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猫舌の私は夢をみない  作者: 雨咲まどか
二章 猫舌と止まった時間
9/13

羊が九匹


 鵜野さんは出勤時、必ず大きなトートバッグとは別に小さなサブバッグを持ってくる。中に入っているのはおそらくお弁当で、休憩時間になると彼女はサブバッグに貴重品だけ入れてどこかへ行ってしまうのだ。

 昔は鵜野さんにも仲のいい同僚がいたらしいが、結婚や転職でいなくなってしまった。という、噂だ。どうにも鵜野さんは、敵を作りやすいらしい。いつもピリピリしているのは家庭が上手くいっていないからだとか、なんとか。これも噂だが。 

「あ、鵜野さん」

 私は今日も見事に背筋の伸びた後ろ姿に声を掛けた。鵜野さんは振り返り、怪訝そうに私を見る。

 ぎこちなく笑って、私はコンビニの袋と水筒を掲げた。

「よかったら今日、お昼ご一緒しませんか」

「……いいけど」

 許可を得られたので、鵜野さんの後ろをついて歩く。今日もきっちり纏まった夜会巻きだ。

 階段を上がり、たどり着いたのは簡易な椅子と机が並べられた休憩用のスペースだった。学生が数組雑談しているが、この時間なら他の場所に比べればよほど静かだろう。

 鵜野さんは迷わず窓際に座り、私もその横に並んで腰を下ろす。いつも食堂にもサロンにも姿がなかったが、図書館の上にいたのか。

 窓からは学生の姿がまばらに見えた。もう少し暖かい時期ならば外のベンチも賑わっているが、十一月も半ばに差し掛かる今はほとんどが早足で建物へ向かっている学生ばかりだ。

「わ、すごい美味しそう」

 鵜野さんが広げたお弁当を見て、私は思わず歓声を上げた。煮物にきんぴら、卵焼き、肉団子、ごま和え。ご飯には二色のそぼろが掛かっている。

「大したことないわ」

「高校卒業して以来こういうお弁当から縁が遠くなってしまったので、輝いて見えます」

 私は母が作ってくれていたお弁当を思い出して感慨にふけった。母の作る弁当は美味しかったが、凝り性が発揮されてやけにファンシーなものだった。友人達から羨まれ鼻を高くする一方で、鵜野さんのような純和風のお弁当に憧れていたのも事実だ。今となっては、手作りのお弁当はすべて羨望の対象だが。

 鵜野さんは私の手元に視線をやった。

「茅原さんはいつもそれなの?」

「いえ、普段は学食です」

 私はコンビニのお握りの封に手を掛けた。鵜野さんのように毎日お弁当を作ってこられれば節約にもなるのだろうが、朝に弱いがために中々難しい。

「あ、そうだ」

 危うく忘れるところだった。

 お握りを置き、私はコンビニの袋から紙コップを取り出た。二つ並べて水筒の中身を注ぐと、湯気と共に緑茶の香りが立ち上る。

「これ、母がお土産にってくれたんです。ちょっといい玉露なんですよ。よかったら」

 鍋セットと同じ段ボールに入って届けられたものだが、普段緑茶を入れたりしない私は棚にしまい込んで放置していた。鵜野さんを昼食に誘うと決めた時に思い出し、ついでに緑茶の入れ方もネットで検索した。上手く入れられたのかはわからないが、気合いを入れて自分比で早起きをし慎重に準備したから大丈夫のはずだ。

「美味しい。気が利くのね」

「よかったです。鵜野さん、いつもコーヒーよりも緑茶の方を飲まれていたので」

「茅原さんって人のことよく見てるものね」

「……そんなことないです」

 鵜野さんからの賛辞に私の心は高揚したが、すぐに急降下した。見たくないものからはとことん目を逸らしている私は、鵜野さんに褒めてもらえるような人間じゃないと思った。 鵜野さんは綺麗に巻かれた卵焼きをお箸で摘まみ上げる。黄色に、ピンクが混ざっている。明太子が巻き込まれているようだ。

「それで、何の用なの?」

 私はぎくりとした。急に昼食に誘うなんて、怪しく思われても仕方ない。

「あの、鵜野さんって、このお仕事をどう思ってらっしゃるのかな、と」

 私の問いかけに、鵜野さんは意外そうに首をひねった。

「どうって?」

「このお仕事を選ばれた理由、ですとか」

 まさか自分はコネで入ったから、仕事に対する考え方に迷いがある、とは言い難い。

「就職面接みたいね」

 鵜野さんは笑って、それが図書受付の時よりも柔和だった。口ごもる私を一瞥して、紙コップを傾ける。

「私、夢がなかったのよ。だから、人の夢を応援できる仕事に就きたいと思ったの」

「応援、ですか」

「大学生って、嫌でも将来を決めなきゃいけない時期でしょ。その時に、身近な大人の一人として見本なれたら。なんて」

 私は仕事中に鵜野さんが見せる毅然とした態度を思い出した。厳しいのは、コネで入ってきた私が気に入らないからだと思っていた。私はやっぱりちゃんと、人を見れてはいない。

