羊が三匹
噂をすれば、だろうか。
時仁くんに打ち明けた数日後、あの離婚宣言の日以来ほとんど音沙汰の無かった母から連絡があった。
『明日から一週間ヨーロッパへ行ってきます。お土産は何がいい?』
飲み会後のぼんやりした脳を電車で揺らされながらそのメッセージを見た私は、生まれて初めて驚きが酔いを覚まさせるという状況を味わった。
電撃離婚から二ヶ月。父が出ていったあの家で暮らしていた母にどんな心境の変化があったのかはわからない。けれども、決して旅行好きな訳でも海外が好きな訳でも無かった筈なのに、一週間も、それもヨーロッパなんて急にも程がある。
『急にどうしたの?』
私は一度打ち込んでから、送信ボタンを押せずに画面を見つめた。全て消して、書き直す。
『実用品で』
送り終えた画面を眺め続けていると暗くなって、自分の顔が映った。
アナウンスが最寄り駅の名前を知らせている。私は少しふらつく足で立ち上がり、電車を降りた。
飲み過ぎてしまったかもしれない。いつもよりもなんだか、飲みたい気分だった。
お酒を飲んだ時は薬を飲まない方がいいと時仁くんに言われているから、今日はこのまま寝なくちゃいけないな。あの声を聞けないかもしれないのは、寂しいけれど。
改札を抜け階段を降りて、マンションへ向かう。少し冷えるから、私もそろそろ防寒対策をはじめなくてはいけない。時仁くんは寒がりすぎだけど。
すっかり帰宅が遅くなったせいで空腹であろう桃子に謝りながら餌をあげる。化粧だけをなんとか落としてベッドへなだれ込んだ。すぐに意識が薄くなってくる。完全に飲み過ぎた。ぐわんと歪む天井に目が回りそうで瞼を下ろす。
あの声と、羊の鳴き声が聞こえてくる。睡眠薬は飲んでいないのに、
「どうして」
朦朧とした意識の中で羊使いが笑う気配がした。
「取引、したでしょ」
そうだけど、じゃあ彼は、何なんだろう。副作用じゃないなら、一体。
携帯電話から通知音がして、ベッドの横に放り投げていた鞄を手繰り寄せる。ピカピカと眩しい通知画面に「おっけー」という文字が見えた。
何がオッケーなんだ。なんにもオッケーじゃない。言ってやりたいけれど、文字を打つ気力も湧かない。
ベッドの上を、小さなオーストラリア・メリノが占領してゆく。
羊使いが現れるようになってから、もう二週間近くの日が流れた。
「人は死んだら、どうなるんだと思う?」
「……急だね」
久しぶりに医者と患者としてではなく、幼馴染みとして会った時仁くんは、ニットの袖を捲って腕を組んだ。
私はサラダを突きながら、確かに食事の序盤に提示すべき話題では無かったかもしれないと反省する。ドレッシングがふんだんに掛けられたブロッコリーは、噛めば噛むほど塩辛くなった。
このレストランの窓際のテーブルは、駅前の通りが見えるから私のお気に入りだった。私が独り暮らしを始めてから、時仁くんは仕事の合間を縫って私を夕食に誘うようになった。駅前を制覇するみたいに、色んな店を転々と渡り歩いてゆくこの時間が、私は好きだった。つい一年半前まではほとんど知らなかった場所に色を塗ってゆく様な時間だと思って、この提案をした時仁くんはやっぱり良い人だと思った。
「なりたいものに、なれるんじゃないかな」
時仁くんの返答は意外なもので、私は瞬きした。
「なりたいもの?」
「友達の受け売りだけどね。人は死んだら、なりたいものになれるんだって」
「それはちょっと、難しいんじゃない?」
だってそれじゃあ、死ぬのも悪くない。浮かんできた思考を沈めて、私は少し俯いた。なんて不躾な質問を、してしまったんだろう。
「そうかなあ」
可笑しそうに彼が笑って、料理が運ばれてきた。私のオムライスと時仁くんのマカロニグラタンが湯気を立てている。寒がりで冷え性の時仁くんは、いつも熱い物ばかり食べている。今日だって、スープにグラタンにホットコーヒーと、体を温めることに関しては余念が無い。
「私はね、人は死んだら、就職するんだと思う」
「就職?」
「そう。生前の特性とかを見て、神様が仕事を斡旋するの。時仁くんなんか、寒がりだから温かい場所に派遣されるんじゃないかな」
