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猫舌の私は夢をみない  作者: 雨咲まどか
一章 不眠症と夢の話
4/13

羊が四匹


「いやあ、父さんがバイだったとは、二十四年も気付かなかった、びっくり」

「……妙に落ち着いてるね」

 話をしていた私のオムライスよりもずいぶん残っているグラタンから手を放して、時仁くんは額に手を当てた。

 私はうーんと唸ってから、肺から絞り出すみたいに息を吐いた。

「なんだろう。意味はちょっとずれちゃうけど、ホメオスタシスが機能してる感じかなあ」

「安定した状態を維持するために環境の変化に適応する事、だっけ。……そうやって知性化するのもいいけど、俺にくらい、もっと話して欲しいな。君がほんとに思ってる事をさ」

 時仁くんはどこか寂しそうに目を伏せた。どうにも私は、彼の優しさや思いやりを、上手く受け止められない。悲しませたい訳じゃ無いのにな。

 細い目をもっと細くして、時仁くんは少し笑った。

「ご両親の離婚の事もさ、話して欲しかったな。何も出来ないかもしれないけど、辛い時くらい頼って欲しいんだ」

「時仁くんには、もう十分すぎるほど頼ってるよ」

 本当は病院なんか、行きたくなかった。だけど時仁くんが診てくれるなら、悪くないかと思ったのだ。私の事を憎んだって可笑しくない筈の彼がここまで優しくしてくれるだけで、私は罪悪感でいっぱいになるのに。

「りっちゃん。感情の言語化っていうのは、臨床心理学の上でも重要とされてるんだ。言葉にするプロセスを経ることで、感情を明確化させられる。そうやって自分の感情と向き合う事で、心身の安定に繋がる」

 難しい言葉に自分を押しつけて逃げる私がちゃんと聞くように、時仁くんは授業でもしてるみたいに固い声で言った。こうなると、先に同じ方法で話をずらそうとした私は納得せざるを得なくなる。何だかんだと言って、私は彼に口で勝てた試しがない。

 私は誤魔化すようにチキンライスを口内に詰め込んだ。

 控えめな着信音とバイブレーションの音が鳴り、時仁くんが「失礼」と立ち上がる。私はひらひら手を振って、携帯電話を手に席を離れる彼を見送った。

 ふと、チキンライスを飲み込んで、私は自分の携帯電話を取り出すと指先で検索画面を開いた。『知性化』と打ち込むとすぐに検索結果が表示される。

「うげ」

――知的な言葉を使用したり一見論理的な思考を用い、自身の感情の直視から逃避すること。

 私はすぐに携帯電話を鞄にしまい、平常心を装ってオムライスに向き直った。しばらくすると時仁くんが謝罪の言葉と共に戻ってくる。私はその視線から思わず目を逸らした。心理学用語らしい『知性化』は、私に多大なダメージを与えていた。

 この現代社会においては、人の言動でさえいくらでも研究され尽くしているようだ。見事な分析力。そうだ彼は医者だった。こうも綺麗に自分の性質を言い当てられると、思いもよらぬ恥ずかしさがある。悲しくなるほどお見通しだ。大量の水を飲み込んだみたいに、私は息苦しくて胸を押さえる。

「流石としか言いようがないです」

 うなだれる私に、時仁くんは不思議そうに首を傾げた。







 無事に旅行から帰ってきた母から届いたメッセージは、『お土産沢山あるから来て』の一文だった。驚くほどシンプルなそれに、私も『わかった』とだけ返し、休日に予定していた用事を済ませたその足で実家へ向かった。お土産とやらを受け取って、なんならついでに晩ご飯でも食べさせて貰ってから帰宅しようと、安直に考えたのだ。

 思えば、あの日からもう二ヶ月以上経っている。父はとにかく、母とまでずっと会っていなかったのは悪いことをしたかもしれない。きっと寂しかっただろう。

 ただ一つ予想だにしていなかったのは、ドアを開けて一歩踏み入れた瞬間から、この家の異変を肌で感じることになったことだった。

 父が居なくなった分、減るはずの靴が増えている。全て女物だが、見たことのない新しいものばかり。靴箱の上には大仰な花が飾られ、ジグソーパズルが壁に掛かっていた。

 私はショートブーツのジッパーを下ろす手を止めて、やけにカラフルな花束を観察した。ガーベラやらスプレーバラやらカーネーションやらかすみ草やらが、見たこともない大きな花瓶に生けられている。母はショックで風水にでも嵌まってしまったのだろうか。

「おかえり。上がらないの?」

 ただいまを言ったきりなかなか姿を現さない私を不思議に思ったのか、母が廊下に顔を出した。少し強すぎるパーマの掛かった髪も、年齢の割に丁寧な化粧も、その風貌は、二ヶ月前となんら変わらなかった。

