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猫舌の私は夢をみない  作者: 雨咲まどか
一章 不眠症と夢の話
2/13

羊が二匹


「幻覚の副作用?」

 一週間ぶりの診察へやってきた私に、時仁くんは少し眉を寄せた。彼に診て貰うのは二度目だが、まだ違和感はぬぐえない。だって小さな頃から知っている時仁くんが、白衣を着て先生をやっているんだもの。

 四つ年上の時仁くんは所謂幼馴染みで、もう出会って二十年になる。二十年もの間それなりに仲良くしていたともなれば、親戚なんかよりも余程長い時間を過ごしている事になるだろう。

 出会った頃は小学三年生だった彼も、今では立派な精神科医となり、年齢だってあと三ヶ月もすれば二十八になる。二十八。時仁くんが二十八ということは、つまり私は二十四。その二十四という数字は、頭を過ぎる度に私を不安にさせる。

 なんてことだろう。私なんかが、二十四歳。私の母が私を産んだ年齢まで後たった一年しかない。時仁くんが言うには、私の時間は人よりも緩慢なののだとか。

 置いてけぼりになっていく恐怖を口にする度、「少しずつ進んでいけばいいんだよ」と彼は私を甘やかす。そうして時仁くんが私を子どもの頃と同じように扱うから、一層私はいつまでも子どものままなんじゃないのかと思ってしまうのだ。

「うーん。薬との相性がよくないのかもしれないなあ」

 時仁くんはくせ毛頭を掻いて、私のカルテに視線を落とした。荒れた唇と乾いた頬が、彼が大人になった事を示している気がした。今度リップクリームをあげよう。

 私は時仁くんの言葉に首を傾げた。

「相性?」

「睡眠導入剤にも種類が沢山あるんだ。りっちゃんに出したのはこの錠剤。弱い薬で、副作用も睡眠導入剤の中では少ない方なんだけど、入眠時幻覚が起こるなら合ってないのかもしれないね」

 様々な薬の写真と名前や効果が書かれている分厚いファイルを捲り、その中の一つを指差した時仁くんは私の目を見て優しい声で続ける。

「半錠で幻覚が見えた?」

 私はその台詞にぎくりとして目を逸らした。まさか言い付けをすっかり無視して最初から一錠分飲んでいるとは言えない。

「あの、先に言っておきたいんだけど、私全然嫌じゃないの。それに、幻覚なんかじゃないかもしれないし。たまたま同じ夢を何度も見たとか。ただ一応可能性として、訊くだけ訊いておきたかっただけで」

 しどろもどろに話をずらすと、時仁くんは眠そうにも見える細い目を瞬かせた。彼の顔はきっとこの仕事によく向いている。幅の広い二重や口角の上がった薄い唇は、学生時代は部活の先輩や先生に「ぼーっとしている」と誤解される種になっていたらしいが、重ねた年齢によって柔らかい印象の方が強くなった。なんでも話してしまいたくなるような、安心感がある。

「じゃあどんなものを見たのか訊いても?」

「……羊」

 私は僅かに言い淀んで、けれども力強く答えた。

「羊?」

「かなりモコモコしていたし、角が大きくて渦になっていたからメリノ種だと思う。顔も白かったし」

「メリノ種?」

「多分オーストラリア・メリノかな。羊毛を刈る羊の中でも一番有名で数が多い羊の種類なの。羊って訊いて一般的に思い浮かべられるのはこの種類ね」

「その、オーストラリア・メリノが君の家に?」

「私のベッドの上に何匹も」

「よく押しつぶされなかったなあ」

「大丈夫。その羊、みんなこーんな小っちゃかったから」

 両手で大きさを示すと、時仁くんは目を丸くしてから少し笑った。

「ちょっと楽しそうだね。律ちゃんは相変わらず動物に詳しいな」

「まだユキちゃんには勝てないけどね」

 私が言うと、時仁くんの右の口角が少し上がった。困った時の彼の癖だ。たぶん知っているだろうけど、作り笑いをする時は左の口角を意識して高めに上げた方がいいよ。教えたらこの癖が無くなってしまうかもしれないから言わないけれど。

「ユキは……小さい頃から動物が好きだったから」

「そうだね」

 空気が少しだけ重たくなる。身動きが取れなくて息苦しくて、まるで海の底みたいだと思った。ユキちゃんは今でもずっと、私達の心をいとも簡単にいっぱいにする。

 ユキちゃんと初めて出会ったのも、二十年前の事だ。お隣の新築一戸建てにユキちゃん達は引っ越して来た。私とユキちゃんは同い年で、幼稚園も一緒だったからすぐに仲良くなった。しばらくすると、ユキちゃんの兄である時仁くんも一緒に三人で遊ぶようになって、私達は大の仲良しになった。

 小学校も中学校も高校だって一緒だった。互いの家を行き来して、一足先に進学してゆく時仁くんに勉強を教わったり、三人でゲームしたり、あの時はそれがどんなに幸せな時間か考えた事すらなかった。

 ユキちゃんは私よりもずっと可愛くて、人気者で、夢を持っていた。なのにあの子は、突然いなくなってしまった。だから私と時仁くんは傷を舐め合うように、ユキちゃんの思い出を語り合う。

