バレンタインがムカつくので本気でぶっ潰そうと思います
バレンタインなんてクソくらえ!
八坂は暗いアパートの一室でチョコレートを怒りに任せて食い散らかしながら、何度目かの悪態をついた。
繰り返される大声に反応して隣の部屋から怒り任せに壁を叩く音が聞こえたが、彼は気にしない。そのままコタツの天板の上に積み上げられたチョコレートの山を崩す作業を続ける。
八坂はバレンタインが嫌いだ。憎んでいるといってもいい。
これまで二十数回にわたって二月十四日という日を迎えてきたが、ロマンチックや桃色ドキドキの香り立つバレンタインデーなどというものには、ついぞ縁がなかった。
もしやバレンタインというものはゴジラや清純派アイドルのように、テレビや想像の中にしか存在しないものではないか。そうは思ってみても、街に出れば嫌でも目に入るバレンタイン商戦の広告、その周囲できゃいきゃいと騒ぐ女性たち、耳に飛び込むラブソング、そして学生時代、人目につかない校舎裏で、密かに想いを寄せていた東山さんが大谷に顔を赤くしながら小さな包みを渡していた記憶が、バレンタインとはフィクションではないという事実を突きつける。
――そういえばあの翌日、いつもきっちりしている東山さんの制服にシワがよってたな……。それにいつもよりも汗の臭いが強かった。
ということは家に帰らなかった……?
そのことを唐突に思い出し、八坂の八つ当たりともいえるチョコレートの暴食は加速する。
手を出していないとはいえ片想いの相手に対する研究と称して、相手を校舎裏まで付け回したり、体臭、服装を下世話な目でチェックするような気持ち悪さが八坂をバレンタイン、ひいては恋愛というものから縁遠くさせているのだが、そのことに彼は気づいていない。たとえ気付いていたとしても魂に染み付いたとでもいうべき業を払拭することなどできないだろう。
「くそっ! やっぱりバレンタインなんてクソくらえ!」
八坂が自分の気持ち悪さを棚に上げて床に倒れこみながら、傍から見れば理不尽な憤怒を部屋に撒き散らしていると「バン!」という音が再び部屋に響いた。隣の部屋の住人がまた壁を殴ったのかとも思ったが、音は背後――、玄関の方から聞こえてきた。
首をぐるりと回してそちらの方を見てみれば、玄関の扉が大きく開け放たれている。そしてそこには小さな胸を大きく反らして立っている西洋人形のような少女がいた。
「その通り!」
少女は開け放たれた玄関で、仁王立ちしながらそう宣言した。律儀に靴を脱いで整えると、そのまま呆気に取られている八坂に向かって金髪をなびかせながらずんずんと歩いてくる。
そしてコタツに潜り込んだまま咄嗟のことに何もできないでいる八坂の前に少女は立った。あまりのことに八坂の脳の処理は現実に追いついていないが、どうやら彼女が近所の高校の生徒だということを着ている制服から何とか読み取る。そんな八坂を見下ろしながら少女は再び口を開いた。
「おっしゃる通りバレンタインなんてクソったれです!」
「え? え? あれ? 鍵……」
「おっと、失礼。同志に出会えたことが嬉しくてつい」
「ど、同志……?」
「ええ! 私もバレンタインデーなどという悪しき因習を憎むものなのです!」
「え? え? なんで……?」
目の前の少女は好みの差こそあれど、十分に可愛らしい容姿をしているといえる。バレンタイン戦線において全戦全敗している八坂とは違い、勝利をもぎ取ることは難しくないだろう。バレンタインを憎む要素など一つもないように思える。
そう不思議に思って彼女に理由を訊ねてみると、彼女は混乱している八坂の頭をさらに混乱させるようなことを口にした。
「私はバレンタイン! 聖ヴァレンティヌスの生まれ変わりです!」
○
「はい。お茶でも飲んで落ち着いて」
「あ、これはご丁寧にどうも」
強引に開けたせいで閉まらなくなった玄関から入ってくる冬風から逃げるようにコタツに潜り込んできた少女に八坂が熱いお茶を淹れてやると、彼女は先ほどまでの強引さと破天荒さを感じさせない落ち着いた様子で頭を下げた。「あち、あち」と言いながら手の中のカップにふうふうと息を吹きかけている少女はどう見ても年歳相応で、聖人の生まれ変わりなどという素っ頓狂なものには到底思えない。