「どうしたの、この花」

 私が問いかけると、母は別に、と笑った。

「いいから早くこっち来なさいよ。何がいいかわからなくって色々買ってきちゃった」

 不気味なほどご機嫌な母の後を追うようにリビングへ。私の嫌な予感は的中していた。

 なんじゃこりゃ。

 私は口内で呟いた。

 小学生の背丈くらいありそうな大きなクマのぬいぐるみ。棚の中にこけしが二体。アニメキャラクターのフィギュアやどこかのご当地キャラクターのマスコットはテレビの上に。テーブルの上には小さなサボテンが置かれ、部屋の隅に背の高い観葉植物まで。ついでに今回のヨーロッパで買ったであろう置物も空いたスペースを埋め尽くし、沢山の紙袋がソファに座っている。父が居なくなった穴を塞いであまりある程の物が、リビングを騒がしく染めていた。

 むしろ二ヶ月前よりも狭くなったリビングで、私は戸惑いながらテーブルについた。両親がさよならを持ち込んだ食卓だ。

 お湯が沸く音がキッチンから聞こえる。もっぱらコーヒーばかり飲んでいた母には珍しく、アールグレイの香りがしていた。

「最近この茶葉が気に入ってるの。あの人がコーヒー好きだったから合わせてたけど、紅茶って美味しいのね」

 私の前に湯気の立つカップを置いて、母はゆったりと微笑んだ。口に運んでみると熱くて飲めず、私の舌は学習する気がないようだった。

「どうして急にヨーロッパなの」

 ずっと聞きそびれていた疑問を口にすると、母は私の言葉から逃げるみたいにカップを手に取った。

「約束してたのよ。離婚するって決めた時に、条件として提示したの。離婚するならヨーロッパ一周旅行をプレゼントしろって」

「……ヨーロッパ好きだったっけ」

「人並みにね」

「なにそれ」

 私はすっかり呆れてしまった。この人はどこかずれた価値観を持っている。私と父には理解できない事が度々あって、その都度「二対一なんて卑怯だ」とふて腐れていたっけ。

 癖のある紅茶の香りが鼻腔を通り抜けた。母は確か、今年で五十になる。五十年経ってから彼女はこの紅茶の良さを知ったのだ。もしかしたら、一生知らなかったかもしれないことを。

「父さんから聞いたよ、離婚の原因」

「……あの人だけのせいじゃないのよ」

 殊勝なことを言う母に、私は僅かに苛立った。ちゃんと知ってるの? 八年だよ。父さんは八年も、私を騙してた。

「私も八年前から、知ってたの」

 母の声は静かだった。知った上で一緒に隠していた母が同罪だというのなら、私はどうすればいいんだろう。せめてどちらかの、味方でいさせてくれないものなのか。

「じゃあどうして今になって離婚なの?」

「恋人が出来るのと、父としての責任を放棄するのは別物でしょ、って話し合ったのよ。律が独り立ちするまではちゃんと責務を全うして。その後なら、貴方の好きにしていいからって」

 紅茶が冷めてゆく。

「気にくわない事がある度に、離婚の条件沢山付け足しちゃった。実は旅行以外にも、色々させてもらったの。ホテルのバイキングとか、ワンカット千円のフルーツタルトとか、たっかいエステとか。いい歳して、やっちゃった」

 母の笑い声が、私の心を海へ突き落とした気がした。いつから私は、こんなに呼吸が下手くそになったんだっけ。

「そういうものじゃないでしょう。旅行とかタルトとか、そんなもので解決出来るような、そんなものじゃないでしょ。なんで怒らないの? 裏切りだと思わないの?」

 結婚というのは、将来を誓い合うものじゃなかったか。何のためにあの紙を書いたんだ。

 私の怒りとは裏腹に、母は困った顔をしていた。

「ちょっと、どうしたの。恐い顔して」

「……私この後用事あるから、もう帰るね。お土産ってどれ?」

 腰を上げると、母は慌ててソファの上の袋をいくつも差し出した。好きなの持って帰って、と言われたので、私は中身を確認せずに全部持って玄関へ向かった。

 飾られた花が、忌々しい。こんなもの飾るくらい、落ち込んでいるくせに。部屋をあんなことにするくらい、傷ついてるくせに、馬鹿みたいだ。

 私は挨拶もそこそこに家を出た。少し歩いた先にあるバス停のベンチに腰掛ける。駅までのバスは、まだまだ来ないようだった。重たい荷物のせいで指先が痛い。そうだ、晩ご飯どうしよう。



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