羊が十一匹
やあ、なんだか久しぶりだね。時仁くんが言って、私はその通りだと思った。むしろここ最近は、これまでと比べるとずいぶんと合う頻度があがっていたのにも関わらず。
厚手のセーターの上に白衣を着た時仁くんは、いつもよりも「主治医」の顔をしている。
「寝付きはどう?」
「悪くないと思う。……薬、減らしていきたいな」
私の返答を受けて時仁くんは僅かに目を丸くした。
「もちろんだよ。減らしていこう。――四分の一ずつで処方するので、まずは四分の一だけ服用して、三十分ほどしても眠れそうになければもう四分の一追加で服用する、という形にしましょう」
「ありがとう時仁くん」
時仁くんは様々なアドバイスをしてくれていた。就寝時間の三十分から一時間前に入浴すること、夜にカフェインを摂取しないこと、寝る直前の暇つぶしは紙の本にすること。どれもほんの些細なことで、私はそんなことがきちんと守れずにいた。
「丁寧に一日を終えるような感覚で」
時仁くんはこうも言っていた。一日を丁寧に終える。丁寧に毎日を生きている彼らしいと思った。
「そうだ、今話すことではないと思うんだど、ユキの七回忌、親族だけですることになったよ」
「そっか」
私はもっと何かを言いたかったけれど、声に出来ずに小さく頷いた。
「ご両親の方は、どう?」
時仁くんはカルテを見やってから私に訊ねた。
「お母さんの引っ越しも終わって、やっと落ち着いたかな。旅行に行くのももう満足したみたいだし。引っ越し先で仕事も始めるって」
「よかった。お父さんの方は?」
「……どうなんだろう」
思えばあれから、何通かメールのやりとりをしただけで声も聞いていない。母の事で頭がいっぱいだったのは、考えたくなかったからわざとそうしていたのかもしれない。父を悪者にしてしまえば、それでいくらか心が軽くなったから。
「どんな人なんだろうね、その、りっちゃんのお父さんの恋人」
私は、時仁くんの言葉に呆気にとられた。どんな人。考えたことも無かった。
「あ、ごめん。無神経だった」
「――ううん。そうだね。どんな人なんだろう」
前に進まなきゃいけない。誰のためでも無く、私自身のために。私は明日に進む事を選んだのだ。
私は一度だけ父の不倫相手にあったことがある。
あの夏の日、父が言った特徴がパズルのピースのようになって脳に残り続け、ある瞬間唐突にパズルが解けてしまった。事務員。年下。男。これに当てはまるのは父の事務所で一人しか居ない。
いつだったか、どんな日だったか、記憶は曖昧なのに、あの人の顔だけは鮮明に覚えている。私は小学生で、あの人は大学生だった。季節は秋か冬かその間で、どれくらい寒かったのかは覚えていないが、あの人がマフラーをしていたことは覚えている。ぽこぽこした変った糸で編まれたマフラーで、明るいグレーがよく似合っていた。
父が独立するずっと前の事だ、忘れ物を届けるために父が勤めていた法律事務所へやって来た私はドアの前で立ち尽くしていた。
その法律事務所は自宅の最寄り駅から電車三十分ほど離れた都心にあり、通りがかった事はあれど入ったことは無かった。だから私は家に置き忘れられた父のお弁当箱を見て、冒険心半分に家を出た。母にも内緒で、電車のカードをポシェットへ入れて、一人で。
褒めてくれるだろうという期待と一人で電車に乗る高揚感でいっぱいだった私は、辿り着いた事務所の前で急に不安になった。来たはいいが、ここからどうすればいいのだろう。帰りたくなって、知っている人が居ない街が怖くなって、私は泣き出しそうだった。
「こんにちは、何かご用かな?」
声が聞こえた方を向くと眼鏡を掛けた男の人が立っていた。彼は優しく笑い、膝を折って私に目線を合わせる。私は反射的に逃げだそうとして踵を返した。
「――あ、待って。僕、ここの事務員なんだ。弁護士じゃ無いから、タダで話聞くよ」
暫く逡巡して、私はお弁当の入った袋を彼に突き出した。
「あれ、この袋茅原さんの?」
「お父さん、忘れてった」
私が言うと、男の人は寂しそうな、それでいて柔らかい表情を浮かべた。下を向いてしまい、口元がグレーのマフラーに隠れる。
「偉いね。きっと茅原さん、喜ぶよ。呼んでくるからちょっと待ってて」
私は立ち上がろうとする男の人の腕を掴んだ。
「大丈夫です。渡しといてください」
ぶっきらぼうな口調になってしまった私に彼は笑って、大きく頷いた。
「わかったよ。可愛い女の子からのプレゼントだって言っておくね」
眼鏡と地味な服装で気がつかなかったが、彼はよく見ると綺麗な顔をしていた。私は気恥ずかしくなって走り去る。
夜になり帰宅した父は私を褒めてくれ、彼が大学生のアルバイトだと話した。
そしてその数年後、独立するにあたっての計画を母に説明している時に、若いがキャリアのある事務員を引き抜ける事になったと語っていた。独立した父の事務所は小さく、事務員はその一人だけだ。
当時は何とも思わなかったのに、今になって全てのピースが綺麗に収まってゆく。
あの人が大学を卒業しアルバイトから正規の事務員になり、父の独立に付いていったのだ。彼はいつから、父を好きだったのだろう。考えると、胃の奥が重たくなる。愛の重さなんて量ろうとしても第三者からはわかりっこないのに。




