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猫舌の私は夢をみない  作者: 雨咲まどか
一章 不眠症と夢の話
7/13

羊が七匹


 同じ薬を同じ数処方して貰って、週に一度の診察は終わる。効かなくなってきたと言う私を、時仁くんは「睡眠リズムは整ってきてるみたいだから、薬は増やさずに様子をみよう」と諭した。それを聞いてようやく私は、自分が何のために病院へ通っているのかを思い出した。睡眠障害を治すことよりも、羊使いと過ごす夜の方が、ずっと重要な事になっていた。

 私がもう一人で眠れると言ったら、彼は来なくなるんだろうか。そうなら、寂しいな。私はこのままでいいのに。ずっとこのまんまで。

 薬局を出てマンションの自室へ戻ると、携帯電話にメッセージが届いていた。

『今晩、少し遅い時間になるけど空いてないかな。話があるんだ』

 差出人はついさっき「話」を終えたばかりの時仁くんだった。なにか話し忘れた事でもあるのだろうか。

 返事を打ち込んでいると、桃子がゲージを囓る音が部屋に響き渡った。私は必死でゲージを揺らす桃子の姿に少し呆れて、その感覚を愛おしく思った。桃子の命を私は背負っている。

 彼女のおやつ用に買ってあった林檎を取るために冷蔵庫へ向かう。

 小さな冷蔵庫は、今日に限ってはぱんぱんに詰まっている。今度は温泉に行ってきたという母から宅配便で届いたお土産の鍋セットが場所をとっていた。

「あ、そうだ」

 私は冷蔵庫を閉めて、また携帯電話の画面を開いた。途中だった文章を全部消して新しく書き込む。

『じゃあお母さんからお土産で鍋セット貰ったから一緒にしよう』

 到底一人で食べきれるとは思えない量だから、丁度いい。私は名案だと自画自賛しながら送信ボタンを押した。

 ガリガリと背後から音がして、慌ててもう一度キッチンへ。桃子のおやつのこと、すっかり忘れていた。

 小さな歯で黄色い果肉を囓る桃子を眺める。さらりとした額を指先で撫でると、彼女は迷惑そうにしてみせた。全く、恩知らずな奴め。

 珍しくよく働く私の携帯電話がテーブルの上で震えだした。右手で桃子を撫でるのは止めずに、左手を精一杯伸ばして携帯電話を手に取った。

 着信相手は時仁くんだった。

 どこか歯切れの悪い彼が、電波の向こうで問いかける。

「鍋って、どこで?」

 ああ、そういえば考えていなかった。

「私の部屋狭いからなあ。時仁くんの家は? 鍋セット持ってく」

 時仁くんは駅を挟んで反対側の、背の高いマンションの上の方に住んでいる。オートロックが完備してあり、部屋数も多い大型のマンションだ。すぐに帰れるように職場の近くで、安心して過ごせるように防犯対策がされている。

 嗜好品や趣味にあまりお金を使わない彼は、「よい睡眠」を大切にしていた。寝汚い私とは真逆に、きちんとした順序を経てきちんと眠る。不規則なはずの生活でそれを守れるんだからすごいと思う。

「……いい、けど」

 長い沈黙を経てから時仁くんが返事をして、私は彼の右の口角が上がっている気がした。

 桃子は私の手から逃れて、林檎を咥えてゲージの隅へ行ってしまった。

 約束を取り付けて電話を切る。晩ご飯の準備、面倒だったからラッキーだ。遅い時間になってしまうのは空腹具合からすると少し辛いが。

 時仁くんが仕事を終えるまで時間を潰してから準備をして、私は重たい荷物と共に家を出た。

 スーパーに立ち寄って野菜を少しだけ買う。ここからしばらく歩くと、すぐに時仁くんが住むマンションだ。

 玄関で時仁くんの部屋の番号を入力する。開けて貰ったドアを通り、エレベーターで七階まで。

「あ」

 私はその瞬間、やっと気が付いた。どうして時仁くんが、電話口で狼狽えていたのか。

――あんたの恋愛経験が中学生レベルだからそんなこと言えるんだよ。

 脳裏にへばり付いている同僚の台詞が蘇る。そうかこれが俗に言う、男の人の部屋に二人きり。







 ぎこちなくなってしまった私の笑顔とは対照的に、時仁くんは不気味なほど爽やかな微笑みを見せた。考えすぎだっただろうか。少しほっとして、私はうるさい心臓を落ち着かせるために室内を見回した。