そんな八坂の考えに気付いているのかいないのか、バレンタインと名乗る少女はお茶で口を湿らし一息つくと、再び口を開く。
「私は聖ヴァレンティヌスの生まれ変わり、だということは先ほど言いましたね」
「信じられない話だけどね……」
「私がこの前世の記憶に目覚めたのは今からちょうど一年前、友人の『バレりんはチョコ渡す相手っていないのー?』という言葉でした」
「バレりん……」
「失礼、私のあだ名です。とにかくその言葉に『渡す相手なんかいないよー』と返そうとしたところ……、『人が処刑された日にサカってんじゃねーよ! 何がハッピーバレンタインだ! ちくしょうめ!』という感情が体験したこともない記憶と共にあふれ出してきて……、突然自分が聖ヴァレンティヌスだったことを思い出したんです。……大体ですね、人が死んだっていうのに祝うってのが理解できません。私は悪の魔王ですか? 横暴な独裁者ですか? 死んで喜ばれるような人間だとでもいうのですか? キリスト様だって祝うのは誕生日と復活した日ですよ! ゴルゴダの丘で処刑されてバンジャーイなんて誰も言いませんよ! 死んだのを祝うのはお釈迦様くらいのものです。それにしたって仏遺教経をあげてひっそりとするんです。涅槃寂静ニルヴァーナフィーバー、なんてありえません! なのに私の死んだ日についてはどうですか! あちらこちらで『ハッピーバレンタイン』。あっちでイチャイチャチュッチュ、そっちでドキドキラブラブ、そしてついにはスコスコパコパコ! これじゃ私は愛の守護聖人ではなく性人ではないですか!」
そう一息に言うとバレンタインはコタツにドンと拳を振り下ろす。その怒りと勢いの強さにコタツの上に積み上げられていたものが軽く跳ね、そしてずり落ちた。そのずり落ちてきた物体に目を止めてバレタインは「おや」と眉を顰めた。それは八坂が有り金をはたいて近隣の店から掻き集めてきたチョコレートだ。
不可解そうな顔をするバレンタイン。その一方で八坂は感動に打ち震えていた。そして二十年以上もの間、胸に秘めていた想いがあふれ出す。
「そうとも! さらに言うなら日本のバレンタインなんてものは商業主義に毒されてすぎているんだ! チョコレートを売りつけようとする製菓会社の陰謀だ! しかもメディアもその尻馬に乗る始末! しかしもっとも罪深いのはそれに振り回されている愚民ども! 何がバレンタインだ! 何が素晴らしき愛の日だ! 何かにつけて桃色遊戯に関連付けやがって! そんなに桃色遊戯がしたいのか! 他者の思惑に流されて! チョコレートは古来、神への供物として厳かに、そしてしめやかに飲まれてきた神聖なものだ。そんな右に倣えの精神でチョコを消費しようとする大衆、そしてそれをコントロールしようとするガラパゴス的資本主義へのせめてもの抵抗として、こうして僕は愚民どもにチョコレートが渡らないようにするために買い占めているんだ!」
ちなみに八坂はこのバレンタインデー近くのこの時期、超優良消費者として近隣の商店にタグ付けされている。デッドストックになりかねない大量のチョコレートを一括購入してくれるのだ。彼の活躍によって地元経済は活性化しており、それと同時に製菓会社の売り上げに貢献している。
しかし彼はそれに気づかない。いや気付きたくない。自身の行動の根底にあるものが桃色体験への嫉妬と憧れとは認めたくないからだ。
薄々気づきかけているその事実を塗りつぶそうかとするように大きく、そして早口で展開される八坂の阿呆理論にバレンタインは大きくうなずく。
「そうですそうです! 日本は古き良き習慣をお金にしようとしすぎです! バレンタインだけじゃなく、たとえばハロウィン! ちょっとこの写真を見てください。あくまで偵察研究としてイベントに参加してきたのですが……」
そう言いながらバレンタインが見せてきたスマホの画面を見て八坂は思わず憤りの声を上げた。
「うわ! なんだこれ! フリフリの魔法少女じゃないか! 地毛の金髪と相まって可愛けしからん! まったくけしからん!」
