マスクの女 3
メイがペン八の元へ戻る数十分前。
日陰に導かれるようにビル間の抜け道、路地裏へと入った時。
暑さで頭がボーっとしていたのに加え、口にしていた菓子に夢中になっていたメイは、背後から近寄ってくるその気配にギリギリまで気付かなかった。
実際に違和感に気が付いたのは、その女性に話しかけられてからようやくである。
「……んあ?」
「ちょっとお聞きしたいのですが……」
菓子を口に咥えたまま、メイが振り返った先。
その人物は、まず外見からして異様であった。
いや、『悪魔兼天使』であるメイ自身も、服装に関してはちょっと常識離れしているところはあるが、それでも目の前の女性よりはマシだろう。
メイよりもやや高身長。
痩せ型というより、病的にやつれており、この灼熱地獄の中でロングコート着用である。
異様なほどに色白なその顔の下半分……口元の部分は、彼女の肌のように白いマスクで覆い隠されている。
だが何よりも不気味なのは、その女性から感じ取れる、その雰囲気だろう。
ドロドロとした沼の底にいるような……首筋や背中を爬虫類が這っているかのような。
重苦しく、言いようの無い悪寒を感じ取れる。
「……なんか用? オバサン」
「おば――っ!?」
しかしメイは、やはりというか、当然の如く彼女らしい応対で返した。
(な、なんなのこのガキ……! なんの躊躇いもなく私をオバサン呼ばわりって……)
「……用がないならアタシは行くわよ? ヒマじゃないし。じゃあねオバサン」
「あ……ちょ、ちょっと!」
サッサとその場を立ち去ろうとするメイを、どうにか引き止めようとする。
「オバサン。アタシ忙しいんだけど」
(このクソガキ……1度ならず2度まで……いや、3度も……!)
その少女の、あまりにも傍若無人な態度にハラワタが煮えくり返って爆発しそうだったが、どうにか表情に出すことだけは抑えた。
「お、おほほ。まぁそう言わずに。手間は取らせませんから……ちょっと質問に答えてくれるだけで」
「……『私、キレイ?』でしょ?」
「――っ!?」
「にしても『口裂け女』ねぇ……まだ生き残ってたんだ。ブームになったのって、だいぶ昔だったと思うけど」
「な、ななな……何を言ってらっしゃるのかサッパリ……」
「あー、誤魔化してもダメダメ。普通の人間ならいざ知らず、アタシには丸分かりだからさ」
「そん……な……」
何故か分からぬが、目の前の少女は自分の正体を見破っただけでなく、知ってなお余裕シャクシャクな態度である。
恐怖するどころか驚きすらしていない。これには彼女……『口裂け女』もさすがに軽く落ち込んだ。
「……どうして……私が『口裂け女』だと」
「なんか急にテンションだだ下がりしたわね」
「マスクでちゃんと隠して……っていうか、まだマスク取ってなかったのに……」
メイに話しかけてきた時の3倍はローテンションな状態である。
気分的には、印籠を出す前に黄門様だと気付かれてしまったようなものだろう。
「いや、たしかに口元は隠してるけど……そのドロドロな霊気、全然隠せてないし」
「え……」
「アタシに近付いて来てた時から感づいてたわよ。悪霊かと思ってたけど、都市伝説の方だったとはね」
「………………」
「っていうか、見た目からして怪しいでしょ。マスクはまだいいとして、このクソ暑い真夏にロングコートってアンタ」
「………………」
(……ありゃ? ひょっとしなくても落ち込んでる?)
反論も相槌も無く、明らかにショックを受けて落ち込む口裂け女。
ただでさえ暗い雰囲気が、場の空気と共にとてつもなく助長されていく。
(うわ。空気重……コッソリ逃げちゃおっかな……)
「……1つ、聞いてもいいですか?」
「えっ、あっ、なによ?」
「……貴女は何者ですか……霊気まで分かるなんて」
「アタシ? ……あ、そっかそっか。隠してたんだったわね……」
「……?」
メイは人間ではない。
しかし、今ここにいる彼女は……少なくとも口裂け女の目からは、掃いて捨てるほどいる他の人間達となんら変わりなく見え、そう思えた。
他の人間達の目から見てもそうだろう。
服装こそちょっと珍しいが、それだけでメイが『悪魔』であり『天使』でもあることなど分かるはずがない。
彼女はその言葉通り、たった今まである物を隠していた。
いらぬ騒動が起きぬよう、見た目には人間と変わりなく映るように。
「つまりね……こういうことよ」
説明するよりも見せたほうが早い。
そう判断したメイは、自らの霊力で隠していたそれらを解き放った。
「――っ!?」
口裂け女は目の前の光景、彼女の姿に驚愕するしかなかった。
現れたのは光輪と翼。
光輪はメイの頭上に。
翼はメイの背に。
羽を休めていた鳥が、飛び立たんとするかのようにそれらは現れた。
「……理解出来た?」
メイに声をかけられるまで、口裂け女はしばし呆然とし……思わず見とれてしまってすらいたのかもしれない。
「まさか貴女――天、使……?」
その言葉を。
彼女の姿を口にするのが精一杯だった。
身の危険が迫ったというわけではない。
相手は何もしてきていない。
ただ己の、本当の姿を見せただけだというのに。
口裂け女は、たじろいでいた。
思わず後ずさりしてしまいそうな程の、神々しさ。
そんな威光を、目の前の少女は有していたから。
「んー、半分正解ね」
「半分……?」
「ま、気にしないほうがいいわよっ……と。通行人がいなくてラッキーだったわ」
再び翼と光輪は姿を消した。
だが無くなったわけではない。今も彼女の頭上と背に、それらは存在する。
メイが自身の霊力を使い、覆い隠して不可視としているだけである。
風呂敷を掛けるようなものだ。
もっとも、覆いかぶさっていることすら判別できない魔法の風呂敷だが。
「んじゃ、アタシはもう行くから。……人間脅かすのもほどほどにしときなさいねー」
外見上は普通の人間となったメイは、一仕事終えた後のように満足げに踵を返した。
(不思議な娘だとは思ってたけど……よりにもよって、天使だったなんて……)
まさに人外の出来事にショックを受け、立ち尽くしてしまっていた口裂け女。
だがそれもようやく落ち着き、思考を働かせ始める。
(待てよ……天使ってたしか……)
何を考えついたのか、静かにメイの後を追う口裂け女。
企みがあるようにしか見えない、妖しさ満点のにやけ顔で。
「ふふ……」
(いける。チャンスだわ……たしか天使は、悪霊の類を除霊する力は持ってなかったはず……!)
