羊が八匹
ユキちゃんこと津山夕樹は、私の幼なじみで、同級生で、時仁くんの弟だ。男の子だけど私なんかよりずっと可愛くて、人気者で、夢を持っていた。
出会ったばかりの幼稚園の頃、彼は大人に夢を訊ねられる度「動物博士になりたい」と答えていた。その夢は小学生になっても中学生になっても高校生になっても変わらずに、いつ誰に訊かれても全く同じ声色で語られた。
私はそんなユキちゃんの横で、なんの夢も持たないのが恥ずかしくて、周りの女の子の真似をして「お花屋さんになりたい」「ケーキ屋さんになりたい」と言っては自分の夢みたいに振る舞った。本当は何にも、なりたくなんかなかったくせに。
ユキちゃんは知らない事はとことん知らないのに、動物の事となると信じられないほどの知識量を発揮した。大学で生物学を専攻して、私は彼が天才肌だったことを思い知った。四年間学んだって、まだ私は彼に追いつけない。
気まぐれで、嘘つきで、人を振り回してばかりで、だめなところだってたくさんある。なのに人懐っこくて奇天烈で、人の心を掴むのが上手かった。いつの間にか呆れ半分に、みんなが許してしまうような不思議な人だった。
私はユキちゃんの幼馴染みとして、その言動に一喜一憂しながら過ごしていた。六年前の、あの日まで。
あれは大学受験を目前に控えた高校三年の冬だった。ユキちゃんは幼い頃から全くぶれることのなく、動物博士を目指すために、将来生物学の博士号がとれる大学の受験を決めていた。第一志望も第二志望も、地元から遠く離れた大学だった。
私はというと相変わらず夢という夢もなくて、学力に合わせた地元の大学を志望していた。幼稚園からずっと一緒だったユキちゃんと、とうとう離れる事になるのは、もっと前から分かっていたことだった。彼の志望大学は早くから決まっていたし、夢を持った人が世界を広げようとするのなんて、当然のことだった。
だから私は、ずっとユキちゃんを失う準備をしていた。ユキちゃんが目の前からいなくなっても、辛くないように、寂しくないように、心の整理をし続けていた。旅立つ彼に「おめでとう」と「がんばって」を心から言えるように。
そうしてあの日がやってきた。
塾からの帰り道だった。追い込みのために塾の自習室は夜遅くまで多くの生徒で埋まっていた。
「律まだー? そろそろ帰ろうよー」
私に付き合って自習室に残っていたユキちゃんは、唇を尖らせて声を潜めた。どうにも私は勉強の才能が無いようで、受験を目前にしても未だ壁にぶち当たっていた。成績優秀のユキちゃんとは塾のクラスも違ったが、行き帰りは一緒だった。
「ごめん。先帰っていいよ」
私が言うと、ユキちゃんは大きな目をぱちぱちさせた。頬杖をついて一度閉じた参考書を捲り始める。
それからしばらく私は問題集を解き続け、気がつくと自習室に残る生徒は半分以上が減っていた。窓を暗闇が覆っている。
横を見るとユキちゃんはまだそこにいて、私は罪悪感よりも安心してしまった。この真っ暗な冬の夜道を一人で帰る事にならなくてよかったと心底思った。
「ユキちゃん、ありがとう。もう帰ろう」
「ああ、もうそんな時間?」
ずっと待っていてくれていたのに惚けてみせて、ユキちゃんは欠伸をした。コートを着込んで塾を出る。
「うわ、さっむい」
数時間ぶりに外気に触れた頬を手袋の上から押さえて、ユキちゃんは白い息を吐いた。私はそれを見上げて、すぐにコンクリートへ視線を移した。
ユキちゃんの背は男の子にしてはあまり伸びなかった。ぐんぐんと成長した時仁くんを羨んでカルシウムやタンパク質の摂取に余念が無かった彼だが、知識だけではどうしようも無い事もあるらしい。それでも私よりは十二センチも高いのだけど。
他愛も無い話をしながら、闇と電灯の中を進んでいく。何度思い出しても、この時のことは後悔してもしきれない。
突然だった。急に目の前が白く光って、体に衝撃が走った。それから鈍い音がして、私はコンクリートの上を滑った。皮膚が剥がれて身が抉れる激痛と共に私の意識は遠くなって、大勢の知らない人たちの声やサイレンの音をぼんやりと聞いた。
私が意識を取り戻した時には、ユキちゃんはもう息をしていなかった。両親の話では私たちは一緒に事故に遭い、私だけが一命を取り留めたのだとのことだった。信じられないほどに変哲のない、居眠り運転の車が原因の交通事故だった。
私はベッドの中で、じっと天井を眺めていた。真っ白な天井は、私の頭の中みたいだった。私があの時、もっと早く自習を切り上げていれば? 私の足がもう少し速ければ? 私と一緒になんて、帰っていなければ?
塾が終わると、家が隣の私たちは自然と一緒に帰るようになっていた。「夜道は危ないから当然」と言ったのは時仁くんで、「律が俺と一緒に帰りたいだろうから」と言ったのはユキちゃんだった。
ユキちゃんの言葉にはいつも嘘が混じっていた。どれがホントでどれが嘘なのか私にはわからなくて、でもそれが安心する。ホントでも嘘でも冗談でも、彼の口から出る言葉には確固とした個性があった。
あれからもう六年が経とうとしている。私はあの日からずっと後悔を続けている。
甲高くて甘ったるくて掠れてて、変な声だと馬鹿にしていたはずなのに、もう聞けなくなった今になって、ユキちゃんの声ばかり思い出すのだ。格好つけて無理矢理低くした声も、気が抜けて裏返った声も、子どもみたいな笑い声も、本当はずっと大好きだったのに。どうして私はそれを伝えなかったんだろうって、そんなことばかり思うのだ。私がするべき事は、彼を失う準備なんかじゃなかったのに。