「夢って、案外そこら中に転がっているものよね」

 軽やかな鵜野さんの声を聞きながら、私は無骨な紙コップを両手で持ち上げた。指先が熱を、鼻腔が玉露の香りを脳へ運ぶ。

 窓の外では風が強く吹いていた。落ち葉が駆け抜けて、ああもう冬がやってくる。ユキちゃんの七回忌と、一緒に。






 鵜野さんと昼食を過ごした三日後、私は引っ越し先を決めたという母からの連絡を受け実家へ来ていた。三ヶ月も悩んでいたのに決めたとなれば母の行動力は凄まじく、明後日には引っ越すのだと言う。

 私は段ボール箱を組み立てながら、明後日には誰も居なくなるリビングを見渡した。思えば、母にはたっぷり時間があった筈だった。それこそ八年も。引っ越し先なんかいくらでも目星を付けておけただろうに。

「引っ越し先の近所で新しい仕事が始まるから、早く引っ越しちゃわなきゃと思って」

 母は明るく言いながら棚の中身を仕分けして、大きな袋に次々と入れていった。彼女の周囲にはゴミ袋と段ボール箱が並んでいる。燃えるゴミ、燃えないゴミ、ゴミじゃないもの。こうして見るとゴミばっかりだ。

「なんの仕事?」

「料理教室のアシスタント。知り合いが独立するから手伝う話が結構前から出てたの」

 以前から母は調理師として働いていた。結婚を機に一度辞めたのだが、私が高校生の頃に復職した。今思えばその頃から母は父と別れた後の事を考えていたのかもしれない。

「引っ越し先、どんなとこなの?」

「普通のマンション。律のとこからもそんなに遠くないし、たまには遊びに来てね」

「……うん」

 私は頷いて、段ボールを抱えて立ち上がる。二階への階段を上がり、自分の部屋を目指した。

 ふと、私は自分の部屋よりも手前にある父の部屋の前で立ち止まった。一呼吸置いてからドアノブに手を掛ける。几帳面な父が自分好みに仕立て上げたその部屋は、私の好きな空間の一つだった。ごくたまに、コーヒーを二つ用意して父の部屋を訊ねて、コーヒー一杯分だけ過ごした。勝手に本棚から取り出して写真集を眺めたり、ぽつぽつと話をしたり、そんな風に。

 私の感傷とは裏腹に、久しぶりに見た父の部屋は空っぽだった。カーテンすらも取り払われて、フローリングだけが広がっていた。

「ねえ律」

 不意に掛けられた声に、私は驚いて飛び上がった。すると母は「わ、びっくりした」と目を丸くする。びっくりしたのはこっちだ。

「はい、これゴミ袋。ちゃんと分別してね」

 母は私が抱え込んでいる段ボール箱の中に袋をねじ込んだ。それから首を回して、開いているドアの隙間を覗く。

「やっぱり、嫌だよね。両親が離婚するなんて」

 まるで他人事みたいに母は言って、空っぽの部屋をじっと見つめた。

「もう私もいい歳だし、平気」

 私は左の口角を意識して笑顔を作った。母はこちらを見ようとせずに、微動だにしない。

「ごめんね」

「お母さんの謝ることじゃないよ」

「でも、母さんのせいだから」

 私は眉を顰めた。原因は父の浮気じゃなかったのか。

「どういうこと?」

「私の下らないプライドのせいで律に辛い思いさせちゃった」

「なに、プライドって」

 母がそんな様子を見せたことはない。いつも甲斐甲斐しく働いて、誰かに対して高圧的な態度をとるなんて事も滅多なことでは無かったはずだ。

「お父さんが別れ話を切り出した時、理性的なふりして律のためだとか言って先送りにしたけど、母さんがするべき事はたぶん、そんな事じゃ無かったって律に怒られてやっと気づいたの。泣いてすがれば、もしかしたらあの人の心も戻ってきたかもしれないのに、出来なかった。強がって聞き分けが良いふりをしたら、見事に取り返しがつかなくなっちゃった。家事を頑張ったのだって、今思えばただの当てつけ。……努力の方向性が間違ってたのよねえ」

 母の笑い顔に、私は押しつぶされそうだった。この人は私に似てる。いや、違う私が似てるんだ。私と母も、私と父も、きっと似てる。もちろん父と母だって。私たち、親子だなあ。

 一段落したらお茶にしましょうと母は告げて、階段を降りていった。

 父の部屋の窓からは隣家の壁が見えた。時仁くんとユキちゃんの実家だ。

 急に、時仁くんに会いたいと思った。あの日から連絡は途絶えている。週に一度だった診察も、二週間に一度になったばかりだ。会えない原因は、私にあるのだが。

 全部、話したかった。鵜野さんのことも、両親のことも、話したくてたまらないけれど、もっと話さなくてはいけないことがある。



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