「ですよねですよね! 本来ハロウィンってのはその年の収穫に感謝しつつ、来る冬に何もないよう祈願するお祭りのはずです。それをこんなコスプレパーティーのように……、まったく可愛楽しくけしかりません。そして次はこれです」
「うわ! 女子高生に太くて黒くて長いものを咥えさせて……! 苦しいのか涙目になっちゃってるじゃないか! けしからん! まったくけしからん!」
「太巻きがあまりに大きくて、何度もえずいてしまいました。染み出してくる高野豆腐の出汁がなければとてもじゃないですが完食はできなかったでしょう」
「あ、かんぴょうじゃないんだ」
「高野豆腐が好きなんです。……そもそも節分に恵方巻を食べるなんて習慣は関西の一部のローカル風習。それを掘り起こしビジネスチャンスにした企業努力には頭が下がりますが。あまりに金儲けへの意図が見えすぎてはいませんでしょうか。まったく美味しけしかりません」
「確かにな……。こんな商業主義の暴走が君……」
「そんな他人行儀な……。同じバレンタインデーを憎む同志なのですから、気安くバレンタインと呼んでください」
「じゃあ僕のことは八坂と。……こんな商業主義の暴走がバレンタインちゃんの命日を祝うような歪んだ因習を引き起こしたんだ!」
「引き起こしたんだ!」
ヒートアップする二人のシュプレヒコールが八坂の部屋にこだまする。結構な音量だが、隣の住人はあまりの阿呆さ加減にうんざりとしたのか壁を叩くことさえしない。
いや、もしかするとバレンタインデートと称して街に繰り出したのかもしれない。そのことに思い当り二人の魂の叫びはさらに激しさを増していく。
「何がバレンタインキッスだ! 甘くて苦ーい恋の味だ! くたばれ!」
「何がバレンタインベイビーですか! 当人の気持ちにもなれ! くたばれ!」
どれだけの時間、バレンタインに対する怒り憎しみの感情をぶちまけただろうか。しかしそれでも彼らのバレンタインデーに対する憤りは収まらない。壊れた玄関から吹き込んでくる寒風は彼らの頭を冷やすどころか、まるで二人の怨嗟の炎にますます酸素を送り込むかのようだ。
そしてふとあることに気付き八坂はバレンタインに声をかける。
「バレンタインちゃん。僕は一つ気づいたんだけど、こんなところで叫んでいるだけじゃ何も変わらないんじゃないだろうか?」
「奇遇ですね、八坂さん。私も同じことを考えていました。ぜひバレンタインデーに浮かれる人たちに天誅を加えるためにも街に繰り出すべきかと」
「その通りだ。でも僕たちはたった二人。そして相手の数は見当もつかない。どうだろう、まずは偵察して敵情把握に努めるべきだと思わないか?」
「それはいい考えです。ではこことここですね。新しくできた水族館は間近で見ることができて触れ合うこともできるイルカショーが人気ですし、この通りはロマンチックなイルミネーションで飾り付けられていて、光に集まる蛾のように吸い寄せられてきたカップルであふれかえるはず。そしてそんなカップルを相手にする商業主義の走狗たちも店を出しているはずです」
「そうか、ならばぜひ視察してどのお店が天誅に値するか確かめないと。でもさすがに一人じゃ心細い。ついてきてくれるかな?」
「八坂さんのお供をしたいのは山々なのですが……、えっと……私は学生なので……その、お金が――」
「バレンタインちゃん、君と僕はもう戦友、バディだ。そんな君を見捨てられるはずがないだろう。心配するな、費用は全部僕が持つ!」
「あ、ありがとうございます。では私は……えと……八坂さんを支えます。……精神的に?」
「ありがとう! バレンタインちゃん! では出撃だ!」
「はい!」
こうして二人は桃色感情渦巻く街へと繰り出した。歪んだ商業主義とそれに毒されたカップルたちに制裁を加えるために。
戦力はたった二人。而して敵は強大。今戦いを挑んでも徒花と散るだろう。しかし八坂とバレンタインは馬鹿ではない。確実に勝利を掴むことができると確信できるまで、無茶な行動はしない。敵を知ることに努めるだろう。
バレンタインに浮かれる街だけではなく、春の行楽地、夏の海、秋の並木道、冬の温泉、その他諸々……。彼らが調べ上げなければいけないものは山とあるのだ。
彼らの戦いは始まったばかりだ。