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猫舌の私は夢をみない  作者: 雨咲まどか
二章 猫舌と止まった時間
12/13

羊が十二匹


「ねえ桃子、どうしよう」

 手の平の中で平べったくなった桃子はひくひくと鼻を鳴らした。

 私は今から、大事な話をする。そのために時仁くんを呼び出した。もうそろそろ来るはずだ。律儀な彼のことだから、どこかで手土産でも用意しているのだろう。そんなのいいのに。ああそうだ、コーヒーくらい出さないと。

 桃子から手を離し、棚から一人暮らしを始めた頃父からもらったコーヒー用のサーバーとドリッパーを引っ張り出す。実家にいたときはよくコーヒーを淹れていたからくれたのだろうけれど、一人ではなかなか使う気にはなれなかった。誰か一緒に飲んでくれる人がいないと、やる気にならないものだ。

 一人用の小さなドリッパーを眺めて、私は腕を組んだ。一人分ずつ淹れるか、どうしようか。コーヒーは未開封の物があるから大丈夫だけど、久しぶりだし果たして上手く淹れられるだろうか。

 私は再び棚の奥を探り、以前に衝動買いしたものの二度しか使っていないミルク用の泡立て器を取り出した。これでカフェオレにしよう。

 道具を洗って乾かしていると、チャイムの音が聞こえてきた。

「うわどうしよう、桃子戻さなきゃ、いやそれよりも早くでなくちゃ」

 慌てて玄関へ向かう。鏡を見て前髪を整えた。

 ドアを開けると、時仁くんの顔が高いところにあった。こうして向き合うのは、久しぶりな気がした。今日は医者と患者ではない。

 部屋へ時仁くんを招き入れると、桃子が全速力で駆け寄ってきた。時仁くんの足に纏わり付く。

「わ、桃子ちゃん」

「ごめん、散歩させてたの」

 私は桃子を抱き上げた。時仁くんは桃子に顔を寄せて、額を撫でる。されるがままの桃子に、私は目を疑った。あの桃子が懐いている。モルモットは警戒心が強いのではなかったのか。

「そうだ、これ、苺大福。よかったら」

「え」

「あれ、嫌いだった?」

「いや、すごい好きだけど……コーヒーを淹れる気満々だったといいますか……」

 桃子をゲージに入れながら、私はちらりとキッチンを見やった。時仁くんは目をぱちくりさせて、笑った。

「コーヒーで苺大福、食べてみようよ」







 陶器で出来たドリッパーにペーパーフィルターを広げる。コーヒーを抽出している間にミルクパンで温めた牛乳の半分を容器に移し、細かな泡を立ててゆく。

 コーヒーの香りが立ち上る。私の後ろでは、時仁くんが桃子のゲージに張り付いている。どうやらお互いに気に入ったようだ。

 濃く入れたコーヒーをカップに入れて、牛乳を上から注ぐ。その上にふわふわした泡を乗せて、完成だ。上手くいっているのかという不安と一緒にテーブルへ運ぶ。苺大福もお皿に乗せて並べた。やっぱりなんだか、ちぐはぐしている。

 時仁くんが手を洗いに行って、私はテーブルの前で正座する。桃子のおかげで少しだけ心の準備が出来た。持つべき物は良く出来たペットだ。

 戻ってきた時仁くんが私の向かいに腰を下ろす。彼の背筋もぴんと伸びていて、お見合いみたいだと思った。

「忙しいのに時間作ってもらってごめんね」

「平気だよ。コーヒー、すごいな。こんなの家で作れるんだ」

「お父さんが昔教えてくれたの」

「おじさん、コーヒー好きだったもんなあ」

 しげしげとカフェオレの上に乗った泡を見て、時仁くんはカップを持ち上げた。乾いた唇が縁に触れる。シャツの襟元から見える喉仏が上下して、私は酷く緊張した。

「美味しい」

「……良かった」

 私はほっと胸を撫で下ろし、自分の分のカップを手に取った。熱いけど、美味しい。

「あれ、熱くない?」

「猫舌は卒業するの」

「え、カフェでわざわざぬるめを注文する君が?」

 時仁くんは不思議そうな顔をしていた。大げさなほど、冷ますことに力を注いでいた私が心変わりしたことに驚いたようだ。

 カフェオレの風味が口内に残ったまま苺大福を口に運ぶ。苺大福は上品でとても美味しかった。

「うーん」

「意外と合うような、やっぱり合わないような」

 あんことミルク、苺とコーヒー。それぞれは相性が良い。だから悪くは無いのだが、どうにもたまに喧嘩が起きる。

「そうだ、話って?」

 時仁くんが切り出して、私は大福をカフェオレで流し込んだ。

「なんだか、久しぶりだよね」

「え、ああ、うん、そう……かな?」

「でも別に、長く会ってなかった、ってほどでも無いじゃない」

「まあ、ついこの間病院で会ったね」

「私ここのところ色々あって、それを時仁くんに話したいって思ったの」

「色々?」

「そんなことより私、時仁くんにはもっと話さなきゃいけないことがあるでしょ。だから、電話もメールも出来なくて、すごく困った。私の中で時仁くんが大きな存在になってたことに、やっと気づいた」

