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猫舌の私は夢をみない  作者: 雨咲まどか
一章 不眠症と夢の話
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羊が五匹



 ほとんど冷たくなってしまったコンビニ弁当の前に箸を置いて、私はお腹を押さえた。それなりに空腹だったはずなのに、もう少しも入りそうにない。

 シャワーを浴びて、私は髪が濡れたままで低いテーブルの前に座っていた。テレビも音楽プレイヤーも消してしまって、静かな部屋だった。

 思えば、こんな風に夕食を済ませるのは初めてだった。母が私に教え込んだ夕食の大切さが、無意識のうちに働いていたらしい。お総菜を買って並べるよりも更に簡単な、お弁当をレンジに入れるだけの作業をしているうちに、どんどんと食欲が無くなってしまった。

 母は時間があればキッチンに立っていた。料理が好きなんだと思っていたが、今になってみれば、まるで何かに怯えているような必死ささえあった。こうしてあの夫婦の真実を知った今、これまで食べてきた料理の味が、ぼやけて上手く思い出せなくなってしまった。どんな気持ちで母はあそこに立っていたのだろう。八年もの長い間。

 私は立ち上がって、半分近く残っているお弁当をゴミ箱の上でひっくり返した。ああもう、全部嫌いだ。

「桃子だけだよ、私には」

 ゲージを開けて、モルモットの桃子を部屋に放した。ラグの上をうろうろと歩き回るその丸い体を目で追いながら、私は膝を抱えた。

 子どもが成人済みの夫婦は、離婚しても子どもに対して親権なんか存在しない。当然だ。私は自動的に父の苗字のままで、母だけが旧姓に戻った。もし私が嫁に行けば、三人とも違う名前になる。二ヶ月前まで同じ名前だったのにな。

 以前見たテレビ番組で、アナウンサーが言っていた。近年熟年離婚が流行しているらしい。

 離婚するくらいなら、どうして結婚するんだろう。私が言うと、すっかり出来上がっていた同僚は「あんたの恋愛経験が中学生レベルだからそんなこと言えるんだよ」とビールを煽った。私はぐうの音も出ずに、同じペースでお酒を飲んだ。そうしてすっかり酔いつぶれて、母に日用品をねだってしまったのだ。

 もう寝てしまおう。私は立ち上がりコップに水を入れて、戸棚から薬の入った袋を取り出した。すると桃子が私に近寄ってきて、鼻先で足を突く。彼女はビニール袋の音がすると、何かおやつが貰えると勘違いするのだ。

「さっき晩ご飯食べたでしょ」

 仕方なく小動物用のドライフルーツの袋を開ける。手の平に少しだけ出して膝を付くと、すぐに私の足をよじ登ってくる。それがくすぐったくて私は笑った。桃子は私から奪うみたいにドライフルーツを平らげてゆく。

 散歩もしおやつも食べ、満足したらしい桃子を持ち上げてゲージに戻した。薬を水で飲み込んで、歯磨きをして寝室へ。

 読み始めてからもうかなり経つのに一向に進まない小説を開いて、しばらくすると眠気がやってくる。照明を切り替えて布団に潜った。こんなに早い時間に眠ろうと思えるようになったのは、きっと少しでも早く会いたいからなんだと、思う。

「こんばんは。眠りをお届けに来たよ」

 わざとらしくキザな口調で言って、羊使いは得意気に笑った。彼はいつもニコニコして、嘘かホントかわからない事を口にする。

 私はそれを一瞥して、目を閉じた。

「――わ! ね、律、ちょっと! 見て!」

 焦りを滲ませた声に私が瞼を持ち上げると、鼻先に彼の顔があった。両手で頬を引っ張って、寄り目をしている。

 変顔をしたまま動かなくなった羊使いに、私は少し笑ってしまう。すると彼はぱっと手を放し、頬をさすった。

「またしても勝ってしまった。これで何連勝だろう」

「そりゃ、私が笑うまでずっと続けるんだもん」

 私は寝返りを打って、感慨深げな羊使いに背を向けた。いつも急に始まる睨めっこに私は負けっ放しだった。

 静寂が訪れて、目覚まし時計の音だけが響いている。普段なら聞こえてくる筈の羊を数える声も羊の鳴き声も一向に聞こえなくて、その代わりに羊使いが酷く無邪気に、私の心と同時に同じ事を呟いた。

「所謂、仮面夫婦ってやつだよね」

 私は布団の中で体を丸めた。

「言い当てないでよ」

「それは失礼」

 またくすくす笑って、羊使いはベッドに背を預けるようにして床に座った。その衣擦れの音が、彼が本当にそこにいるのだと私を安心させた。

「離婚したって聞いて、最初は別に、平気だった。今時珍しい事でもないし、まあまさか自分の親が離婚するとは思わなかったけど」

「そっか」

「けど、なんだか、ちょっとしたきっかけで思い出が色褪せてくるんだよね」

 カルボナーラが胸焼けをおこす様に、ほんの些細なきっかけが過去を塗り替える。食事中にテレビを付けるようになったのは、そういえば八年前くらいからだったとか、父が帰ってこない夜の食事は鍋が多かったとか、そんな気に掛けたこともなかったような思い出が、勝手に辛い思い出に変換されていく。真相なんてわからないのに。

「律は大切に育てられたんだね」

 見つめていた壁がぼやけて、私は枕に目元を押しつけた。その通りだった。私は幸福な子どもだった。だからその幸せが、偽物になってゆくのが怖いのだ。

 羊使いが羊を数え始める。私は寝返りを打って、帽子を被ったままの彼の頭を見やった。この帽子の下には角が生えている。彼は一体、なんなのだろう。

 微かに意識が沈んでゆく。睡眠導入剤は、少しずつ効きにくくなっていた。時仁くんは「減らしていこう」と言っていたが、減らせるとは思えない。

 だって私はきっとまだ、治りたく、ないのだ。





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