が「目的のためなら些細なこったろうよ。ぐいぐいイケよ」と囁いている!
ああ、心の中の天使が「目的のためなら些細なこったろうよ。ぐいぐいイケよ」と囁いている!
おっけー。
「この紅茶紳士にお任せを。必ずや、雪屋さんに最高の一杯をお約束します」
「頼もしいですね。ああ、そうだ。私も雪屋ですので、私のことは店長とでも呼んでくださいね」
「分かりました、お義父さん」
「……つくづく、妙な人ですね」
「紅茶紳士ですから」
「では、バイト紳士君。初仕事です」
○ ○ ○
店長(お義父さん呼びはあの後丁寧に、それでいてきっぱりと断られた。そう、きっぱりと)から言われた仕事は、雪屋さんに事情を説明することだった。
店の奥から階段を上がると、そのまま住居になっている。急展開だ。まさか突撃自宅訪問まで叶ってしまうとは。話に聞いた部屋は二階の奥らしい。
幸い、奥に部屋は一つしかなく、迷うことはなかった。
控えめにドアをノックすると、かちゃりとドアノブが回されほんの少しだけ隙間が生まれた。
「ひゃっ」
そして閉じられた。
これは本格的に天岩戸らしい。どうする。踊るか。踊ってみるか。
「雪屋さん。話を聞いてもらえますか。このままドア越しで結構ですので」
「……」
「店長から聞きました。紅茶が飲めない理由」
反応はない。しかし、約束したのだ。ここで諦めるわけにはいかない。
「先ほどは本当に失礼をしました。紅茶紳士の名に懸けて、雪屋さんにとっての最高の一杯を探すと、さきほど店長とお話をしてきたんです」
「……お父さんの紅茶、飲んだの?」
「ええ、とても美味しかったです」
「私もね、ずっと、ずっと前に飲んだの。170年くらい前だったかな。とってもおいしかったんだけど、その後、倒れちゃった」
随分とビッグスケールな尺度で話をしてくれるじゃあないか。そうか、そうだった。相手は吸血姫だったな。雪屋さんの今の年齢も気になる所だが一つはっきりしたことがある。余裕しゃくしゃくの二十歳越えなので酩酊状態になっても法的に問題はなさそうだということだ。
扉一つで、まさに世界に隔たりがあることを痛感する。
「色んなものを混ぜると、飲めるんだけどね。あんまり美味しくないんだ」
「事情も知らず、勝手な事を言いました」
「ううん、いいの。ねえ、お父さんの紅茶、どんな味だった?」
おいしかった。それは確かだ。それぞれの茶葉が主張しすぎず、個性が混ざり合っていた。
一つだけ、あの丸い感じの、柔らかい味わいの正体が掴めない。
「しっかりした味で、でもしつこくなくて、爽やかな中に優しさのある味でしたよ」
「また、飲みたいなあ」
「飲めますよ、必ず」
沈黙が場に降りる。だがそのまま待っていると、再び扉がゆっくりと開いた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。世界の隔たりはなくなったのだ。
そして少し伏し目がちに隙間から太陽が輝きを見せる。ああ、世をあまねく照らす救世の光。
彼女のためならば。そうだ、彼女を幸せにする紅茶を、きっと見つけよう。
紅茶の世界は、広く、深い。果てなど無いのだ。彼女が酔わずに楽しめる、彼女にとっての最良の一杯が必ずあるはずだ。
まずは、店長のブレンドを探り当てるところから。
「ね……名前」
こちらとは目を合わせず、頬を赤く染めながら彼女は言った。
「私、ずっとバレないようにみんなと距離を置いてきたから……誰の名前も知らなくて」
「あなたのクラスの紅茶紳士です」
今は、それでいい。
弾かれたように顔を上げた彼女は目を丸くして、瞬間、くすくすと笑い出した。
「変な人っ」
「む。親子そろってそんなことを言うんですね」
彼女にとっての最高の一杯を見つけるまで、紅茶紳士を名乗ろう。
それが紅茶紳士の嗜みだ。そうとも、そうに違いない。そういうことにしておこう。
彼女の笑い声は、ころころと優しい音がした。
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