「……それって」

 時仁くんの耳がほんのり赤い。でも私の顔の方がよほど赤いのだろうと思われた。私たち、いい歳なのにちっともスマートに恋愛出来ないね。お互いのことを知りすぎているから、気まずいのかもしれない。

 甘さを帯びる空気に私は慌てて両手を前に突き出した。

「ちょっと待って、私、時仁くんに話してない事がまだあるの」

 時仁くんが首を傾げる。

「どうしても、ずっと言えなくて、言ったら嫌われると思うんだけど、でもこのままじゃ時仁くんの横に居れないから」

 静かな部屋で、私の心臓だけが五月蠅く音を立てていた。私を見つめる時仁くんの視線に不安が混じる。怖いけれど、彼を失う準備はしない。

「どうしてユキちゃんなんだろうって、思ってた」

 時仁くんの目が見れずに、私は下を向いた。

「私が死んでユキちゃんが助かればよかったのにって。ユキちゃんには夢があって、みんなに好かれてて、たくさんの人が悲しんだから。あの時、私が死ねばよかったのに」

 私は拳を握った。喉の奥が乾く。時仁くんは何も言わない。

「たぶん同じ様に思ったのは私だけじゃない。だから、幸せになるのが怖い」

 最低な考え方だと思っていた。あまりに失礼で一度も口に出来なかった。ユキちゃんにも、時仁くんにも、ユキちゃんを想って泣いた人たちにも、私の両親にも、私の友人にも。

 長い沈黙。私は少し冷めたカフェオレを嚥下する。沈黙を破ったのは時仁くんだった。

「僕も、懺悔していい?」

「……何を?」

 時仁くんが何を懺悔する事があると言うのだろう。

 人の良い人相はそのままに、彼は唇を噛んだ。

「ユキが死んだ後、考えた事がある。これでライバルが居なくなったって」

 私は目を見張った。時仁くんの声は微かに震えていた。

「ユキが生きていたら、絶対僕は勝てなかったから」

 時仁くんもカフェオレを啜った。そうして私はまた、何も言えなくなってしまった。

「こんな僕でもよかったら、やっぱりそばに居て欲しい」

 私は胸がいっぱいだった。

「違うよ、選ぶのは私じゃない」

「僕は律ちゃんがいい」

「だって私、何も出来ないし」

「そんなことないよ」

「私なんかと付き合ったら大変だよ」

「それは、そうかも」

「浮気したら慰謝料としてヨーロッパ一周旅行代払ってくれないと嫌だし」

「ヨーロッパ好きなの?」

「人並みに」

 時仁くんは訳が分からない、という表情をして、私だって自分で自分が何言ってるのかわからないんだと言ってやりたくなった。

「浮気しないから、ヨーロッパは二人で行こう」

 とうとう私は泣き出した。ずっと息が苦しくて仕方が無かった。予防線を張り巡らせて、本音閉じ込め続けてきた。

「行く」

 少し力を入れて引っ張ってみたら、予防線は簡単に千切れてしまった。案外脆いもんなんだ。よくこんなものに、縋ったものだ。

 時仁くんはくしゃくしゃに笑った。

 カフェオレと苺大福を同時に口へ放り込む。ちぐはぐな味が、今はちょうど良い。

「でも私たち、きっと喧嘩するよ」

「する、だろうなあ」

「私が一方的に怒って、時仁くんが困るんだよ」

「それはどうだろう。――律ちゃん」

 涙を拭うと、時仁くんが右手を差し出していた。

 吸い寄せられる様に私も手を伸ばす。彼は私の手を取って、そっと引いた。時仁くんの手は冷たくて、私の手も同じくらい冷たくて、急に呼吸が楽になる。

「よろしく」

 自分のことなのに、自分が何を考えているのかわからない。ただ、この人と生きていきたいとだけ、確かに思った。

「あ」

「どうかした?」

 私が顔を顰めると時仁くんは首を傾げた。口内にちくりとした痛みがあった。

「舌、火傷した」


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