『天使』は魂の導き手。死を迎え、彷徨う魂を天界へといざなう者。
『悪魔』は魂の破壊者。墜ちた霊魂、悪霊を討つ者。
そんな話を、いつであったか聞いたことを口裂け女は思い出した。
つまり無防備にもこちらに背を向けている天使の少女は、自身を守る力があっても、こちらへの攻撃手段は皆無だろうということ。
(人のこと散々オバサン呼ばわりしてくれて……覚悟しなクソガキ!)
音も無くメイの背後数十センチの距離まで近付き、携帯していたハサミを握り締めた時だった。
不意にメイが足を止める。
「……そんなもんでアタシを殺そうとでも?」
(……っ! 気付かれた!?)
出来る限り気配は消していたはずだが、彼女の察知能力が卓越していたということか。
だが、まだ振り向いていない。
状況的には圧倒的に有利。このまま問答無用で斬りつければ避けられまい……だがその見通しは即座に打ち砕かれることとなる。
「あ、あぁ……あ……」
「……天使相手だったら、チャンスだと思った?」
けれど口裂け女は、1歩も動くことが出来なかった。
それどころか袖の中でハサミを握った右手も、まるで凍りついたように固まり、小さく震えている。
「ふふっ……残念でした」
目の前の少女は微笑む。
無邪気に、それでいてその奥に底知れぬ闇を垣間見せながら。
「ひっ……!?」
メイが振り向くと同時に、2人の間の空気が変わった。
口裂け女は敏感にそれを感じた。
圧倒的な力の差……その場に留まってはならぬと直感が告げる、おぞましき威圧感。
「ど――どうして……だって貴女、天使じゃ――!?」
「さっき、半分正解って言ったでしょ?」
「はん、ぶん……?」
後ずさる口裂け女。仕方の無い反応だろう。
彼女が目の当たりにしたもの……それはメイの、今の姿。
先ほどまで海面を覗いているかのように蒼の宝石であったメイの瞳は、獄炎の如き赤色の眼へと変わり、目が合っただけで相手が死期を悟りかねない鋭さを伴っている。
「これが正解の残り半分よ……理解出来た?」
背から生えていた汚れ無き白銀の翼も、今や溶岩流に黒き稲妻が幾つも走ったかのような、赤黒く禍々しい翼……鉤爪の付いた翼へと変わっている。
頭上に浮かんでいた光輪も、既に無い。
それはメイ自信が不可視にしたからではなく、天使ではなくなったから。
人間でも、天使でもないその姿。まさに絵に描いたかのような、悪魔の姿である。
「あり、えない……天使で、悪魔だなんて……」
「……ま、驚くのも無理ないとは思うけどね。天界じゃあ他に例が無いらしいからさ……ところで」
メイが妖艶な笑みを見せる。
その雰囲気たるや並みの人間であれば怯え、小動物であれば逃げ出すであろう。
「アタシに刃物向けるってことがどういうことになるか……身体に教えてあげようか?」
「ひっ……!?」
喉元にナイフを、眉間に拳銃を突きつけられるよりも冷徹かつ残忍な空気が、口裂け女の全身を包む。
「ひ……ひいいいいいぃぃぃっ!!」
メイが動くよりも先に、口裂け女は一目散に逃げ出した。
右手に握り締めていたハサミを、その場に投げ捨てて。
「……歯応えなーいの。特攻でも仕掛けて来てくれれば少しは面白かったのに」
口裂け女の後姿は一瞬で見えなくなり、メイは再び人間の姿へと戻った。
「いらないけど……放置ってのも危険かもだし、没収しときますか」
そしていらぬ戦利品、鈍く光るハサミを拾い、再び路地裏を進むのだった。