恋は瞬間、愛は姿勢。
それは奇跡のような出会いだった。
彼女は電子の海を越え、時空の海を越え私の前に姿を現したのだった。彼女は天使と呼ぶにはあまりに神々しく、また女神と呼ぶにはあまりに弱弱しく見えた。しかしそれでもなお、僕の人生はこの瞬間の為にあったのかと思うほどに彼女は美しかった。エンディング後のエンドロールのように一秒が長く感じられた。
まず彼女の声は聖歌のように厳粛な透明さを伴っていた。その音は僕の耳から侵入すると忽ち脳を犯した。脳もまた彼女の声を、革命による解放を待つ農民のごとく歓迎した。アドレナリンが脳を満たす。文系学生にはアドレナリンが何物であるかはよく知らない。それでも自己の脳が何物かに犯され、悦んでいることは理解できた。
次に彼女の造形はそれは見事に整合が取れていた。肩まで伸びた彼女の金髪は、日本刀のようにしなやかに揺れ、均整の取れた肢体が動くに伴って、まるで武道の型のように流動的で滑らかに動いた。彼女の一挙手一投足が世界のすべてのように思えた。脳が溶解する。完全なる美に同化しようというのだろうか。脳の沸騰に伴って、次第に僕の身体の中に吐き気が催された。おそらくはこの穢れた身体の中にある不浄なものを取り除こうという何者かの意志が介在しているに違いなかった。僕は昂る情動と吐き気との渦に巻き込まれるような歓喜の五分間を過ごした。永い永い五分間だった。
僕は小さな箱から目を離す。ゴールデンウィーク明けの、よくある初夏の風が濃紺のカーテンを揺らす。カーテンを開けると淡白な太陽が眩しかった。何という素敵な午前中なのだろうか。彼女の輝きが目の裏に残っていて、眼前に映る住宅街に照射しているみたいだ。僕のこの至福の時間はそれから15分ほど続いた。
今日は大学は休講だ。今日も、というべきかもしれない。実際、文系の私立大学なんていうものは来るべき就職活動の前の休暇期間程度の意味付けしかないのだ。大学生も企業も、欲しいのは大卒という肩書であって、学問を究める機関という認識を持っている人間は稀である。むろん多くの人間にとってはそうというのであって、一部の使命感にかられた人間のことは僕は知らない。何すっかな。声にならない独り言を呟き、マルボロのメンソールに火をつける。ふぅ。レポートでもやるかな。
インターフォンが鳴る。入るぞと聞き慣れた声が聞こえ、ガチャと扉が開く。僕が「勝手に入ってくんなよ。」というと「鍵くらい閉めろよ。」と声の主が言う。
「何しに来たの?」
「用がなきゃ来ちゃダメかよ」
「ダメだわw」
「来ちゃった♡」
「帰ってくれ。頼むから。」
「タバコだけでもいいから吸わせてくれ。」
「…入れ」
それはいいのかよwと笑いながら入ってきた男は大学の友人だった。いや友人というには、僕はこの男のことをよく知らな過ぎた。大学入学時特有のやけに協力的で陽気な人々の中で、彼はあまりに正直者だった。
「え?クラス会なんて高校生みたいなことやんの?w俺パスだわw」
当然、彼はクラスで孤立することになる。大学にもなって第二外国語の授業を同じ時間に取るという理由だけで仲良くする道理は僕もわからなかったが、わざわざ波を立てるという道理もまた無かった。重要なことは、こういった異分子を排除することによってのみ仲間意識は強固になっていくということだ。そう考えるとこの男は最も協力的な行いをしたとはいえまいか。少し可哀そうに思った僕は、菩薩のような慈悲の心と入学早々バカを発見した悦楽からこの男と話すようになる。
僕がこの男についてそれから知ったことは、四国出身であること、実家が少しばかり金持ちだということ、タバコはアメスピを吸うこと、下宿先が僕の家から徒歩10分ほどであること、浪人をしているから一つ僕よりも年上であることくらいなものだ。
それにしても、彼のより優れた特質は、自分の過ちを素直に反省できることだ。クラス会参加しとくんだった。としょげた調子で言っているのを何度聞いたことだろうか。
彼は座布団をどこからか出してきて胡坐をかくと、四つ足テーブルに肘を乗せ、アメスピに火をつけるとゆっくり煙を吐いた。