「りっちゃん、本当に何もない? 気がかりなこととか、変わったこととか」

 時仁くんはさり気ない口調で言って、カルテに目を移す。私から何か聞き出すなら出来るだけ興味がなさそうにした方が良い、ということを知っているからなのか、それとも精神科医としてのセオリーなのか、一体どっちなのだろう。

 腕を組んで記憶を探る。

 私は昔から、寝付きが悪い子どもだった。それは年をとっても変わらずに、夜眠る事が苦手なまま大人になった。それなのに、寝付けない夜を我慢できなくなったのは、何故だろう。前よりもっと、眠れなくなったのは何故だろう。それこそ、精神科へ行こうと思うほどに。時仁くんが私から聞き出したいのはきっと、その原因だ。

 変わったこと、か。

「あ。……二ヶ月前の事とかでもいい?」

「もちろん。何でも言ってみて」

「うちのお父さんとお母さん、離婚した」

「――は?」

 わあ私と同じ反応。

 時仁くんの顔が、完全に幼馴染みのそれに戻っている。お医者さんが患者にそんな顔しちゃだめだと思うなあ。

「お盆にね、実家に帰ったの。そしたら、離婚してた。もう離婚届も提出済み」

 ぽかんとしたままの時仁くんに話してみると、ちょっとだけ笑えた。







 今年は酷く暑い夏だったから、お盆休みくらいのんびりと冷房代も気にせず過ごしたいと思い立った時だった。丁度母から「帰ってきなさいよ」と電話が来て、私はすぐに桃子を連れてマンションを後にした。ゲージを入れた大きなボストンバッグを一つ抱えて、タクシーと電車を乗り継いで実家まで。

 滞在していた四日間の内、最初の三日間は何も変わりないいつもの光景が続いていた。父も母もいつもと同じ顔をして、軽口を言い合って笑っていた。

 最終日の昼食はカルボナーラだった。母の得意料理であり、私と父の好物でもあった。私は昼過ぎには帰るつもりで荷物も纏め終わっていて、またしばらく母の手料理を食べられない寂しさを、スパゲッティと一緒に飲み込んでいた。

 口を開いたのは母だった。

 窓の外で大きな雲が太陽を覆い隠して、「大事な話がある」という前置きが、食卓のテーブルを一瞬でほの暗くたみたいだった。

「律、私達離婚したの」

「――は?」

 母の言葉は脳を掠めて通り過ぎていった。ベーコンが刺さったままのフォークが、皿の縁を叩いて乾いた音がした。

「相談もせずにごめんね。二人で話し合って決めたことなの」

 意味のわからないことを言う母を見ていられずに父の方を向くと、彼は申し訳なさそうに頭を垂れていた。

 母は何度もリハーサルをこなした女優のように、静かで凛とした声色を紡ぎ続ける。

「これからは、私達別々の場所に住むわ。私はしばらくここに居るけど、父さんは夏の内に引っ越すから、また色々落ち着いたら連絡するね」

 私はじっくりと見慣れた筈のリビングを見渡した。私が描いた落書きをカバーで隠したソファ。一向に買い換えてくれなくて文句ばかり言っていた型の古いテレビ。父が出張先の海外で買ってきた趣味の悪いぬいぐるみ。母がしょっちゅう食材を買い込みすぎて溢れさせては父に呆れられていた冷蔵庫。三食きちんと食べる事をとにかく大切にしていた両親が拘って買ってきた食卓のテーブルと椅子。

 生まれた時から家族三人で住んでいた我が家は、これから先どうなってしまうんだろうか。売られて、違う人が住むのだろうか。自分自身への同情はちっとも浮かんでこないのに、家に対する同情はすぐ湧いてくるから面白いと思った。

「ごめんな、律」

 父の口から謝罪が出て来た時、ようやく私は自分が「可哀想」なのだと気が付いた。

 とはいっても、気付いたからと言って私にはもうどうしようもなかった。

 上手だった。両親の離婚は、驚くほど上手だった。

 なんの心配もさせない自然な夫婦関係を演じ抜き、一人娘が成人後就職し独り暮らしを始めて落ち着き出した二年目の、長期休暇の最終日。私が苦手な冬や、誕生日がある春を避けた夏の日。こんなにも娘に配慮した離婚が果たしてあっただろうか。

 そんな見事な離婚を前にして、大人になった私が彼らに対して起こす行動の選択肢なんて、ほとんど残されていなかった。






 私が語り終える頃には、時仁くんはお医者さんとしての表情を取り戻していた。それが少し残念で、悲しくもあった。

「信じられないよ、あのおじさんとおばさんが、離婚だなんて」

「私も、まだいまいち実感がない」

「辛かっただろ」

 黒い瞳に優しさを滲ませる時仁くんに、私は悩んでしまった。どうだろう。辛かった?

「ああ、そうかも」

 両親の離婚は完璧だった。けれど一つだけ、彼らが失敗したとするならば、さよならを食卓に持ち込んだことだ。

 だってあの日から、

「カルボナーラ、胸焼けするの」

 



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