 この部屋に入るのは二度目になる。引っ越し祝いに訪れて以来だが、物が増えている位で大きな変化はない。それは実家も同じなのに、何故だか時仁くんの部屋が騒がしくなるのは微笑ましかった。

 物を捨てるのが苦手な時仁くんの部屋は、整頓されている筈なのにごちゃごちゃしている。お隣さんだった頃もそうだった。色んなもので部屋を溢れさせて、見かねたユキちゃんが強引に纏めて捨てていた。今はこの部屋が溢れかえってしまったら、どうするんだろう。

「すごい、豪華だね。すぐ準備するよ」

 私の荷物を開いて、時仁くんが目を輝かせた。腕まくりをして、食材を手にキッチンへ向かう。そつがない彼なら、きっと本当にすぐに準備を済ませてくれるのだろうと思われたが、手伝うために後を追う。

 手を洗っているとハンドクリームの容器が目に入り、その銘柄に私は思わず声を上げた。

「これ、高いハンドクリームじゃない? いいなあ」

 冷蔵庫を漁っていた時仁くんがこちらを顧みて瞬きした。

「へ? そうなの?」

「あ、もらい物?」

「お礼にって臨床心理士の人がくれたんだけど、高価なら少し悪いなあ」

 言いながらも手際よく作業を進めていく時仁くんに、私は首を傾げた。

「お礼?」 

「前に飲み会の後タクシー代奢ったことがあって。律儀だよね」

 タクシー代を現金では返さず男性を立てておき、そのお金よりもほんの少し安価な消え物の贈り物を渡す。もっと言えば、時仁くんは自分ではあまり関心がないが乾燥肌で手が荒れやすい。なるほどいい贈り物だ。

 私は真空パックを開きながら、白菜をざく切りにしていく時仁君の横顔を見上げた。通った鼻筋に口角の上がった口元。荒れていたはずの薄い唇が、いつの間にかしっとりと潤いを取り戻していた。そうだ、リップクリーム、忘れてた。

 私はいつの間にか手を止めていた。

 料理は好きだけどする時間がないな。それにしても、野菜の値段が今年は特に高い。寒いからかな。寒いと言えば、最近また一気に寒くなったね。

 時仁くんはぽつぽつと世間話をしながら着々と鍋の準備を進めていって、私は大した手伝いも出来ないまま、寄せ鍋がコンロの上でぐつぐつ音を立て始めた。

「お鍋、見てて」

 時仁くんはそう言って、包丁とまな板を綺麗に洗ってしまい込むとリビングに移動した。戸棚を開ける音や食器がぶつかる音がする。テーブルの上にカセットコンロとお椀を並べているようだ。

 私は鍋をじっと見つめてただ耳を澄ませていた。

 そういえば時仁くんももういい歳だから、彼女の一人や二人、居てもおかしくない。最後に時仁くんの恋愛事情を聞いたのは私が高校生の頃だし、それも彼女と別れたという話だった。顔も悪くないし背も高いし、なにより医者という職業についた今、彼を狙っている女性も少なくないだろう。そのうち、結婚もするのかな。

 口の中で小さく呟く。

「結婚かあ」

 私は幸せに、なりたいとは思わない。六年前のあの日、ユキちゃんが私を庇ったあの瞬間から、どうやって生きていけばいいかわからなくなってしまった。ユキちゃんが出来なかった結婚を、私がするというんだろうか。それともユキちゃんの分まで、幸せになるべきなんだろうか。ユキちゃんなら、どうするんだろう。

 沸騰した鍋からスープが吹きこぼれて、私は慌てて火を止める。時仁くんはすぐに駆けつけてくれて、心配そうに「大丈夫?」なんて問いかけてくれる。頷くと笑いかけてくれて、重たい鍋をリビングに運んで私を呼んでくれる。テーブルの上は見事に整っていて、ああもう私は、こんな風にしてもらえるような人間じゃないのに。

