羊が六匹
我ながら、悲しいくらい似合っていると思う。
ガラスに映る自分の姿に、私は一つ頷いた。
十月三十一日。俗に言うハロウィン当日。一体いつからハロウィンが日本に浸透したのか疑問だが、とりあえずイベント事には便乗するのが私の職場の特徴だ。
何か案を出せと言われて、私は軽い気持ちで「仮装でもしましょうか」と答えた。まさかあの鵜野さんが、了承するとは思わなかったのだ。
仮装と言っても、本格的なものではない。雑貨屋に並んでいた被り物を適当に人数分買ってきただけ。
私が被ることになったのはお化けカボチャで、これが私の丸顔にピッタリだった。進路課に配属されている同期などはわざわざ図書館までやって来て、「それを被るために生まれてきたんじゃないか」と神妙な顔をしたものだ。自分で選んだだけに誰にも文句を言えないのが憎たらしい。
ガラスの向こうでは風が強く吹いていて、端が黄色くなった広葉樹が葉を揺らしていた。もうすぐ冬がやってくる。冬は、六年前から嫌いだ。ユキちゃんがいなくなった季節だから。
カウンターに戻ると、鵜野さんの前に小さな人だかりが出来ていた。どうやら、大人数のグループが順番にお菓子を手に入れようとしているらしい。
被り物は今年が初めてだが、本の貸し出し時に「トリックオアトリート」を言うとお菓子が貰えるというイベントは去年もやっていた。たった一言でチョコパイが貰えるんだからお得だと言えばお得だが、二十歳そこそこの学生達が羞恥心を捨てるというのは難しい様で参加者は少ない。大抵はこうして、友達同士で笑い合いながらチョコパイを手に入れてゆく。
残ったら私の懐に入るから、参加しなくてもいいのに。
私は鵜野さんの補助をしようと近付いていって、思わず笑いそうになったのを堪えるために頭を振って神妙な顔をした。
今まさに、先程の同期の気持ちがよくわかる。「それを被るために生まれてきたんじゃないか」と言いたくなる程、鵜野さんは大きな魔女の帽子が似合っていた。
本当に興味があるのか怪しい本を一冊ずつ借りて、学生達が和気藹々と図書館を後にしてから、私はもう一度鵜野さんを見やった。
「何か?」
私の視線を受け取った鵜野さんが問いかけてくる。相変わらず威圧感のある風体なのに、帽子一つでこうも親しみやすくなるものなのか。ユキちゃんなら、こう言うだろうな。
「すごく似合いますよ、それ」
心で思っただけのつもりだったのに声に出してしまっていた。
鵜野さんは目をパチパチさせてから、顔を赤くした。
「嬉しくないわ」
そっぽを向かれてしまった私は、ぎゅっと眉根を寄せた。雑務に戻ってから、指先で眉間の皺を伸ばす。あれ?
「正直、ちょっとときめいた」
「ギャップ、だね」
羊使いはケラケラ笑って、ベッドの縁に頬杖をつく。
やっぱり、ユキちゃんはすごいな。私だけの思考能力では、鵜野さんのあんな一面を知ることはなかった。決して人付き合いが上手くない私は、何か困ったことがあるとすぐに「ユキちゃんなら」を考える。ユキちゃんは人に好かれるという点では驚異的な才能を持っていた。それはきっと、ユキちゃんが人好きだから。ユキちゃんは生き物全てを愛していた。
「人間って、大体三ヶ月で別人になるって知ってるよね」
「ああ。細胞の代謝周期の話?」
私は羊使いの問いに寝転んだままで首肯する。
「約九十九・八パーセントが別人になって、残るのはたった五百十二分の一。そんな自覚私にはないし、習ったときはぴんとこなかったけど、周りの人を見てたら確かにみんな変わっていくなって」
両親の離婚は、三ヶ月弱前のことだ。理論上、母が別人になるまで後二週間ということになる。なんて、ナーバスになりすぎかもしれないけれど。
「でも、そこまで体が別人になっても、記憶とか心とか、残り続けるものがあるのって、すごいよね」
目を細める羊使いに、私は突然気恥ずかしい心持ちになった。
「そんな柔軟な発想力が欲しかったよ」
「発想力なんて、律にだって十分あるよ。ただ、言葉にするのが下手なだけ」
「そう?」
首を傾げる私に、羊使いはあっけらかんと言いのけた。
「だって律、大事なことを言葉にするの、苦手だろ」
私は目を丸くして息を止めた。口を開いたら、溺れてしまう気がした。
羊使いも黙り込んで、にわかに寝室が自分の部屋でない空間のように感じられる。
「……名言ってあるでしょう」
「あるね」
「あれって、言葉そのものよりも発言者の方が重要なんじゃないかと思うんだよね。やっぱり、世界中の人間の命を背負っている人と、モルモット一匹の命を背負っているだけの人間では言葉の重さが違うじゃない」
「詩的だねえ」
「自分の言葉に価値を感じないんだよね」
「他の誰が聞いてもくだらない事でも、自分自身には大事な事もあるんじゃない?」
そう言って、彼はもう寝なよ、と私を促す。大人しく従って、布団を被り目を閉じた。
羊が一匹、羊が二匹。
「――ねえ、それって呪文なの?」
やっぱりまだ眠る気になれずに、私は瞼を薄く持ち上げ訊ねてみる。羊使いはうーんと唸って、腕を組んだ。
私は小さな羊を一匹捕まえて、掛け布団越しのお腹の上へ乗せた。額を撫でてやると羊は目を細める。あ、羊ってちょっと時仁くんに顔が似てる。
「呪文と言えば、呪文かなあ。誰でも使えるけどね」
羊使いがのんびりと答える。誰でも、ねえ。
「私には使えないけど?」
「使えないと思ってるから使えないんだよ」
「そういうもんかなあ」
「いたいのいたいの飛んでけ、と同じだよ。時仁のやってるとこと大してかわらない」
「時仁くんがやってること?」
「ほら、もういいから早く寝なよ。続き数えてあげるから」
納得のいかない私を宥めて、羊使いはまた羊を数え始めた。仕方なく瞼を下ろして意識を彼の声に集中させる。
眠りに落ちる寸前だった。不意に羊使いの声が止まった。
短い沈黙の後で、私は確かに、聞いた。
「律ってさ、俺のこと好きでしょ」
目を瞠ると、いつの間にか私の顔をのぞき込んでいた羊使いは微笑みを浮かべていた。その色素の薄い瞳が持つ甘ったるさに絡め取られて、目が離せない。