よい夢を
久しぶりに父へ送ったメールの文面は『お父さんの恋人に会ってみたいんだけど、時間とれない?』だった。およそ娘が送るようなものではない気がして、少し笑えた。
父からの返事は『ちょっと待ってくれ』だった。画面の向こうで慌てる父が目に浮かんで、また笑えた。
そしてたったの五日後。いとも簡単にその会食は開催された。
「あー、えっと、紹介する。娘の律だ」
父が本日三度目になる咳払いをして、私は姿勢を正した。
「どうも。父がお世話になっています」
頭を下げると、父の横に座っている男性が同じように頭を下げる。頭頂部までふさふさだ。近頃ちょっと怪しくなってきた父の頭とは違うな。
「フジモトヨシタカです。こちらこそ。なにかとご迷惑をお掛けしております」
フジモトさんはやはり小学生の頃出会った時の面影があり、こうして父と並ぶとどうしようもなく若かった。おそらく今は三十代くらいだろう。銀縁眼鏡を掛けた上品な風貌をしている。果たして一体父のようなおっさんのどこがよかったのか。付き合いだした当時を八年前として、えっと父は四十ちょうどか。フジモトさんが二十代。いやはや本当に、どこがそんなによかったんだ。
「今日はありがとうございます。すぐに了承していただけて驚きました」
「僕も、会いたかったんです」
フジモトさんは酷く子どもっぽく笑った。不健康そうな青白い肌や線の細さのために儚げに見えて、私は胸の奥が痛くなった。父によると、フジモトさんは私の提案を二つ返事で受け入れたそうだ。早い方が良いと言ったのもフジモトさんで、この店を予約してくれたのもフジモトさんらしい。
私はテーブルに並べられた小鉢を眺めた。海老や雲丹といった魚介類と、水菜の煮浸しが美しく盛られている。この状況下で和食を選ぶなんていいセンスをしていると思った。
「いやあなんだか、変な感じだな」
別れた妻との子どもと、その原因となった不倫相手の二人を前にして、父は居心地が悪そうだった。まあ、当然か。当然の報いだよお父さん。私は内心で悪態をついた。
「会ってみたいって言ってくれて、嬉しかった。許されたいとか、そんなバカな事を思った訳じゃ無いのですが」
そわそわした様子の父には目もくれず、フジモトさんは私を見ている。
私は精一杯の笑顔を浮かべた。
「会ったら、責められるって思わなかったんですか?」
「責められる?」
「急に会おうとするなんてなんか裏がありそうじゃないですか。殴る蹴るの暴行を受ける可能性とか」
「律」
父が困った顔でたしなめる。私はそれに苛立って、睨み付けた。
「……それで楽になるのはたぶん僕の方だから」
フジモトさんは自嘲的に唇を咬んだ。彼から私は目が離せなくて、とある結論に行き着いた。何を言ってもきっとまともに受け取ってもらえないような、今この時に、フジモトさんは普遍的でない言葉を選んで見せた。全く不利な、この戦況で。
若いとは言ってもずっと年上のフジモトさんが私を前にして俯いている。
「言い訳とか、同情誘うずるい話とか、それなりにあるんだけど、どれもきっと、この場所には似合わないんだろうな。律さんの顔を見て、すぐにそう思いました」
「うげ」
思わず口に出してしまい、また父に叱られた。違うんだってば、そうじゃなくて、お父さんと男の趣味合うなって、思っちゃったの。心の中で呟いて、私は眉間をさすった。嫌だな、変なところが似てしまった。
私は箸を持ち、彩りの鮮やかな先付けを口に運ぶ。一口食べると驚くほど美味しく、すぐに平らげてしまった。全くフジモトさんは、抜け目のない奴だった。
「お名前、どういった漢字を書くんですか」
私が切り出した話題に、フジモトさんは意外そうだったが丁寧に教えてくれた。植物の藤に基礎の基。それから芳香剤の芳に法隆寺の隆で藤基芳隆。藤基芳隆さん。私の父の、恋人だ。
先出しを食べ終えると、お椀が運ばれてくる。蓋を開けて香りとつゆを味わうと、これもまた好みにぴったりだった。
「藤基さん」
「はい」
「私、藤基さんってきっと、いい人なんだろうなって思います」
「そんなわけ、ないですよ」
「でも、許しません。許さないことがいい形だとも、思うんです」