 湯気の立つ鍋を挟んで、私たちは向かい合わせに座る。

「そういえば、話って?」

 食べ頃を見計らう真剣な様子の時仁くんに切り出してみると、彼は眉をきゅっと寄せてもっと真剣な顔になった。

 ぐつぐつぐつぐつ、鍋が音を立てている。

「一緒になりませんか」

「……いっしょに?」

 時仁くんは至極ゆっくりと首肯した。くせ毛頭の隙間に覗いた耳が、赤く染まっていた。

「これでも、律ちゃんのことは少しくらい解っているつもりなんだ。主治医としてだけじゃなく、一人の幼なじみとして、友人として、兄代わりとして。だからもちろん、すぐに返事はしなくていい。ただ一度、考えてみて欲しいんだ。僕に君を、幸せにさせて欲しい」

 情けない顔の私を映す時仁くんの瞳は、熱っぽさを含んでいて私は何も言えなくなる。

 ぐらぐら煮えている鍋に目を逸らして、滲んでくる涙を堪えた。

「ありがとう。少し考えさせて」

 どうにか口にすると、時仁くんは長く息を吐いて額を押さえた。

「はあ、緊張した。じゃあ、せっかくだから、食べようか」

 私の前に置かれたお椀に取り分けてくれるその大きな手を眺めながら、私は何故だかあのハンドクリームのパッケージを思い浮かべていた。

 私じゃ彼に、高いハンドクリームなんてプレゼントしてあげられない。真似をして、同じ事をすることは出来るけど、そういうことじゃないのだ。

 母のお土産だけでなく、私が買い足した食材や時仁くんの冷蔵庫の中身を総動員した寄せ鍋は豪華なものになっていたけれど、熱くてあまり味を覚えられなかった。私の猫舌は、こんなにも酷かっただろうか。






 困ったときの「ユキちゃんだったら」が今回ばかりは使えない。実の兄に告白されたユキちゃんの反応を想像しても、どうしようもないからだ。

 我が家へ帰ってきた私は、すぐにシャワーを浴びて薬を飲み込んだ。モルモットの桃子には出かける前にご飯をあげてあるからすぐに寝れる。

 生乾きの髪のまま、ベッドへ倒れ込んだ。布団の中で膝を抱えて、目をぎゅっと瞑って彼を待つ。

 時計の音が反芻して、脳のあちこちから聞こえてくる。

「こんばんは。君に眠りを届けに来たよ」

 待ち望んだその声は、やっぱり高くて掠れていて、でも甘い響きを持っている。

 私は瞼を持ち上げて、揺れる世界の真ん中に彼がいることを焼き付ける。まっすぐな髪に目尻が少し垂れた大きな目。私なんかよりずっと可愛い顔はいつもいたずらっぽく笑みを称えている。

「ほらやっぱり、律は俺のこと好きなんだよ」

 律という名前が、気に入っていた。彼の唇が少し笑った後にすぼめられるから。

 すっかり泣きたくなって、私はぐにゃぐにゃに顔を歪めた。床に腰を下ろして、羊使いはベッドの上の私を上目遣いに見上げる。

「だから時仁のこと、好きになるのが怖いんだ」

 ああそうだ、そうだった。私はずっと怖かった。こうしてみたら、なんてことない簡単なことだった。私は彼が好きだった。名前を付ける事を先送りにして、傷つかないように自己防衛ばかりに必死になって、夢中で逃げ込んだ海の底で、息が出来ないことにようやく気がついた。感情に先回りして通せんぼして、いつの間にか自分で自分を動けなくしていた。

 いつだってそうだ。嫌われる前に嫌って、逃げられる前に逃げて、離れられる前に離れて、バカにされる前にバカにして、見下される前に見下した。張り巡らせた予防線は絡まってほどけそうもない。

「ほどけないなら、切っちゃえばいいんだよ」

 当然のように羊使いは言って、指で作った鋏で私の鼻先の空気を切る。

「じゃあ、切ってよ」

 私が言えば、そっと首を横に振る。

「俺にはもう切れないよ」

 どうして。

「だってもう、死んじゃったから」

 目の前が捻れる。服薬した薬のせいなのか、もうわからなかった。

「ごめんね。ユキちゃん」

 彼は優しい顔で小首を傾げた。




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