「それはありがたいなあ」
まだまだ熱い筈のグラタンを、彼はなんともなさそうに口へ運ぶ。猫舌の私には羨ましい。
「そういえば、猫舌ってただ熱い物の食べ方を学習できてないだけなんだって」
「へえ」
「時仁くんは熱い物が好きだから、沢山食べたり飲んだりしてる内に熱い物を上手く食べれるようになった、ってこと」
「てっきり遺伝かと」
「時仁くんのくせ毛は遺伝だけどね。優性遺伝子だからしかたない」
好き勝手にうねる彼の黒髪を眺めて私が笑うと、時仁くんは自分の頭を撫でて眉と眉を寄せた。
「これでも昔よりはましになったんだよ」
「ユキちゃんのストレートは奇跡の確率だよね」
両親共にくせ毛なのに関わらず、ユキちゃんはさらさらのストレートだった。この条件下で劣性遺伝子である直毛が遺伝される確率は、十パーセント程度だ。それを兄である時仁くんに自慢するユキちゃんが面白かったのをよく覚えている。
「りっちゃんも真っ直ぐじゃないか」
「うちは二人とも直毛だからなあ」
私は内巻きにした髪を指先で摘まんで、両親の顔を思い浮かべた。離婚したとはいえ、私は間違いなくあの二人の子どもだ。両親が離婚を決めたのは、私が高校生の頃らしいから。
二呼吸分ほどの沈黙が流れた。私は時仁くんの口元をじっと見つめたけれど、猫舌を克服するコツは一向にわからなかった。
「どうしておじさんたちが離婚したのか、訊いてもいい?」
とびきりに優しい声で彼は言った。店内にはピアノの曲が流れていて、私は曲名を思い出すついでにあの日のことも思い出した。
「もしかしたら父さんの沽券に関わるかもしれないんだけど」
いや、もしかしなくても、か。
私が真面目な顔をすると、時仁くんも真面目な顔をした。
「父さん、ずっと前から恋人が居たの」
あの日の帰りは、父が車で送ってくれるのだと約束していた。だから離婚話の後、私は桃子を抱えて父の車に乗り込んだ。まるで死角に入り込むみたいに、運転席の後ろで、ぴったりドアにくっついて。
父の姿は白髪が混じった後頭部のてっぺん以外見えなくて、私はルームミラーを見ないようにずっと窓の外を眺めていた。
私の横では、桃子がガサガサと音を立てていた。初めて車に乗った時は緊張して固まっていたのに、今では慣れたものだ。
信号が赤になって、車が停止した。混んでいる車道に、蜃気楼が出来ていた。
「ねえ、どうして離婚するの?」
「……父さんが悪いんだ」
噛みしめるみたいな声色が、情けないと思った。この人が自身を「父さん」と言うことに、初めて違和感を覚えた。
「浮気?」
返事が無いままに車は動き出した。否定しないと言うことが、答えだった。
「どうして浮気したの?」
また返事は無かった。
「いつから浮気してたの?」
「――八年くらい前からだ」
長い逡巡の後に、父は漸く口を開いた。私はそれでも、外を眺め続けた。
「すっごい前からじゃない」
「申し訳ない」
車が角を曲がると、窓に太陽が照りつけてきた。熱くて眩しかったけれど、私は頑として動かずにいた。
八年前。私が高校生の頃だ。そんなそぶり、見せなかったくせに。ずっと父親だったくせに。何を今さら、申し訳ないだなんて言っているのか。そもそも、あんたもう四十八じゃないか。何をいい歳して、八年も恋愛して、今から再婚するつもり?
「相手は?」
「うちの事務員」
父は弁護士をしていた。三十代後半になってから独立し、小さな事務所を経営している。
「若い子?」
「……俺よりは大分」
「再婚するの?」
「しない」
「どうして」
「出来ないんだ」
じりじりと肌を焼く真夏の太陽と、ここだけ世界から切り離されたみたいな車内のせいで、どうしようもなく長い時間、沈黙があったみたいに思えた。
今になってみれば、多分私はこの時、父が怖くて逃げ出したかったのだと思う。恐怖は人の時間感覚を狂わせる。
「男だから」
私はその言葉の意味を理解できずに、マンションの下へ着くまで押し黙ってただ時が経つのを待っていた。
短い礼を述べて、桃子の入ったケースを持ち上げてすぐにエレベーターに乗り込む。狭い密室で、私はやっと、父の言葉を捕まえた。