「はい」
藤基さんが持つ言い訳も、同情を誘う話も、聞かないでおこうと思った。それが私たち親子の関係のために一番なのだ。母のためにも、父のためにも、私のためにも。
見たこともないような情けない顔をしている父に視線を移す。
「お父さんのことも、許さないよ」
「……そうか」
「そう。だって私、死ぬほど悔しかった。不倫するなんて最低」
とうとう言った。私はその言葉の重たさを味わった。最初から言ってやればよかった。私には言う権利があって、それは言ってあげる役回りをになっていたとも言えた。母があの調子なら、父と藤基さんはきっと責めてもらえない苦しみを味わった事だろう。そこから救ってあげるのは癪ではあるが、誰かがこの役をやらなければこの問題は停滞したまま進まない。
「あ、謝らないでね。許したくないから。――でも、一つだけ聞いていいですか」
私は藤基さんを見つめた。
「どうして父なんですか」
藤基さんは父を瞳の動きだけで一瞥して、そっと伏し目がちになる。それから私を上目遣いに見返した。彼の言動一つ一つが重なって、私は腑に落ちる感覚がした。この人は私が思っているよりずっとしたたかだ。誰をどう味方に付けるべきか、よくわかっている。
「ごめん。どうしてもこの人と生きていきたかった」
私は思わず俯いた。正義はきっと私にあるのに、胸がふくれて何も言語化できない。なんて最低な、人だろう。なのになんにも、言葉にならない。
父が逃げ出したそうに頭を抱えている。あの日グレーのマフラーが隠してしまった表情の意味に私はようやく辿り着いた。
ユキちゃんの七回忌は滞りなく行われた。春が来たような錯覚を起こす、暖かい日差しの降る日よりだったと時仁くんが話してくれた。
冬が好きになるにはもう少し時間が必要で、猫舌でなくなるにはまだまだ経験が足りていない。睡眠障害の改善は一進一退で、ヨーロッパ旅行はもっと先。仕事の力量も人付き合いの器用さも料理の腕前もちっともで、失敗ばかりで、でももっと上手くなりたいと思う。
「貸し出しお願いします」
カウンター越しに笑顔を向けてくるのは見覚えのある女子学生だった。つい二ヶ月ほど前私に「がっかり」してみせた人だ。事務的に対応しながら、私は緊張し出していた。手続きを済ませた本を差し出して彼女を見上げる。
「あの、私立図書館に就職した卒業生がアルバイト募集してるって言ってましたよ」
さも偶然聞いただけのように私は言った。本当は就職進路課の同僚に頼んで調べてもらい、電話でわざわざ訊いたのだが。
女子学生は怪訝そうに眉を顰めた。
「はあ」
「連絡先とか教えましょうか」
「あー、大丈夫です」
苦笑いを浮かべて彼女は図書館を後にした。開いたドアが冷気を運んでくる。残された私は瞬きして、それから一人で笑った。ここ最近ずっとポケットに入れっぱなしだった連絡先を書いたメモを眺める。まあ、そんなもんだよなあ。余計なお世話って、この事。
でもなんだか、
「そんなに悪くない気分」
私はメモを畳んで顔を上げた。こんなもんだ。簡単には上手くいかない。誰の人生だってそんなもの。
大学の図書館は、思い思いの表情で学生達がやってくる。夢のための勉強をする人も、やりたくないテスト対策をする人も、昼寝をするために来たような人も。
ぼんやりしていると鵜野さんに注意されて、私は慌てて仕事に戻る。今年のクリスマスはちょうど授業最終日に被っているから、今度はサンタ帽を被って「メリークリスマス」でチョコパイを配りましょうか。提案してみると、予算がないからと却下されてしまった。
結局私には、あの羊使いと過ごした夜がなんだったのかは わからない。長くあたたかな夢だったのか、はたまた幻覚か、それとも。
だけど私は、彼は本当に羊使いというお仕事をしているんだと思うのだ。今もどこかで、眠れない誰かのために羊を数えているんじゃないかって。
だから眠れない夜は目を閉じて、心の中で小さく呟いてみる。
羊がいっぴき、羊がにひき。
するとどこからか優しい声が聞こえてきてくる。
「おやすみなさい、よい夢を」
ふわふわとして、まるで羽根が生えたみたいに、そうして私は、夢をみる。




